4 藤野 波美

藤野 波美①


 棺を飲み込んだ火葬炉の蓋が閉じられると、燃焼が始まる。


 遠くを轟く雷のような音とともに、かすかな震動が体に伝わってくる。


 そうしてあたしは、姉とほんとうに離ればなれになってしまった。


 火葬場は窩ヶ森の集落を下り、海沿いを行った峠の中腹にあった。燃焼後の炉が冷えるまでは一時間程度かかるらしく、あたしはひとりその時間を、豊かな自然のほかになにもない火葬場の近くで待つことになった。


 いつきさんたちはみな、炉が動き出すとどこかへ行ってしまった。

 今後の打ち合わせがあるのだという。


 控え室はちょっとした教室くらいの小ささで、隅には錆びた折りたたみのテーブルや十数脚のパイプ椅子が寄せられている。小窓から射し込む日は薄く、タイル張りの壁は黒ずみやひび割れが目立ち、天井には薄茶色のずんぐりしたクモが厚い巣をつくっている。


 そして壁の向こうでは、姉の体が燃やされている。


 寒気に耐えられなくなって部屋を出た。


 火葬場の周辺には巨大な常緑樹が密生しており、日の光のほとんどを遮っている。空気が肩にのしかかるように感じられ、一旦そこを離れることにした。誰かに声をかけたかったが、ひとけがない。すみません、とあげた声はむなしく木々の奥に消えた。


 峠を少し下ると、薄くなった樹冠の隙間から日が落ちてくる。いくつかのカーブを過ぎると海が見えてきて、群れを成した白波のかがやかしい乱反射が、木々の合間から目をくすぐった。


 こころよい気持ちで、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。

 すると、森や潮の奥に不思議な匂いのあることに気付く。


 それは酸くもあり、かすかな苦みもあった。決していい香りではないのだけれど何度も嗅ぎたくなるようなその匂いをくり返したしかめていると、ふと頭上をたなびく淡い線が目に入る。森の中を昇っていく灰色の煙。出所は見えなくとも、それが火葬場のものだとはすぐにわかった。


 全身が一瞬で冷たくなる。


 火葬場を昇った煙は、木々の上空を漂ってふたたび森へ落ちる。


 それは決して、あの美しい海まではたどりつかないようだった。


 突然、左目に鋭い痛みが走る。あたしは顔を伏せ、涙の流れる目にハンカチをあてた。すぐに去った痛みの後、ハンカチには黒い点が残っていた。点は指でこすると夕暮れの影のようにあいまいに滲む。それは灰だった。灰は、姉なのかもしれなかった。


 顔をあげても、灰はもう落ちてこない。


 煙はやがて消えた。


「こんなところにいた」


 と、呼びかけたのはいつきさんだった。


「ひとりにしてごめんね。もうすぐに炉を開けるから、一緒に戻りましょう」


 あたしは返事に窮しながら、「わかりました」とどうにかこたえた。彼女は姉と同じ顔だった。同じ声をしていた。焼き尽くされた姉の体は、ほとんど森へ降りたはずなのに。


 結局、親族というのはいつきさんと梓さんだけだったらしく、火葬場では二人と住職さん、それとスタッフさんが待っている。遅れてしまったことを謝るとかれらは揃ってやわらかくほほえんだ。けれど梓さんだけが違っている。その目には優しさも冷たさもなく、それでも顔だけが笑っている。


 それでは。

 スタッフさんが炉を開いた。台車が引かれるとともにまだ高温を保った空気のかたまりが頬を打ち、その熱に息を呑む。そうして準備をする間もなく開かれた茎子さんの炉には、なにもなかった。


 はっ。


 目をうたがった。


 台車をよく見ると、白黒混ざった色の灰がちょうど人影のように散らばっているのがわかった。


 目が熱い。

 乾いた眼球が、ひりひり痛んでいる。


 それでも、どれほど目を見開こうと、そこに茎子さんの骨が残っていないのはたしかだった。


「グアロ」

「シ・シ」

「ラウラ・ア……」


 かすかに聞こえてくるのは、いつきさんと梓さんの声であるらしい。なにを話すのか、どんな言語を用いているのかあたしにはわからなかったが、聞き覚えのある音韻は葬儀で住職さんが唱えていたお経と近しいように感じられた。


 続けて姉の炉が開かれる。やはりそこにはわずかな灰ばかりが残り、それは姉のすべてが、たましいまでもが焼き尽くされてしまったかのような眺めだった。


 なぜ。


 考えることができない。骨は。姉は。わけもわからないまま、いつきさんに手渡された金属の匙で灰をすくい集めた。台車には真珠色の箱が用意され、灰は二人ぶんいっしょくたにそこへおさめられていった。


