白井 景②

「スピーカーで話せる?」


 折戸が言った。「アカウントを共有してるだけだと思う」と彼が平静に続けると、波美はスピーカーフォンに切り替えて通話を受け取った。


『なみちゃん? 突然ごめんなさい。いつきです。無事に帰れた? うちではぜんぜんお構いできなくてごめんね』


 いつきのものらしい――みどりと同じ―その声は屈託のない、自然な調子だった。


『実はうっかりして言い忘れてたんだけど、次の月曜日にみどりの初七日法要をするの。急だけど、なみちゃんには来てほしくて。電話なんかでごめんなさい。どうかな?』


 いつきは矢継ぎ早に話し、返答を待って黙り込む。スピーカーから流れるノイズが、かさかさと肌を撫でている。


「うかがいます」

『よかった。じゃあ、葬儀と同じ時間に家まで来てくれたら』

「……あの!」

『なに?』

「……電話……いえ、梓さんのことなんですけど」

『ああ、そうね。びっくりしたでしょう?』


 いつきは続けた。


『でも、よろこばしいことだから』


 それで通話が終わる。


 よろこばしい。

 その言葉が、言葉をかたちづくるはなやかな声色が、意味をとりかけては煙のように意味をなくしながら、私たちのあいだをただよっていた。


「……あたしも行く」


 と、口火を切るのは星川だった。


「月曜だよね。べつにいつでもいいけど、波美。ひとりで行くとかなしだからね」


 そこに折戸が続ける。 


「電話口の人と二人で話したいんだよね。うん、ぼくも協力するよ」


 それでもう、状況は私が口を差し挟める場所から離れてしまった。


「おまえら、明日で都合つくか」

「景さん……?」

 ぽつぽつと全員の肯定をたしかめ、私は続ける。

「カルトだとか決めつける気はない。少なくとも私は……ただ目的がわからないし、焼身の件もある。だからこっちから行くんだ。合わせるんじゃなくて押しつける。明日、さっさと出向いて話を済ませよう。それと、いつきと話すときは私たちが近くで待機する。我慢してくれるか」

「えっと……はい。もちろんです」

「よし。あとは、最悪身を守る準備がいるか……」


 それから、実際的な話を進めて場は落ち着いた。万一に備えての準備や、窩ヶ森の信仰についての検討……考えるべきことはいくらでもあったが、ひとまず明日の行動を決めたところで休憩となる。


 そろそろ、頭の回らなくなる頃だった。


「ベランダなら平気です。灰皿あるので使ってください」


 夕日の注ぎはじめたベランダにはアウトドアテーブルとハイチェア、小さな鉢植えの置かれたフラワースタンドが並んでいた。二足のサンダルは、どちらかがみどりのものなのだろう。目についた白いほうを履き、ほとんど冷めたコーヒーをテーブルに置くと、意外にもたばこを吸うらしい折戸が肩を並べる。


「それ、うまいの?」

「悪くないですよ。慣れるのも意外と早い」


 電子たばこの白っぽい煙を吐きながら、折戸はこたえた。


「へえ。で、折戸くんはどう思う。波美の言ってること」

「それって、お姉さんが洗脳されてるかもしれない、っていう話ですか?」

「そう」

「どう思うって白井さんも同じだと思いますけど……亡くなった人は生き返らない。だからぼくはセルフケアというか、藤野さんがお姉さんの死を受容する手助けができたらと……ただ」


 と、考え直すように視線を遠くへおくり、彼は続けた。


「気になりますよね、『おまえのためだ』っていうあの言葉。似たような姿を、映画で見たことがあったな……あれはたしか、そうだな、悪魔の子供の物語だったけど、なら彼は、かれらは藤野さんになにを見ているんだろう……」


 そのよこがおに、炎のような夕焼けが降りている。


「……っていう興味も否定しませんが、結局は白井さんと同じ、星川さんとも同じ理由です。なによりも、友だちとして藤野さんが大切なんですよ。彼女はほら、とても善い人だから」


