白井 景⑦

 しずかな朝だった。


 空気はまだ澄んで冷たかったが、日の溜まる場所にはたしかな暖かさが感じられ、大気へ還っていく夜露が木々の緑にあわく煙ったような色合いを与えていた。


「まぶし……」


 と、波美がつぶやく。

 細めた目にはゆうべの涙のあとが残っており、悲しくも、その表情には黒いワンピースがよく似合っていた。


「もう少し待ってから行くか」


 窓のむこうでは、弔問客がつれだって庭を抜けていく。集落の人々なのだろう。男性も女性も年配ばかりのかれらは、それぞれ手に一本の枝を持っていた。枝は黒っぽく、葉が大きい。はっきりとは見えないが、裏の大樹とよく似ているようだった。


「あとから入るより、いま行っちゃったほうが楽ですよ」

 波美はこたえる。

 そつのないほほえみが、むしろそのはかなさを際立てている。


 私たちは離れをあとにし、母屋へ向かった。弔問客はすでに座敷の半分ほどを埋めていたが、やはり顔見知り同士らしく声をひそめつつ話し込んでいる。さいわい、後から入った私たちにはさほど興味もないらしい。


「波美さん。白井さんも」と、声をかけてくるのは梓だった。「こちらへきてください」


 彼は重々しい着物姿のまま裏の庭まで私たちをみちびき、大樹のところまで来ると、その枝を一本ためらいもせずに折ってみせる。


「葬儀にはこの、家守の枝をもちいます。しっかりと、葉のついているものを選んでください」


 私は頭上の葉を掴んだ。実際にふれてみると、肉厚の葉はがっしり固い。木肌のごつごつした枝は手触りが粗く、曲げてみれば思いがけずしなやかで、折れるときには高らかな音をたてる。断面からは透明でねばりけのある液体がどろどろとしみ出し、それは深い森の臭いをたちのぼらせた。


「ほら」

 と枝を波美に差し出す。


 するとそれを、梓が止める。


「自身で折った枝でなければ」

 ということだった。


 波美はうなずき、豊かに繁った枝をみずから折った。


「手間をかけます。この後も見たことのない儀礼が続くと思いますが、見たまま真似をしていただければ難しくありません」


 梓はけして振り向かず、質問を拒むようだった。


 屋敷へ戻り、座敷の後方端に腰を下ろす。弔問客は座敷を埋めても場所が足りないらしく、廊下にまで席を広げている。親族の居場所は最前列に用意され、波美はそこで背中を縮めていた。梓や、どちらかといえば大柄ないつきが隣にいるせいか、その体はさらに小さくなって感じられた。


 座敷の正面には二つの棺と白い祭壇があり、その眺めは昨日と変わらない。写真と位牌、真珠色の箱。瓶から伸びた短い枝。やはり空虚な眺めだったが、多くの人々に囲まれるとそうした空白も意味を帯びて感じられてきて、まなうらには友人の葬儀が降りてくる。金色の仏具だとか、上品にも色あざやかな装飾品。花。彼女はわかりやすくきれいなものが好きだったから、今日のようなさみしい光景にはきっと文句を言っただろう。


 ――花。


 それで私は気付く。


 花がないのだ。


 あざやかな花々であふれていた友人の葬儀と違い、この場所には花が存在しなかった。いや、葬儀に花を用いるかどうかであれば主義の違いで片付くかもしれないが、そもそもこの集落に来てから一度でも花を見ただろうか。道々から敷地の庭、裏の森。人間樹と、家守の木。記憶の眺めはどれも春のただなかにありながら、一輪の花も咲かせていなかった。


 でも、ほんとうに?