 いなくなっていく。


 頭がぼうっとし、景色が揺れはじめた。途端に足もとがおぼつかなくなり、台車のふちを掴むとその熱さで手を離す。そうして倒れかけた体を、いつきさんが支えてくれた。


「ちょっと休みましょうか」


 彼女はそう言って、あたしを外へ連れ出してくれる。「一瞬だったから火傷にはならないと思うけど」建物隅の水道は、蛇口をひねると赤黒い水をごぼごぼと吐き出した。「大丈夫。鉄錆だから。あまり使わないんでしょう」彼女は優しく言うが、いつまで経っても水は透明にならなかった。


「つらいよね」


 冷たくなっていくてのひらを、いつきさんはそっと包んでくれる。

 慰めてくれるのだ。


 姉の顔をした女が、姉の死を悼み、遺された妹をあわれんでいる……。


 骨をどこへやったんですか。あたしは言いかける。

 みどねえを返してください。あたしは叫びたくなる。


 でも、それはあたしがひとりで彼女を疑っているだけなのだ。整理のつかない自分の気持ちを他人に押しつけて晴らそうと、ただ姉と”似た”顔と声をしていて、その存在を知らされていなかったというだけの理由で、あたしはあたしと同じにきょうだいを亡くしたそのひとを毀損しようとしている。


 そんなのは、正しくない。


「ほんの少しかもしれない。けど、なみちゃんの気持ち、わたしにもわかるよ」


 でも、あたしはどうして、この人のことをなにひとつ信じられないのだろう。


「大丈夫。何も言わなくていいよ。無理しなくていいから……」


 助けてほしかった。みどねえの声を聞きたかった。星川のいるところにだって帰りたかった。


 景さんに、どうしたらいいのか教えてほしかった。


 結局、火葬場へは戻ることなく窩ヶ森の家へ帰った。二人ぶんの灰をおさめた箱をかかえて屋敷裏の大樹まで来ると、いつきさんは箱の蓋をひらき、あっけなく木の根元へ灰をばら撒いてしまった。


 灰はさらさら散って地面を淡く染めると、空気に混じって消えていく。


 追肥のようだった。


 育てていたビオラの鉢植えが揃って元気をなくしたとき、追肥を試したことがあった。鉢のほとんどは元気を取り戻したけれど、ひとつは萎れたままだった。なにが結果を左右したのかはわからない。鉢はその後もいろいろな手当てを重ねたものの、甦ることはなかった。


「グラオラ・エラ」

「カ」

「エリエリ」

「シ」


 すぐそばでは、いつきさんが梓さんと声を交わしている。周囲が静かなために二人の声をはっきりと聞き取ることはできたが、やはり意味は理解されない。未知の異国の言語のように、音韻のみが耳を過ぎていく。その感覚は、なんといえばよいのだろう、強烈に厭だった。疎外感というのではなく、言語そのもののもつ音の芯の欠損や、抑揚のほとんどない発音、二人の声の奥に潜むざらざらと肌を撫でるような濁った響きが、本能にうったえるような激しい嫌悪を呼び起こしていた。


 飛び降りた姉。棺の中の人形。灰。


 同じ顔の女。


 姉がもし、ほんとうにこういうものたちの元へ還っていくのだとしたら。

 あたしは、間違えたのかもしれなかった。


「なみちゃん」いつきさんが呼ぶ。「お疲れさま。これでひとまず葬儀は終わりです。疲れてるみたいだけど、大丈夫? すぐに帰るのがつらそうだったら、もうひと晩休んでいってもいいよ」


 そのとき鋭い視線を感じ、あたしは振り返った。肩を掴むような力強い視線は、ひとところに定まらなかった。人間樹の園の、すべての人間樹の影にあたしを暗く憎む人が隠れていて、絶えずこちらを睨みつけているような感覚だった。


 あの木は、こんな近くにあった?

 あの木は、ああいうかたちをしていただろうか。


 視線の恐怖をこらえながら、いつきさんに向き直った。

 すると視界の上のほう、家守の木にとまっている鳥に気付く。


 鳥は動かなかった。高さ四、五メートルくらいの枝に足を置いて休んでいるかと思われたが、じっと見ると死んでいるのがわかった。目が白く濁り、首が斜めに傾き、羽はだらしなく垂れ下がっている。体のあちこちを飛び出した白い紐は、ほつれた羽にも腐敗して湧いた虫にも見えたが、あたしはそれを根だと思った。


「お気づかいすみません。でも明日には学校もありますし、予定通り帰ることにします」


 いつきさんはうなずいて、「そうね」とほほえむ。


 そしてこう言う。


「また会いましょうね」


 姉の顔をしている。

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