白井 景⑧

 お疲れさま、とだけ羽村さんは言った。


 報告に時間を割くこともなく、一日働けば休みだからとけだるげに管理室へ戻っていく。それは私も楽だった。いつも通り河川敷へ向かうと、思い思いの時間を楽しむひとびとを眺めながら担当区域を観測し、午前が過ぎた。


 鶏サンド。

 チョコレート。


 波美のもっていた大袋のチョコは、輸入食品を扱う近場のスーパーに並んでいた。甘みが抑えられてアメリカンスピリット・ゴールドに合うそれは、これから私のお気に入りになるのかもしれなかった。


 波美からの連絡は昨日のうちに届いた。感謝を伝える長文と、近いうちにあらためてお礼をしたいという内容で、数度の往復でやり取りは終わった。


 なにごともなければそれでいい。


 けれど私は、もう一度自分から連絡をしようか迷っている。

 波美のためなのか、あの集落であったできごとのせいなのか、あるいは。


 ぼんやり悩んでいるうちに昼休憩が過ぎる。やはり疲れが残るのだろう、春の日射しが目を刺すように感じられる。


 基準点〈13-4-4-1-000312〉は、みどりの担当区域だった。群生するカタバミにポールを打ち、副基準点〈13-4-4-1-000312-1〉へ移動して、観測した座標〈977.151,189.665〉をアップロードする。


 エラー。


 端末は十センチ以上のずれを示していた。


 慣れない場所なので不正確になったのかもしれない。測量用ポールと青いリボンを結んだナズナの位置をたしかめ、設置し直したカメラを覗く。手順は体が覚えている。端末がエラーを吐き出す。やはり十センチ以上ずれている。


〈13-4-4-1-000312-2〉のタンポポ。

〈13-4-4-1-000312-3〉のアブラナ。


 いずれも十センチ前後のずれを吐く。プロトコル。上長へ報告して指示を受ける。スマートフォンを取り出したところで、波美から着信が入った。


 世界は正しく回っている。


 応答する。息が浅くなっている。電話口、波美のいる場所では激しい騒ぎが起きていた。遠いようだが悲鳴も聞こえてくる。


「……つけて」


 波美がなにを言うのか、私にはわからない。


「よく聞こえない。波美、どこだ。大丈夫なのか」

「会えませんか、すぐに」


 今度声はよく聞こえた。破滅的な喧噪のなか、波美は嗚咽まじりに続けた。


「姉じゃなかった」


 景さん。

 波美が私を呼んだ。


「あれは、姉じゃなかった」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る