藤野 波美②
「終わったよ」
頭の横をつつかれ、ようやく声をかけられていたことに気付く。
二百人収容の一四〇一教室は既にほとんどが空席となり、残った学生たちは昼食をとったりゲームをしていたりと、午後までの時間を思い思いに過ごしていた。
「ごめん」とあたしは言う。「ほしかわー……」
星川は芝居がかってぱらぱらっとめくってみせたノートを、「あげる」と差し出してくれた。その、色素が薄い頬にやんわりチークを乗せた肌や、小さいのにぽってりと愛らしいくちびる、月一回はサロンで染めなおしている細い金の髪は窓辺の光をきらきらはじき、まさしくそのとき星川は、あたしにとっての天のつかいなのだった。
「星川好き」
やたらペンギンが腰回りを練り歩いているロングスリーブのワンピースとか、謎に巨大すぎる帆布のバックパックも含めて。
「あたしも。ほら、ごはん買い行こ」
昼の大移動がほとんど終わったらしく、大学構内はさほど混雑していない。一四号棟から中庭、テラススペースへ行くとさいわい壁寄りのベンチが空いていた。そこは昼から日陰になり、カフェテリアともほどよく離れていて、周囲の視線を気にせずいられる場所だった。
「食欲ある?」
星川がたずねる。
「あんまないかも」
「なんだったら食べれそう?」
「プリンとか」
「サラダパスタは? あっさりのやつ」
「いけるかも」
「おにぎりも足しちゃう?」
「むりむり」
「冗談だって。じゃ、場所よろしくね」
「あい」
あたしは「あざす」とつけ加え、星川を見送った。「ごめんて」と投げかけた声は、その背中に届かず地面に落ちてしまった。
星川は、サラダパスタもプリンもおにぎりも買ってくるのだろう。
それでおにぎりをバックパックにしまっておいて、食べられそうなら差し出し、そうでなければ自分の夕ごはんにしてしまう。
そういう星川をあたしは愛している。
そういう星川を、姉もかわいがっていた。
「……だめだだめだ」
と口の中でひとりつぶやいたのは、さいわい誰にも見られなかったらしい。気がつけば姉のことを考えている。周囲に意識を向けてみるものの、昼時の気の抜けた会話には芯がなく、どこかに集中するというのは難しかった。
それでスマホを、指の癖でトーク画面を覗いた。姉のいる場所はもう六番目になり、その姿は半分見切れてしまっている。スライドしても名前はあらわれず、『アカウントが見つかりません』というエラーメッセージと輪郭だけのアイコン、積み重ねてきたやり取りだけが残っている。
『ほんとうにありがとう』
最後に姉の残した言葉は、あたしのところまで届けられなかった。
そうやって、いろいろなものごとが遠くなっていく。
「あー」
首を振り、三番目にある景さんの名前をたしかめた。デフォルトから設定を変えていないらしい景さんは、姉と同じ姿だった。
『落ち着いたらまた、連絡します』
そう送ると、『わかった』と返ってきてやり取りは終わった。どう考えても余計なトークはしないひとだ。日取りくらい勢いで決めてしまえばよかった。次に誘うのは、なんとなく気が引けそうだった。
景さんを、あたしはぜんぜん知らないけれど。
「藤野さん」
顔を上げる。
「久しぶり。来てたんだね」
そこに
折戸くんはいつものカットソーに灰色パーカーと、キャンバス地エコバッグを肩にぶら下げ、目尻の下がった眠たげな眼をいつものように優しく細めている。
「うん。星川もいっしょ」
「星川さんは? 図書館?」
「お昼買ってくれてる。もう食べた?」
「二食のアジアンフェアよかったよ。ところで」折戸くんは少し声を固くする。「お姉さんのことは落ち着いた?」
「まあまあひとまず。かな」
「うん。お疲れさま。遅くなったけど、ご愁傷さまでした。なにか手伝えることがあったら言ってね」
「ありがと。あー……あれ、ノートいくつか見せてもらえると」
「ぜんぜん。藤野さんって明日は来る? 来ないなら週明けでも……」
そんなふうに、なにげなく話すと気持ちが軽くなっていく。
根井の家をあとにしてからは、駅の人混みにいても新幹線へ乗り込んでからもあの場所で目にしたことを考えてしまい、背後の気配や、過ぎていく木々の緑が気にかかった。ひとりが不安になり、すると星川が駅まで迎えに来てくれた。そのまま家に泊まってもらい、朝にはふたりで家を出た。休んでいるよりは、身の入らない講義でも出ていたほうがましだろうなと思ったのだ。
「折戸くんだ。ごはん食べた?」
戻ってきた星川は、ビニール袋にサラダパスタとプリン、キューブのチョコをぶら下げている。
「好きでしょ?」
と星川はおにぎりの封をきれいに開けながら言った。
そういうひとだった。
思いがけないチョコをあたしに与えてくれるのが、星川なのだった。
「あ、ぼくもこれ」
と折戸くんがエコバッグから未開封の板チョコを取り出す。感謝を告げながらそれらを受け取ると、胸に詰まったつかえがひとつ取れ、不安がたしかに薄らぐのを感じた。
そうやって、いろいろなものごとは遠ざかり、あたしはまた日常へ帰っていくのかもしれなかった。
サラダパスタも食べきれるように思えてきて、包装を破いているとスマホがふるえる。長いパターン。昼から電話をかけてくる相手がすぐに思い当たらず画面を見て、息が止まる。