 そんな言葉を鵜呑みにするには、彼の表情は赤く染まりすぎていた。


「よくわかったよ。最後には同意しとく」

「なにより藤野さんが大事?」

「あいつがいいやつだってことだよ」

「ぼくからも質問いいですか? 白井さんは藤野さんになにを求めてるんですか」

「……求める?」

「だって、出会って数日の相手ですよ。同僚の妹、それは他人じゃないですか。それをここまで手厚く見守って……見返りとは言わなくてもなにか望みがあると考えるほうが自然じゃありませんか?」


 ああ、たしかにな。


 と、私はこたえた。たしかに折戸の言う通りだ。そこまで波美に尽くす理由が私にあるかといえば、こたえられるものは多くない。私は波美に自分を重ねていた。かつて現実をこばみ、誤った夢にすがっていた私自身。あのとき私がかけてほしかった言葉を波美に差し出している、ただそれだけだ。


「望みか、そうだな……おまえと同じだよ」


 しかし、波美は私ではなかった。


 先の打ち合わせの途中、波美は感謝をくり返した。頭を下げ、声をふるわせて。

 そういう素朴な善良さをもった人間が救われてほしい。


 私は叶わなかったが、波美はせめて。


「いいやつが少しでもいい目にあってほしい、そんなもんじゃないのか」


 折戸は納得するのではないらしいが、ひとまずその目をやわらかく細めた。


「お互い、そういうことにしておきましょうか」

「それで。なあ、波美ってたばこ吸うのか?」

「ぼくは見たことないし、吸わないと思いますよ」

「そうか」


 ベランダのテーブルをちらっと眺め、折戸はこたえた。もう先の話題を追うつもりはないらしく、吸い終えた電子たばこをしまいはじめている。


 卓上には銀の灰皿やオイルライター、そして黄金のアメリカンスピリット。

 それらはすべて、みどりのものなのだろう。


 顔を上げると、壁のようにせり立ったマンション群を縫った金光が目をつらぬいた。


 みどりがたばこを吸うなんて知らなかった。事務所の灰皿で会うことはなかったし、匂いを感じる距離に近付くこともなかった。隣に座ったときはどうだっただろう。吸っていた印象もないが、忘れているだけかもしれない。そんなことも、同じたばこが好きだったことも知らなかった相手のことを、いなくなって少しずつ知っていく。


 あるいはみどりも人生を疎んでいたのだろうか。

 たばこ一本分でも早く時間が過ぎてほしいと望んでいたのだろうか。


 波美が近くにいても、それでも。


「みどりさんって、どんな人だったんでしょうね」


 ふと、折戸が言う。


「ここを飛び降りるのは、すごく怖かっただろうなあ」


 その声をたどって視線を下ろすと、みどりの落下した場所は芝生が剥がされ、黒い地肌がむきだしになっている。数メートル四方、そこはさながら穴のように、いまにもなにかが這い出してくる暗い洞穴であるかのように感じられる。


「不安か」

「それはもう。白井さんは怖くないんですか?」

「まさか。私も不安で仕方ないよ」

「親切なんですね」

「あ?」

「いや、皮肉とかじゃありません。本心ですよ」

「折戸くんもだろ」

「言ったでしょ。ぼくは友だちおもいなんですよ」


 そうして、折戸は部屋へ戻っていく。


 私は柵に背中を預け――アメリカンスピリットはまだ燃えていた――部屋の中を眺めた。

 夕日の射し込む室内は、深いオレンジに染まっている。星川は荷造りをしているらしい。折戸も、絡まったコードを丁寧に巻き直している。


 果たして波美はカウンターキッチンに立ち、私を見ていた。

 私もまた、波美から目を離せなかった。


 それはみどりの残した影が、私たちのあいだを響くのかもしれなかった。


 最後までやるよ。

 と私はこたえる。


 灰皿にはまだ、みどりの消したたばこが残っている。

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