藤野 波美⑤
箱がひらかれていく。
その瞬間、あたしはなんとしても命を絶たなければならなかった。
けれどどうやって死ぬかなんて、あたしはちっとも知らなかった。
だから、棺はひらいてしまった。
巨大な赤い花だった。
その花の中心には、星川の顔があった。
「一般的に女性はお尻の肉がいいなんて言われるんだけどね」
いつきさんが、耳もとで語りかける。
「運動習慣がない人は脂肪が多すぎる傾向があるから、男性もだけど、その人の体質をちゃんと見て選んだほうがいいの」
星川の花、その土台には胴体が据えられている。頭と四肢をつけ根から切断され、皮を剥がれたうえに内臓まで抜かれたらしい体は奇妙なほど薄べったい。肋骨は、断ち割られた胸骨の中心から外側へ力づくで広げられており、凝固した黒い血溜まりを突き出たそれは、泥の底から咲く花に見えた。
「……太ももとか二の腕も同じ、運動をしすぎているとかえって肉質が固くなってしまうの。もちろん可食部は多いけど、固くなりがちだからバランスがむずかしくて」
星川の腕や脚はその肘、膝関節で切断され、八ひらの花冠にされている。肋骨をなぞるように突き出た四肢の花びらはやはり皮を剥がれて赤く濡れ、それは真珠と紅と二重の花弁を有する、この世にない花の模倣だった。
「……その点、ほほ肉は質が安定しているんだけど、ほら、量が少なくて……それはいっか。この子は脂肪もついてるし適度に運動もしてたみたいだから、どこでもよかった」
その花の中心に、星川の頭部は献じられていた。伸ばした腕の花から、両掌がさらに小さな花のようにひらき、その内に星川の頭が置かれていた。つまりそれは、胸郭と四肢と両掌の三重の花冠をもつ肉の花となった星川が、みずからを大いなるものへ捧げるような意匠なのだった。
「波美ちゃん。わかるかな」
そして、それは冒涜だった。
星川は穢されていた。星川の瞳は、消滅してしまった星を永劫探すよう宿命づけられた迷い子のように天へ向けられ、その内は暗く澱んでいた。目のきわには涸れた涙のあとがあり、表情には永遠の恐怖が刻まれ、もう星川がそのおそれから解放されることはないのだ。
「あなたはどこを食べたと思う?」
腹の底が熱くなり、嘔吐をした。それは激しかった。腹に入ったものをすべて吐き出しても嘔吐は続き、喉の筋肉が痙攣を起こしてもそれは止まなかった。
「わかってもらえた? わたしたちはあなたを憎んでいるんだよ」
彼女はほがらかに続ける。
「根井の一族は家守を継承し、守ってきた。窩ヶ森のためにね。それなのに、あなたのお父さんのせいでぜんぶ台無しになるところだった。お母さんは悲しんでいたよ。わたしはそんな姿見たくなかったし、代わりになるのも嫌だった。幸せになろうだなんて許せるはずがない。なにも知らずに楽しく暮らしているあなたのことだって、ずっと憎んでいた。あなたが苦しんでいると気持ちがいい。あなたが泣いていると胸がすっとする。あなたが不幸になって、わたし、こんな幸せはほかにない……」
その醜悪な胸の内を、彼女は嬉々と語り続ける。
それは姉のかたちをしていたが、あたしの姉ではなかった。
こんなものと話をしたいと、あたしは愚かにも考えていたのだ。
おそろしい。
彼女がおそろしかった。
しかし、それでもなお彼女の姿を視界の隅に追いやるほど、おぞましい事態が目の前で起きていた。
最初、それは恐怖が見せた幻像かと思われた。しかし喉が、動いている。血塗れた喉が弱々しく上下して、ついに口が動く。ぶぶぶっ、という音をたてて血と唾液で凝固していたくちびるが剥がれると、生きるということを思い出したように、星川の体が動き出す。
それは弱々しかったが、たしかだった。
星川が、息を吹き返したのだ。
その体を、全身に生えた根や蔓が支配していた。根は神経繊維のように胴と腕、脚や肩を結びつけようと這い回り、蔓は全身の関節や筋肉の硬直をほぐしている。
「新しい命を授けようとしたの。家守に願ってね。でも、残念だけどうまくいかなかった。だからね……少し待っていて」
そう言って、いつきさんは奥の扉から出ていった。
「脚を」
景さんがささやいた。
脚がどうしたというのだろう。星川の脚では、線虫のような根が筋肉の隙間を這い回っている。誤って肩と繋がろうとするそのつけ根をよく見てみると、痛ましげにでこぼこした断面からは伸びた肉や血管が垂れ下がっていた。切断ではなく、信じられないほどの力で引き千切られたのかもしれなかった。
「波美」
ふと、誰かが呼ぶ。
誰かが。
「波美……」
それが誰か、あたしはわかっているのだ。
「波美。波美」
星川が呼んでいる。
くり返し、くり返し。
「ねえ、波美」
こらえきれなくなり、声のするほうを見た。頭だった。みずからの体でつくられた花弁の内から、星川の頭があたしを見ていた。
「どうしたらいい……?」
その口の中で、無数の白い根がうごめいている。
「波美ちゃん。あなたが救ってあげるの」
戻ってきたいつきさんは、あたしの拘束をほどき、星川の全身に灯油缶いっぱいの燃料をぶちまけた。
「こうなってしまえば時間をかけて、苦しんで死ぬだけ。あなたが楽にしてあげないと。わかるでしょ?」
しかし、あたしの体は動かなかった。抵抗の意志さえ起きずただ呆然としていると、「これ以上、苦しめないであげましょう」と耳もとで声がする。星川を苦しめたくはなかった。見下ろす手には、いつの間にかライターが置かれていた。安っぽくて透きとおった、赤い。
じじっ。
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