藤野 波美④
厚い肉を時間をかけて煮込んだような、いい匂いだった。
ひらいた目には、日に焼けて茶色がかったクロスがうつる。それと、あまり磨かれないらしくくすんでかがやきのないカトラリーが一式。食卓なのだろう。見てみると、ダイニングテーブルには木肌のささくれや調味料らしい染みが目立った。
体を動かすことができないのは、やはり両手足を拘束されているせいらしい。
「ゆっくり休めたみたいね」
と、テーブルの真向かいでみどねえが――いつきさんが言った。
ゆったりと椅子に背中を預け、高貴を感じさせるようなたたずまいでこちらを眺めている、その影を、無造作に置かれた数十本の蝋燭が揺らしていた。
いつきさんの姿は遠くにあった。食堂らしい部屋は広々としているが、とても清潔とは言えず、元々は白塗りだったはずの壁は根深いかびで黒っぽく変色しており、床板のあちこちでひび割れや目詰まりが起きていた。
天井に張られた厚い蜘蛛の巣にも、生物の姿はない。
「そんな目で見ないでね。わたしも好きでしたわけじゃない」
そんな空間の半分ほどを、二十人はかけられるだろう長方形のテーブルが占めていた。テーブルの短辺にあたしといつきさん、長辺に景さんと折戸くんが向かい合わされていて、二人はやはり体を拘束されたまま口に轡を噛まされている。
いつきさんが指でテーブルを鳴らすと、白い畸形のかれらが食卓に料理を並べはじめた。窓がなく、時間はわからなかったが、ドアから光の入り込まないことからすると夜になったのかもしれない。あるいは奥まった部屋、地下であるとか。
やがてかれらが出ていくと、食事の時間が始まる。
「さ、おなかも空いたでしょ」
うす緑色のバルーンワンピースをまとったいつきさんは華やかに、姉の表情と姉の声で言った。
「わたしたち、わかり合わないとね」
食卓には立派な料理が並べられた。メインらしく大皿に乗っているのは、ころころした肉と数種類の根菜をすき焼きふうに煮込んだもので、香ばしくも甘い湯気がのぼっている。その横には新鮮なサラダがあり、器は大きくないものの、サニーレタスや細切りのニンジン、トマトやカイワレ、それと名前のわからない二色の葉物とが彩り豊かに盛りつけられている。お米やパンといった主食は用意されていないが、カブやゴボウ、サトイモの沈んだお味噌汁も食欲をそそる香りを漂わせており、おなかも気持ちも満ちるような、そんな魅力が食卓にはあふれていた。
それでも、一口だって食べる気は起きてこない。
「もっと早くこうできたらよかったんだけどね、でも、そうもいかなかったの。やっぱり、順序は守らないといけないから」
彼女は愉快げに言いながら、丸皿の肉をスプーンで半分にして口へ運び、丁寧に咀嚼をしてから飲み込んだ。それはなにか、見せつけるみたいな仕草だった。
「波美ちゃんはわかる? お姉さんもお父さんも教えてくれなかった? でも、感じない? 血はつながってるんだから、ねえ?」
ひとりで喋りながら、彼女は席を立つ。
あたしにはその意味がわからない。姉は教えてくれなかった。父も、なにも。あたしにはわからない。血のつながり。わかり合う。
「ねえ、波美ちゃん」
肩に手を置く。
「家守はちゃんと見ていたよ。お父さんが逃げてから、あなたが生まれてからも、ずうっと」
いつきさんはスプーンを取り上げると、あたしの皿の肉を半分に切り分けた。なんの抵抗もなくほろほろと裂けた肉は、やはり長時間をかけて煮込まれるたものらしかった。
そうして一口大にした肉を、彼女が口もとへ運んでくる。
「いやです」あたしは言った。「食べたくない」
その肉は、赤身にほどよく脂肪が乗っていた。温かい湯気に溶けたスープの香りもおいしそうだったけれど、食べるなと、体がうったえていた。
口を閉じて抵抗すると、くちびるを撫でた肉は膝の上に落ちる。
「やっぱり、あのひとの子供だね。すぐ逃げるんだから」
でも。
彼女はテーブルを回り込み、景さんの背後に立つ。卓上の蝋燭がうつす巨大な影は、壁を這いのぼるようにして天井まで伸びている。
「でもね、家守は見ているんだよ。みどりを見習って。あなたも責任を取るの」
みどねえの。
あたしの責任?