 考え込んでいるうち、住職らしい人が座敷に入ってくる。濃紫の袈裟を着た彼は弔問客を見ながらなにか言うのだが、広い空間の端にいるせいかそもそも発音が悪いのか内容は聞き取れない。彼はそのうち棺を向いて、なにか唱えはじめた。手にはやはり一本の枝を握っている。


 ほんとうに花はなかったのだろうか。葬儀や波美のことを気にかけて、見落としていただけではないのだろうか。


 読経らしい声は続く。聞いてみると、彼の唱える言葉の多くが『ア』の母音で閉じているらしい。しかしどれほど耳を傾けようと言葉は意味を伴って聞こえなかった。それは耳なじみのない言葉のせいだけではなく、ぼんやり口を開けたままでいるような曖昧な発音のせいにも感じられる。


 私の知る葬儀ではないのだから、この場所に花がないことには特別な理由があり、自然の花だって私が気付かなかっただけかもしれない。


(――灰を撒くって。あの木とひとつになるのが、根井のならわしなんだって)


 そのときふと、強い視線を感じた。

 視線のほうへ顔を向けると、廊下に座っていた少女と目が合う。


 昨日、道を教えてくれた女の子だった。


 少女はすぐに目をそらすが、また私を見る。今度は視線を外さない。少女のくちびるは、きわがひきつれている。茶色がかった虹彩が時間をかけて縮んでゆき、すると私は穏やかな気分が胸に満ちてくるのを感じた。疲れや重苦しい空気を気にかけずにいられる寛容な心持ちになり、なにもかも周囲がゆるしの気配を帯びてきて、むしろ体に緊張を保つのがむずかしくなってゆき、やがて友人を思い出した。


 あたらしい部屋。ふたりで引っ越したあたらしい部屋で出前をしたMサイズのマルゲリータとチキンハラペーニョのハーフアンドハーフをコーラで流し込むのにも半分で飽きて、ベランダでたばこを吸った。あたたかい夜だった。路地のネコが激しくさかり、ネオンが私たちにみだれた色をつけていた。そのベランダにつながるドアノブに薄緑色のすずらんテープを何重にも巻きつけて首をくくった友人を見つけたとき、私はまず、いやだなと思ったことに驚いた。臭いのせいだった。漏れた糞尿が臭うのをいやだと思ってとっさに鼻口を袖で覆うと、恥ずかしく、情けなくなった。愛していたのに、というかこの瞬間も愛しているひとであるのにはなんら変わりがないはずなのに、私は悲しむとか否定するとかでなく、臭いをいやだと思うところから彼女の死を受け入れはじめたのだ。

 それらの過去がミラーボールの光のようにまったく同時に頭のなかでまたたき、おそろしくあざやかな歓喜と悲哀が立ちあらわれると、私は号泣をはじめた。声もあげず、ただこぼれた涙が腿のあたりでワンピースにぬるく沁みていくようすを感じていた。それは苦痛だったが、さらに大いなる解放でもあるようだった。


「景さん」

 と、名前を呼ばれる。


 顔を上げると、波美が心配するように肩にふれていた。弔問客たちは続々と棺に列をつくっており、私は慌てて目のきわを拭うが、涙は浮かんでさえいなかった。


「終わったのか? もう?」

「……十分くらいでした」


 十分。


 くり返すと、波美がうなずく。


 信じられなかった。あまりにも短すぎる。たとえそれが形式の違いなのだとしても、私が受けたあの感情が、それほど短い時間のできごとだとは到底思えない。


 しかし、廊下にはもう誰の姿もない。


 あの少女も。


「悪かった」


 列の最後尾に並び、みどりのなきがらを見下ろす。

 その様子に、昨日と変わりはなかった。


 人形は、あの小さな木の人形はどこへ行ったのだろう。


 棺には、みどりが過去に使っていただろう服や箸、櫛などが入っており、その周囲を弔問客がささげた枝が囲んでいる。友人は、白や薄紅の花に包まれていたな。私はなきがらに家守の枝をささげ、みどりに別れを告げた。


 波美、梓、いつきが順番に別れを告げ、人の流れに乗っておもてへ出る。家から担ぎ出された棺が黒い車へ運ばれると、いつきが深く頭を下げて感謝を告げた。


 それで葬儀が終わる。


 棺をおさめた車がいつきを乗せて走り出すと、弔問客たちはだらっとした足取りで集落へ帰っていった。もしかしてと目をこらすが、かれらの列にもあの少女の姿は見つからなかった。


