藤野 波美③

「早く……」


 距離は最初の半分ほどまで縮んでおり、かれの背後、屋敷の陰からはさらに数多の白いかれらが姿をあらわしはじめている。


「景さん」

「動かないんだよ、くそ」


 それで激しく鳴っていたエンジン音に気付いた。景さんがアクセルを踏みつけるたびに怒れる獣のようなうなりをあげるが、車はいっこうに動かない。やがて音には金属的なかん高い響きが混ざりはじめ、焦げるような臭いも漂ってくる。


「後ろ!」


 折戸くんの声とともに、甘い臭いが窓から入り込んでくる。


 後ろから、立ち木の森を踏み出してくるのはやはりかれらだった。かれらの姿、歩幅も速度はまるで違っていたが、みな等しくあたしたちを目指すのは同じだった。


「くそ!」景さんがハンドルを殴った。「出るぞ。走れ!」


 鍵を引き抜いて飛び出した景さんの後を追う。車に籠城したら。かれらは百はいそうだった。背後と、屋敷の左はかれらで塞がれている。その姿のない離れを回り込むと、開いていた木戸に飛び込んで内鍵を下ろした。ステンレスパイプをドアハンドルに挟んで、ようやく息をつく。包丁は。どこかで落としたかそもそも持たなかったのか。


「……明かりは、窓だけか」


 景さんが荒い息をこぼしている。


「こっちは閉まってる。出口を探さないと」


 折戸くんは、母屋につながるだろう扉をたしかめている。


「ここ……蔵だ。おじいさんは……」


 葬儀の前日、いつきさんが言っていた。祖父は高齢で足腰も悪いが、車椅子をつかって動き回ることもある。しかし、この離れは並びの客室とはまったく違う蔵造りの建物だった。地面は土で固められ、窓は小さく、かびやほこりがたちこめており、とても人が過ごす環境には思えない。


「開けるぞ。場所は割れてる」


 と、景さんが外側に格子の渡された窓に手をかける。たてつけが悪いらしい。がたがたがたっと荒っぽい音、悪態とともに窓は開かれていく。


 がた。


 線状の光が、裸足のつま先を照らす。


 がた。


 錆びた車輪と、枯れ枝のような足が見えてくる。


 がたがた。


 灰色に干からびた腹、胸。手すりに添えられた死者の腕。しぼんだ顔面の皮は骨にはりついている。


 がたがたがたがた。


 老人の、死んだ男の膝にはあの、木の人形が置かれていた。


「おい、なんなんだよ」


 あたしは反射で口を塞ぎ、嘔吐や悲鳴を避けるので精一杯だった。立ち尽くしていると、視界の隅に折戸くんが入ってくる。彼はさっさと車椅子の死体に近付き、人形を拾い上げた。


「お姉さんの棺で見たのと同じ?」


 人形を光にあてながら、彼はたずねる。


「……そうだと思う、ですよね?」


 木の人形は腕でかかえるくらいの大きさがあり、黒ずんで汚れていた。生木の樹皮のようにざらざらした質感で、まるい胴体には肉厚の葉をもった灰色の蔓が巻きついている。


「らしいな」


 折戸くんは黙ったままうなずき、人形にレンズを向けた。全体像や背面、蔓や葉のアップを写真におさめると、身をかがめて人形を死者のもとに置きなおす。


「ラウラ」


 だから、その声は折戸くんから出たみたいに聞こえた。


「ベルデ」


 すぐに彼が後ずさると、死者が言うのだとわかった。


「ワツト・フ・リリー・アロ・ラウラ・ベロロアラ……」


 死体は続けた。だからかれは死んでいないのかもしれなかったが、生きているとはとても思えなかった。


「ロロ……」


 おそろしく冷たい声だ。地の底で死者を喰って生きる悪霊のおぞましさだった。肉のない顔は声音を発しながら少しも動かない、それは朽ちた操り人形のさまだった。


 背後でかん高い音が響き、誰かが悲鳴をあげたのだと思った。視界がまっ白になるとともにあの甘い臭いが入ってくると、扉が破壊されたのだと気付いた。それは遅すぎた。屋敷側の扉を破ってなだれ込んできたかれらは、またたく間にあたしの四肢を拘束した。かれらの肌はひんやりとして妙に固く、慈悲がなかった。


 何人かを、景さんが殴り倒すのが見える。


 やっぱり、景さんはすごい。


 けれど相手は百人――どころではないほどの軍勢なのだ。景さんは暴徒と化したかれらによって外へ引きずり出されると、突き倒され、両手足を押さえつけられたまま何度も殴られた。残酷な暴力だった。かたちのいい歯がころっとこぼれ、流れる血の色が変わった。あたしは暴力の恐怖に全身がすくみあがり、されるがまま太く目の粗い縄で車椅子に手足を縛りつけられる。


 景さんは力をなくしながら罵倒を続けていたが、口に白い繊維のかたまりのようなものを押し込まれると、やがて首からぐったりとうなだれて静かになった。


 折戸くんも、そしてあたしも景さんと同じ繊維のかたまりを口にねじ込まれる。そこから沁み出すねっとりと甘苦い蜜のような液体が喉の奥に流れ込んできて、瞬間の激しい嘔気と、心地良い安寧を感じた。かすかな痺れとともに全身の力が自然に抜けてゆき、もう恐怖も苦痛も味わうことはないのだと思った。

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