『着信中 根井梓』
姉を看取った病院で知った名前。
姉と、その母の葬儀を知らせた名前。
だからその名前は、死とつながっているように思われた。
「出たくない相手?」
星川が冗談っぽく言う。あたしも調子を合わせ、「ちょっとなあ」とこたえる。うまくできたかはわからないが、星川はおにぎりへ戻った。
大事な連絡かもしれない。
法事に関わることや、家族についての話。もしくは大事でもない、忘れ物があったとか。
こっそりと腿の上で手を握り、電話に出る。
「もしもし」
返事はない。
「あの、なみです。もしもし」
しばらく返事はない。
電話口からかすかなざわめきが聞こえる。あの集落でそれはありえないだろうから、別の場所にいるのかもしれない。
手が汗で、じっとりと気持ち悪くなってくる。
「梓さん?」
あたしは呼ぶ。
『……ろ……』
と、かすかに聞こえてくる。
「すいません、声がよく……」
『……って……見ろ……』
声は段々はっきりしてくる。
『……立って、右を見ろ』
立って、右。
あたしは見る。
そこに梓さんがいる。
彼はゆっくりと歩いてくる。着物姿ではなくモノトーンの洋服で、それでも明らかに目立って見えるのは人より頭ひとつ高い背丈のせいかもしれないし、彼のもつなにかうす暗い存在の強さのせいなのかもしれない。
目が合うと彼は電話を捨てる。がしゃっ、と響いた固い音に視線を集めたまわりの人たちが、好奇の態度を向けはじめる。
「おまえのためだ」
突然、彼が言った。
数十メートルも離れながら、その声ははっきりとした輪郭をもって聞こえてきた。
「知り合い?」
それは星川や、折戸くんにも届いただろうか。
「ちょっと良くなさそうだけど、離れる?」
折戸くんの提案にあたしは同意している。けれど足が動かない。全身を拘束されたみたいに、彼から視線を外すことができない。
だからそのまま、あたしはすべてを見なければならないのだった。
「おまえのためだ」
彼はその表情の空虚がわかるほどの距離で立ち止まり、バックパックから真っ赤な箱を取り出した。箱は上部に持ち手があり、側面には『火気厳禁』の黒いシールが貼られている。
彼はキャップを外し、箱を頭上にかかげて自分に液体を浴びせはじめた。
淡いピンク色の液体が地面に広がり、鼻をつく臭いが漂ってくる。
やばい。
誰かがそう、言ったかもしれない。
彼は箱――ガソリン携行缶――を足もとへ落とした。祝いの鐘を打ち鳴らしたようなかん高い金属音が響き、中庭の誰もが彼を知った。一瞬で広がったざわめきのなか、「波美。おまえのためだ」と彼はもう一度言った。胸のあたりで右手が動き、閃光があたしの目を刺した。
ほのかにあたたかい風が髪を揺らす。
悲鳴は炎のようだった。巨大な火炎は地獄に立つ柱のように燃え上がり、梓さんはその中に放られた罪人然として身動きもしなかった。噴き上がった大勢の悲鳴が、その場を逃げようとする激しい足音やけたたましく椅子の転がる音と複雑に絡み合いながら、無限とも感じられる反響を続けていた。
「波美! はやく!}
星川はほとんど絶叫していた。
勢いよく腕を引かれ、バランスを崩してしりもちをつく。痛みは骨まで響くくらいだったが、それでも体を動かせない。目を杭で打たれたかのように、暴風のような轟音をたてて広がり続ける炎の中心で燃え尽きていく梓さんの姿を見つめていた。彼は言っていた。彼の声はよく聞こえた。彼はあたしの名前を呼び続けていた。
「波美」
そのときあたしは確信した。
「波美」
呪われた。
未知なる巨大な運命の楔が心臓に打ち込まれ、穢れた黒い鎖が逃げ得ない恐怖の国へあたしを引きずっていくのだった。
「波美。波美」
炎が次第に遠ざかっていく。星川と、折戸くんが体をひきずってくれているのだ。燃え上がる炎のなかで梓さんの影が小さくなる、それは彼が膝をつき、とうとう地面に倒れたからだとわかった。
「波美。波美。波美波美波美なみ……」
やがて中庭の角を曲がると、彼の姿は見えなくなる。声は聞こえなくなったのか消えてしまったのかわからないが、火炎の轟音とともに体内で残響していた。
「波美、ねえ! 大丈夫? 返事してよ」
星川が、呼びかけている。
それであたしは一度うなずき、ふるえる手でスマホを取り出す。
『白井景』
そのひとの名前にふれると、気持ちがすこし落ち着いて感じられた。
「あの」言葉はうまく出てこない。「梓さんが、火をつけて……」
『よく聞こえない。波美、どこにいる。大丈夫なのか』
と景さんがこたえた。
その声を聞き、あたしは涙が流れはじめるのを感じた。始まるともう、それは止まらなかった。アメリカンスピリットのにおいだった。あたしは嗚咽をくり返しながら続けた。
「会えませんか、すぐに」
景さんの声には、アメリカンスピリットのにおいがあった。それは姉とよく似ていて、だから、あたしは出会ったときから安らぎを感じているのかもしれなかった。
「姉じゃなかった。景さん。あれは、姉じゃなかった」
だから。
「助けないと」
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