「景さん」と、波美が呼ぶ。「親族はこれから火葬場らしくて、あたしも行きます。いろいろと、ほんとにありがとうございました」


「おまえ、帰りはどうなった?」

「大丈夫です。車が届いたので」

「そりゃよかった。でも」

 私は続ける。

「一人で平気か」


 波美はうなずきながら、躊躇するように見えた。背後では、梓を乗せた黒い車が待っている。親族というのが何人いるのかはわからないが、そこにいるのは彼ひとりらしい。


 やがて、波美は緊張するふうに深く息をして、ジャケットの袖をにぎりながら言った。


「あの、連絡先を、教えてもらえませんか?」

 それで私は、気持ちがすうっとやさしくなるのを感じる。

「うん。スマホ持ってるか」

「はいっ! あの、帰ったらお礼させてください。たくさんご迷惑を……」

「いいよ。そんなの」

「いえ、ぜったい」

「……わかった。じゃあ、帰ったらまず連絡しろ」


 その意味を理解するらしく、波美はしっかりとうなずいてみせた。


 黒い車を見送ると、私は弔問客を離れて駐車スペースへ向かう。

 日はまだ天頂にも昇らないというのに、ひどく体が疲れている。近場で昼食をとる予定でいたが食欲もなく、波美のくれたチョコレートだけが無性に恋しかった。


 いまひとつ落ち着かない気持ちをかかえながら車へ近づくと、そこに少女がしゃがんでいた。


 黒い花のようなワンピースに、底の薄いローファー。


 少女はドアにあずけていた背中を離し、こちらをじっと見上げた。小学生、三、四年生くらいの年頃らしい。まだ未発達の骨格は細く、肉付きもあまりよくない。けれど顔色は悪くなく、肩まで伸びた髪もまともに手入れをされているようには見える。


「どうした?」

 と私はたずねた。


 少女は落ちてくる日に茶色の虹彩をひらめかせたが、葬儀のときのような魔術はもう起きなかった。


「メイです」

 少女はこたえた。


 不思議なほど、かなしく響く声だった。


「……あーっと、名前? お母さんはどうしたの?」

「これを、もらってください」


 と、メイが差し出すのは、ちいさな一輪の花だった。

 花は白かった。白い八枚の花びらに、浅黄色の萼がついていた。言われるがまま差し出された茎を受け取ると、それが造花だとすぐにわかった。


 メイはまだなにか言おうとするらしく、くちびるが動こうとするたび、ひきつれが不器用に動いた。しかし時間をかけても声にはならず、ついに私は口をひらいた。我慢ができないというのではなかった。どうしてだろう、私はメイを助けたかった。


「帰る場所はあるのか」


 それを悪いおこないだと知りながら、メイのまなざしやことばの深いところにある暗い泉から彼女を救い出したい、この子の偉大な天使になりたいという激しいおもいが、私をつき動かしていた。


「いっしょに来るか?」


 メイは背を向けて走り出し、見る間に曲がり角の向こうへ消えていった。


 その後ろ姿は、どうしてか、少しも似ていないはずの友人と重なって見えた。


 メイを見送ってぼうっとしていると、突然激しい痛みが腰の奥にあらわれた。内臓を乱暴に毟られるような苦痛だ。それほどの痛みは最近なかった。ドアにもたれかかり、ハンドバッグから取り出した頓用の鎮痛薬を二錠飲みさしの水で流し込むと、痛みがおさまるのを待った。


 造花の白い花は偽物であっても、それでも美しかった。


 しばらくして痛みが引くと、車で来た道をたどる。集落にはひとけがなく、あれほどいた弔問客の姿はどこにも見当たらなかった。


 集落を出ると、山道の途中に花は見つかった。深い紫色をしてはなやかなその花の名前を私は思い出せず、調べてみるとアザミというらしかった。でも、ほんとうにそうだろうか。なにかもっと、やわらかい名前がその花にはついていたような気がする。

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