7 藤野 波美
藤野 波美①
時々、波美さんたちのことを聞かせてくれますよ。
ヘルパーの遠藤さんが言った。
グループホームの廊下には甘いような香ばしいような、もやがかった匂いがたちこめている。朝食を終えたばかりなのかもしれない。家族向けの掲示スペースに今月の献立表が貼ってあるが、昨日と今日の部分は色鉛筆かなにかで臙脂色に塗り潰されている。
「かわらず一週か二週おきです。前は……月曜だったかな」
リビングスペースでは体操、もしくはレクリエーションがおこなわれていた。五、六台のテーブルにそれぞれ数人の入居者さんは音楽に合わせて体を動かしており、中庭に面した大窓から注ぐ陽光の影が、あたたかくかれらを照らしている。みな指導する療法士の中澤さんを注視していて、横を過ぎるあたしに気付く様子はない。
「娘さんのお顔を見たら、またはっきりするかもしれませんね」
日本庭園風にデザインされたホームの中庭は、玉砂利や池泉はないものの季節ごと色を変えるような本格的なつくりであり、あたしにとってはこの建物でもっとも落ち着ける場所だった。
「お父さん、あっちにいますよ」
それは、父にも同じであるらしい。
「藤野さん。ほら、娘さん。波美さんがきましたよ」
あたしの父、藤野
「それじゃあ三十分くらいで、帰るときは職員に声をかけてくださいね」
車椅子のロックをたしかめ、遠藤さんはリビングへ戻っていった。
車椅子に深く腰かけたまま、父は微動だにしない。
まだ黒い部分のほうが少しだけ多い髪は、最近切ったばかりらしく清潔に見える。顔にはまた皺が増えたようで、おでこにあった斜めの傷痕も地肌とほとんど見分けがつかない。
その白く濁りつつある目は、ぼんやりと庭のほうを向いていた。視線の先には庭園のマツや青いイチョウ、模造の石灯籠やその傘で日を避けるらしい孤独なガマの像なんかがあるけれど、きっと、あたしが父の見ているものを知ることはない。
父は若年性の認知症だった。発症は三年前。脳の血管が原因としてうたがわれたが、本当のところ父の頭のなかでなにが起きているのか誰にも説明ができなかった。およそ一年をかけて父は父自身をすっかりうしない、しかし、それは眠りについているということだった。時々、ほんのわずかな時間だけ目を覚ます。会話が成立することもある。あとの時間は、もう一人で立つこともできないのだという。
「お父さん」
ゆっくりと、眼球がこちらを向く。
目線はやがて庭へ戻り、だからそれは、ただの反射なのかもしれない。
「みどねえが……死んじゃったよ。お葬式も済ませてきた」
父はやさしいひとだった。あたしを産んですぐに母が死んでしまってから、ひとりであたしたちを育ててくれた。一緒に過ごす時間は少なかったけれど、あたしは不満を感じなかった。ものしずかで、心穏やかに、いつもあたたかく笑っている。父が見守っていてくれると知っていたから、暗い道だってあまり怖くなかった。
そういう父が、どうしてまだ幼いみどねえだけを連れてあの家を離れなければならなかったのか。
「……根井の家に行って……いつきさん、梓さん、初めて知ったよ。教えてくれなかったよね」
その真意を知るためにここへ来たのだ。
だってあたしはみどねえと、星川を助けなければならなかった。
姿を消した星川が戻ることはなかった。昨夜、あたしは半狂乱になって景さんを呼び、そのまま一睡もせずに朝を迎えたのだった。
「……家の裏に木があって、小さくて変なのがたくさんと、大きいのが一本。灰を撒いたら、みどねえは木とひとつになるんだって」
そのとき、あたしはなにが起きたのかわからなかった。
腕を打たれたような感覚に、「はっ」と喉から声が漏れる。父の手が、あたしの腕を掴んでいた。体は動かないはずだった。違う。立てないほど弱っているのは脚で、手はまだコップを持つくらいはできるのだから、それはおかしくない。本当におかしいのは、袖の上からでも痛むほどに握りしめるその手の力なのだ。
