藤野 波美②
「……あの、大丈夫ですか。聞こえますか?」
目をひらくと、蛍光イエローのランニングウェアをまとった女の人があたしを見下ろしていた。
彼女の肩越しには街路樹の枝がそっと揺れ、青葉の奥の冷たい月光を透かしている。
そうして、段々と意識がはっきりしてくる。
「大丈夫ですか?」
彼女は不安げにくり返した。
あたしは体を起こし、全身をたしかめる。そこかしこに浅い擦り傷や出血がみられるが、大きな怪我はないらしい。服や髪は青葉にまみれ、周囲にはまだあざやかな匂いを放つ枝が散らばっている。頭上では街路樹の枝がいくつも折れており、そこに落下したのかもしれなかった。
マンションからは十数メートルの距離がある、そこに。
「すみません。大丈夫ですから」
あたしは急いで立ち上がり、頭を下げた。体がやけに熱かった。早く部屋に帰りたかった。
だって、星川の姿がない。
「でも、それ……」
女性が言いづらそうにあたしのおなかのあたりを指さす。それで見下ろしてみると、ショートパンツが赤黒く濡れている。血だった。べとっとした血は裾から内ももをつたい、膝下まで垂れていた。
「やだ」
あたしは絶句し、カーディガンを腰に巻きつけると、警察を呼ぼうかと言ってくれる彼女から逃げ出した。
マンションへ戻った頃には全身が冷え切り、はだしの足はじくじく痛み、それなのに人目に怯えて歩かなければならないのは、涙が滲むほどの屈辱だった。
下腹がだんだんと、ずっしりとした痛みを帯びてくる。
まだ、十日以上はあるはずだったのに。
「星川?」
部屋に入り、すぐに呼びかける。
「どしたー?」
返事はドアのむこうから聞こえてくる。声がくぐもっているのは、寝室にいるせいかもしれない。少しほっとして脱衣所へ入ると、汚れたナイトウェアを洗濯機にひっかけ、下腹部をたしかめる。乱暴をされたわけではないようだった。また少しだけ安堵をして、ひとまずバスタオルを腰に巻く。痛み止めは。ショーツは。とにかく体を洗いたかった。
「なに? おふろ?」
星川が言う。
「ちょっと着替え」
とあたしはこたえ、鏡で全身をたしかめる。数え切れない小さな傷。それと腰や胸には青黒い内出血が、信じられないほど長細く伸びた五本の指のような痕が残っていた。
「へいきー?」
星川が続ける。
「なみー」
続けた。
「待ってるよ」
それで声はぴたっと止む。
「星川?」
今度、返事はない。
静寂が反響し、消えていく。
「星川……」
あたしは寝室へ急いだ。もつれる足を引きずってドアをひらくと、そこに星川の姿はなかった。からっぽのベッドには花が、無数の小さな未知の花でつくられた大輪の花が咲いており、美しくちりばめられたその三重環の中心には、小さな人形が横たわっていた。棺に入っていたのと同じ、あの、木の。
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