6 藤野 波美
藤野 波美①
なにか恐ろしい夢を見ていた気がするけれど、時間はまだ目を閉じてから三十分も進んでいない。
だからあたしは、本当は眠ってなんかいなかったのかもしれなかった。
ちいさな寝息をたてる星川を起こさないようにベッドを離れる。リビングにはあまり食べられなかったお蕎麦の香りが残っていた。おなかは空いているし、星川を不安がらせたくはなかった。けれどまなうらに、人間の燃えがらが焼きついていた。
「おまえのためだ」
あたしは言う。すっかり目は冴えていた。カーディガンをはおってベランダへ出てみると、ショートパンツの脚がひえびえと感じられる。つい先週までは、春が来たからと浮かれていたのだ。キッチンには姉の影がにじんだ。料理をしてくれるのか紅茶を淹れてくれるのか――夜光に目が慣れると、影は消えた。
自殺をする理由なんてなかったと、あたしは本気で考えていた。
うっかり泣きそうになり、安全柵に腕を乗せる。七階の夜景は心を落ち着けるには合っていた。弓張り月。たくさんの温かな暮らしをかかえるファミリーマンション。広く流れのゆるやかな川が上天の光を反射している。日付も変わった頃だというのに、河川敷の堤防ではウォーキングをするらしいライトがひとつ軽やかに揺れていた。
視線は自然に階下へ戻り、穴へ吸い込まれる。そう見えるのは、芝生の剥がれた地面の暗さのせいなのだった。
でも、もしも。
ほんとうに、姉がみずから死を選んだのだとしたら。
はっと顔を上げ、走り出しかけた思考を明日のほうへねじ曲げてみる。悩みはいくらでもあった。たとえば明日、父のもとへ行くべきかということとか。
きっと、父はあの集落や信仰について詳しい。
けれど彼は、それらをどれだけ覚えているだろう。
ことにこの冬は厳しく、あたしは半年ほど父である状態の彼を見ていなかった。
覚えず深いため息をつき、また目線が下がっていたことに気付く。川面の月はかたちをなくし、街路樹の列が波打つように揺れている。風が出てきたのだ。
だというのに、あたりはしんとしずかだった。
白い光がともっていた。
暗い穴の中心を突然湧き上がった光は、あたしの目線を釘付けにした。
光を発するのは花であるようだった――その正体は、花の周囲を群れる微小の羽虫の燐光だった。燐光は、群れが勢いを増すごとにかがやきを強め、すると花の形状が見えてくる。あたしは絶句した。ユリのかたちをしたその花には、人間の体がついていた。燐光がユリだけを照らすために体は夜の闇にぼやけ、はっきりと像を結ばないのだが、それは見えないがためにむしろ肉体の存在を強く感じさせた。
〈
花頭人がこちらを見ていた。
まっ白な、香りさえ感じさせるほどに美しい花弁をひらき、その内には喉と見える赤い不定の模様を広げて、悪鬼の舌のようにたくましい柱頭を突き出しながら、あたしをじっと見つめるのだった。
身動きが取れなかった。逃げよう、逃げろと思っているあいだに、花頭人はこちらへ近付いてきた。柱頭が伸びるのだ。獄吏の鞭のように揺れながら上階へ迫る柱頭に追従し、燐光をたずさえた羽虫が不快な羽音をたてる。ついに甘い腐臭を帯びた粘液が頬をしたたると、花頭人はあたしを打つべくその鞭をひらめかせた。
「眠れない?」
ふっと声をかけられ、魔術が解かれたみたいに体は軽くなる。
「驚かせた? ごめんね、でも冷えるよ」
星川の声だった。
肩に腕をまわしてくれるのは、星川のやさしい体だった。
見下ろした地上に燐光は、花頭人の姿はない。はあっと息をつき、すると気持ちは落ち着いていく。夢を見ていた。きっと、恐ろしい夢を。
「うん。いろいろあったから、ほら」
「わかるよ」
あたしの寄せた頬を、星川は受け入れてくれる。ひとに受け入れられるということは、どうしてこれほど気持ちがいいのだろう。星川のやわい頬には、さっきまで眠っていたひとの深く沁みた温かさがあった。
「眠れないなら、話さない?」
星川がささやく。
「お父さんに会おうか迷ってる」
それであたしは打ち明けた。
「お父さんに訊きたくて、なにか知ってるはずだから。でも、もうぜんぶ忘れちゃってるかも、時間を無駄にするだけかもしれない。それに、あたし怖いんだと思う」
「なにがこわいの?」
「もし、お父さんの意識がはっきりしてたらどうしようって。そしたら、みどねえのことを話さないといけないから。でも、いまのお父さんにどう話したら……星川?」
肩にまわされていた星川の腕は、襟もとをかき分けて服のなかまで入ってきたと思うと、今度は裾をめくり、おなかや腰骨をゆったりと撫でまわした。
「やめて……」
あたしは身をよじる。腕を掴んで抵抗する。しかしその行為はとどまらず、ついにショートパンツのなかにまで押し入ってくる。「ちょっと……」星川の体には、つめたく冷えた肌を溶かすような熱さがある。「星川、いやだ」ぎゅっと肉が潰れるほどの力で、星川が胸を掴む。あたしは苦痛に声をあげ、その手を引き剥がした。
「待って!」
そのとき思いきり上体をひねると、星川のやさしいほほえみが見えた。それはほんとうに見えた。星川はいつもと変わりのない慈愛に満ちた態度であたしを抱き寄せ、ひと息で体をかかえてみせた。それはロマンチックな行為でさえあった。月の舟が迫ってくる。夜は果てない海原のようだ。そうして、星川が安全柵を乗り越えると、あたしたちは七階から落ちはじめた。
落下の時間は長かった。星川の腕は体に巻きつき、根のようにきつく張った。まっ白になった星川の目は、細い糸が絡み合って眼球を偽っているのだった。「おまえのためだ」星川の声。「ガラテア」街路樹の枝がすぐそこまで迫っていた。
だから、あたしは死ぬのかもしれなかった。
「なみ。待っているよ」
その声とともに、目の前がまっ暗になった。
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