「痛いよ」
あたしは言う。
強い痛みに腕が痺れ、血のめぐらなくなったてのひらが秋の木の葉のように揺れる。
「燃やせ」
父は言った。
「燃やせ」
続けた。
「燃やせ」
父は「燃やせ」とくり返した。涙をこぼしていた。流れ落ちる濁った鼻汁が口角の白いあぶくと混ざっては激しくふるえる口もとではじけ、あたしの手にふりかかった。
「お父さん」
父は力を緩めない。やがて手の甲、指先からぞろっと白い毛が伸びてくる。無数の線虫のように肌を這い回り、体に巻きついてくるそれらは根だった。根は入り口を探していた。てのひらの肌の薄い場所を見つけると、ついにかれらは入り込んできた。侵略には痛み以上のくすぐったさが混じっており、あたしはそのとき自分が笑っているのだとわかった。
燃やせ。
「……藤野さぁん」
誰かが呼ぶ。
その人が、ヘルパーさんが父の前に立っていた。あたしを呼ぶのではないようだった。ヘルパーさんが腕をそっと掴み、すると父はかんたんに手を離す。根はもうなかった。からからに乾いた父の手は、あかちゃんみたいに頼りなく車椅子の手すりを握った。
「娘さんに会えてはりきっちゃったかなあ」
ヘルパーさんは軽い調子で続けながら、タオルで父の顔を拭う。頬から口もと。鼻のまわり。眼窩。その手つきがあまり丁寧でのんびりしていたので、父の目もとはしばらく濡れていた。
「藤野さん、平気だった?」
と、ヘルパーさんが言った。それであたしは初めて彼女をまじまじと見た。知らない人だ。何十回と通ったホームに勤めているはずなのに、あたしはその人を一度も見たことがなかった。
「いえ……」
もっとも、いつもと違う時間帯に来ているのだし、そもそも人の入れ替わりが珍しくないと聞くので、それ自体は決しておかしなことではない。
だからこの厭なかんじは、彼女の印象そのものからやってくるのだ。
「腕は痛くない? 見ようか?」
彼女は言った。ほほえんでいた。その声と、口の動きは揃わなかった。くちびるから数拍遅れて言葉が出てくる、だから言葉は永遠にくちびるを追いかけている。それは滑稽だったけれど、大げさに感情を込めるようなその声色とあいまって、破損した古い映像のような印象を彼女に与えていた。
「大丈夫です」
と手を引くと、彼女はうなずいてテーブルに戻った。そこで白い紙になにかを書き込んでは折りたたむらしく、折りたたんでは、地面に置いた白塗りの木箱へ放り込んでいる。
騒いでしまったせいなのか、中庭の入居者さんがこちらを見ていた。ぞっとして目をそらすと、ガラス越しにおばあちゃんと目が合った。穏やかなほほえみを浮かべていた。いつもつんとした態度でリビングルームの隅のほうにいるおじいちゃんも、うなだれていつも顔の見えなかったおばあちゃんも、そして中澤さんも遠藤さんも、全員が揃ってあたしを見ていた。
「血の臭いだ」
父はそれだけを言って、あたしの存在を忘れたように中庭へ視線を戻した。
辱められたような気持ちになり、父から目をそらす。顔がかっと熱くなった。ゆうべ流した腹の底の血が、まだ足もとに溜まっていた。
とうとうこらえられなくなり、帰ります、とヘルパーさんに声をかけた。彼女はつくりかけのようなほほえみを浮かべ、「またいつでもきてくださいね」とこたえた。紙を折る手は止めなかった。木箱をあふれ出した白い紙が、足もとでかさかさ音をたてていた。
頭を下げたままリビングを抜けると、誰もいない廊下で袖をまくる。腕には残った父の手の痕は、ゆうべ体につけられたものによく似ていた。
長細い、蔓のような。
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