藤野 波美②

 数時間で窩ヶ森の入り口が見えてくる。


 道々の風景はいかにも田舎らしい素朴な美しさであふれ、やわらかな春の色合いに満ちていたから、森の魔術が生んだような暗い樹木のトンネルは、かえって邪悪な場所に感じられた。


 そしてトンネルを抜けて広がる緑樹の山道は、細く長くうねりながらどこまでも続いてゆき、それは来るものを飲み込んでは吸収していく巨大な消化管のようにも思われるのだった。


 振り向くと、過ぎたばかりの道がもう樹木で隠れている。


 いやだ。

 おそろしい。


 そう思うたび、バックシートの毛布にさわって気持ちを落ち着ける。


 だって、みどねえと、星川を助けるためにここへ来たのだ。


「着くぞ」


 景さんが警告をして、覚えのある小屋が見えてくる。


 山道を抜けてすぐの小屋――それか廃屋――はやはり粗末で、窓から覗くからっぽの室内にも変わった様子はない。


「あれが、藤野さんの言ってた門だよね」


 折戸くんが、扉の上部に刻まれた小さな紋様を指でさす。上辺じょうへんがアーチ状の長方形と、その外側に絡みつく歪んだ曲線。どの家にも同じものがあり、それはかれらがみな根井の家と同じものに属しているのだと伝えている。


「そもそも誰か住んでるようには見えないけど、こういう場所?」


 周囲をうかがいながら彼が口にするのは素朴なうたがいだったが、あたしはそれにこたえられない。


 集落の姿が、おおきく変わっていたのだ。


 立ち並ぶ家々はほとんどの窓が割れ、壁に亀裂が入り、建物全体が灰色の蔓に覆われていた。朽ちた土壁が天上から崩れ、野ざらしになるものさえあった。そういう家々を隔てていた耕作地すらも放棄されて長い歳月を経たかのように、腰丈ほどもあるススキや、冠のように葉を広げた野草たちに蹂躙されている。


 荒廃の眺めだ。


 ひとけはなく質素ではあったものの、たしかに人間の暮らす場所だった集落は、ほんの数日でまるきり廃村に変わってしまっていた。


「違うよ。前はこんなんじゃ」


 あたしは途中で口をつぐむ。


 景さんもそれに気付いたらしく、車の速度を落とす。


 荒れ果てた草叢に人が立っている。彼は、おそらく男性らしいその人は道に背を向け、植物に囲まれている。その形は異常だった。彼の肌は異常なまでに白かった。血が通うのかうたがわしいほど青ざめた体には毛髪の一本も生えておらず、全身裸の腰回りからお尻の肉は背中の倍ほどの幅があり、それらを支える脚は病んだ象のように分厚くたるんでいた。


 そういう人が、何人もいる。


 草叢の人々は、みな彼と同じように立っていた。なかには男性も女性も、どちらとも見分けのつかない人もおり、かれらは大人の体に新生児ほどの極端に小さな頭部をもっていたり、右腕のない代わりに左腕が地面へつくほどの長さであったり、へそや性器が肩甲骨と同じ体表面についていたり、腰から伸びた三本四本目の脚を宙にぶらさげていたりと、どれも人体構造のどこかが破綻していた。その全員が、まっ白い肌をあかるい陽光にかがやかせながら、日光浴でも楽しんでいるかのようにあたしたちに背を向けて動かない。


 そらぞらしく植物のなかにうかんでいるかれらは、さながら畸形の樹木なのだった。


 姉はここで産まれたのだ。

 そして父はここを逃げた。


 あたしは背中がぞっとなり、バックシートからホームセンターで用意した包丁やステンレスパイプを取り出す。前の座席では、折戸くんが黙ってそれらを受け取った。


 速度を落として進む車を、かれらは決して見なかった。


 やがて根井の家が見えてくる。

 敷地を囲う木々と、その奥に広がる山景のはざまに、背の高い柿葺きの三角屋根が覗いている。


「このまま行くからな。まわりをよく見といてくれ」


 車は立ち木の細道に踏み込んでいく。深い森のような樹冠が太陽を遮り、そこはうす暗かった。立ち木のなかにはやはり白い体をした人々がぼんやりと立っており、かれらは揃って樹上を見つめていた。まるで、降りてくるなにかを待つかのように。


「……なんなんでしょうね、あれは」


 あるものは、首が大きく抉れているせいか頭ががくっと左に倒れている。


「そもそも人間かってこと?」


 あるものは胸の位置から腕が生えている。


「人間じゃなかったらなんなんだ」

「知りませんけど、話し合いたい相手じゃありませんね。葬儀にもいましたか?」

「見てたら忘れないだろうな。波美、おまえは」

「絶対いなかったです」

「たとえば、だけど」折戸くんは続ける。「閉鎖された集落で近親交配をくり返して、生まれた畸形の人たちを集落ぐるみで育てている、とか」


 あるもの“たち”は、三人四脚をするかのように三つの身体が混ざり合っている。


「……冗談だよね?」

「どうだろう。人間じゃないってよりは本気かも」

「やめとけ。考えても仕方ない」


 立ち木の道を抜けると、根井の庭へ入る。


「ついでに訊けばいいだろ」


 広々としたその場所は、集落と同様に荒廃していた。元より目立つ装飾があるのでもないが、かつてはととのえられていた芝生も敷石さえ見えないほど雑草に浸食されている。


 そうしてみると、古びた屋敷は緑の海をさまよう孤島のようにさえ感じられる。


「正面から入るからな」


 折戸くんは、窓からスマホを出してシャッターを切っている。レンズは屋敷の上部へ向いていた。おそらく、どの家より巨大に、精密に描かれたあの門を記録するのだろう。


 景さんがアクセルを踏み、エンジン音が車体を響く。


 しかし、それはすぐに止まった。


「なんだよ、おい」


 景さんは屋敷の左側を見つめている。その視線の先に、白い枝みたいなものが立っていた。

 枝は揺れ、次の瞬間には足を進める――つまりそれは人だった。かれは枝かと思うほど細い体を左右に揺すりながら歩き、すぐに倒れる。右と左と、脚の長さがぜんぜん違うのだ。手をついて立ち上がり、今度は左足を引きずるようにして歩いてくる。その一歩は小さく、二度、三度とかれは倒れた。しかし近付いている。かれは倒れては起き上がりをくり返し、ゆっくりと、確実にあたしたちのもとへ迫っていた。


「なんなんだよ」


 やがてその顔が見えてくる。かれには目鼻口がついていた。しかしすべてが大きかった。小枝の先のようにほっそりした顔の中でそれらは凝集し、一部はねじれて重なり合い、子どもの描く落書きのように歪んだかたちをしているのだった。


「逃げないと、景さん」


 かれに表情は――あたしがそう思えるものは――ない。

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