彼女のほほえみは、それが聞き間違いでないと伝えた。
「……おまえら、なんなんだよ。なにがしたいんだ」
繊維質の轡を乱暴に引き抜かれ、景さんは血混じりの唾液をこぼしながら言った。
「家守から授かった命には責任がある。わたしたち家族だけでなく、窩ヶ森の皆に関わることなの」
いつきさんは激しい抵抗も意に介さず、左手の拘束をほどき食卓に押しつける。
「順番だから」
と、いつきさんは言った。
それで景さんの小指を根元から、手の甲につくまで折り曲げる。
あたしはそのとき、音が聞こえるということを神に呪った。
その絶叫はすさまじかった。「ぎっ」と体の中のなにかが壊れる音が漏れ、傷ついた獣が憎しみのあまり放つような咆哮が、永遠を思われる時間を響き渡った。
「殺してやる」景さんは叫ぶ。「くそ! 殺してやる……」
えづきながら激しい咳をくり返し、ついに凝固しかけた黒い血のかたまりを吐き出す。景さんの目は、その血のように真っ黒な怒りで焼けている。
「これ以上見せる必要はないよね」
いつきさんは景さんの手を縄で縛りなおすと、唾液と血で汚れた口もとを拭いてやり、満足げな微笑をうかべた。
「波美ちゃん。指の関節の数ってすぐ数えられる? それでも逃げるなら、また考えなくちゃいけないけど」
「食べます!」
あたしは叫ぶ。
「ごめんなさい。食べさせてください……」
「そう、よかった」
心から喜ぶみたいに明るくこたえ、彼女はのんびりとこちらへ戻ってくる。
顔がかあっと熱くなり、視界が滲んでくるのを感じた。それは涙があふれるのだった。抑えきれないふるえとともに涙が喉までしたたり落ち、みっともなく、あたしは泣いてしまった。
後悔をしていた。
あたしがばかげたことを言い出さなければよかった。みどねえをそばで葬ってあげていれば。景さんに甘えていなければ、せめて誰かに頼らず、一人で来ていればよかった……。
星川。
あたしは恋人を思った。
だって、星川がどれほどおそろしいめに遭っているか……。
「くちをあけて」
言われるがままくちびるをひらくと、体の中に入ってきたスプーンを受け入れた。口を閉じるとスプーンが引き抜かれ、舌の上にはあの肉が残る。肉はおいしかった。こんな状況で味なんてわかるわけがないと思っていたけれど、それでも明らかなほど、やわくなるまで煮込まれて味の沁みたその肉はおいしかった。
飲み込むとまた次の一口を促され、あたしはそれに従う。脂肪がじゅっと溶け、舌を転がるたびに崩れた赤身が旨味を吐き出す。その強烈な味わいは、飲み込んでもしばらく口の中に残るくらいだった。
いつきさんは満足げにうなずき、景さんのそばへ寄った。同じようにスプーンを向けるが、景さんは一度口に含んだ肉を彼女めがけて勢いよく吐きつける。
「何本でも折れよ」
その声に、偽りは見えない。
しかし、いつきさんは無言で景さんを離れると、折戸くんの指を折ってみせた。彼は叫ばなかったが、苦悶の呻きが空気をふるわせた。いつきさんを睨む彼の表情はおそろしかった。苦痛と憎悪で目は血走り、それはむしろ陶酔的に感じられるほどだった。
ともかくそれで景さんは口をひらき、折戸くんも肉を受け入れる。
「わかり合わなければならない。命の底深くから互いを受け入れましょう」
しずかな威厳に満ちたいつきさんの声を合図に、白い畸形のかれらが食堂へ入ってきて、幅一メートルはありそうな木の箱をテーブルに置いていく。それは板の上に箱を被せているらしく、プレートと蓋、あるいは棺を逆さにしたような形状だった。
そこからはいやな香りが、生臭く、金属的な……調理前のターキーのような香りがこぼれてくる。
「……やめろ」突然、景さんが言う。「やめろ、待てよ。待て、わかった、なんでもする。私にしろ、おい! やめろよ!」
それはほとんど叫びだった。なにが景さんをそうさせるのかわからず、箱を見つめる。板と蓋の合わせ目の、そこかしこから蔓が飛び出している。うっすらと灰色がかった蔓には若芽がいくつも生えており、蔓をたどっていくと、金色の糸が――髪の毛が混ざっていることに気付く。サロンで月一回は染めなおしている、細い、金色の。
ああ。
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