白井 景⑥

 屋敷の夜はしんとしずまりかえっている。


 風が出てきたのか、森の無情に揺らぐ音がかすかに聞こえてくる。夜光は淡く障子戸を透かして室内にそそいでおり、それが私の体を私のものでないかのように青白く染めていた。


 とん。


 隣室から、襖を叩かれる。


 とん。とん。とん。


 波美はこう言っていた。


『姉は、父も恐れてるみたいだった』


 襖をひらくと波美ははっと顔を上げる。ありがとうございます。膝の上で重ね合わせた手が、はっきりとふるえていた。


『……父は姉だけを連れて根井の家を出たんです。姉からは、父が一方的に離縁を望んだって聞きました。でも、父はなぜそうしたんでしょう。梓さんを置いていったのは? いつきさんのことは? 事情があるはずなんです。あたしには話せなかった、なにかが』


 廊下に射しこむ青い光が、行く先に深い影を落としている。


『……で、なにがしたいんだ』

『姉の体なのかたしかめます。今夜しかできません。いつきさんがいたら詳しく調べられないし、明日には燃やされてしまうので』

『たしかめるって、おまえが看取ったんじゃないのか』

『そうです。ずっといっしょでした』

『なら、たしかめるもなにもないだろ』

『でも、そもそも、姉には自殺する理由がなかったんです』

『事故じゃなかったのか?』

『姉は飛び降りました。茎子さんが亡くなった連絡を受けてすぐ、あたしのそばで』

『……自殺じゃない?』

『わかりません。でも、姉は、木を植えてたんです。まだ小さな木を。死のうっていう日にそんなことしますか?』

『だとして、たしかめてどうする』

『わかりません。わかんないですよ。でも、なにかがわかるかもしれない。もしかして理由があって、それで……』


 結局、私は波美の提案を受け入れた。

 やり場のない波美の気持ちが、私には少しわかったのだ。


 座敷へ着くと、波美が袖を掴んでくる。


 ――飛び降りた姉と、同じ顔の女。


 障子戸は音もなくひらき、まっ暗な座敷にも段々と目が慣れてくる。


 ――もし、なにかがわかってしまったら。


 座敷に人の気配はなかった。奥の襖は閉じられており、物音も聞こえてこない。長く閉め切られていたのか、うっすら湿った黴のような匂いがただよっている。考えてみれば、線香や蝋燭がないのだ。そもそもそれらを立てる台も用意されていないようだった。


 それで私は、不明の違和感を覚える。


 足りなかった。


 線香や蝋燭だけでなく、この場所にはなにかが足りない。あるいはここだけでなく、この集落についたときからずっと、なにかが欠けているような印象を受けていた。しかし、それがなにかはわからない。


 そのこたえを得られないまま、棺のそばへ腰を下ろした。


「景さん」


 波美はしずかにささやいた。


「たいせつなひとを、なくしたことがあるんですか」


 あるよ。私はこたえる。


「……ごめんなさい」

「いいよべつに。それで?」

「あたしは、どうしたらいいと思いますか?」

「好きにすりゃいい」

「そう、そうですよね。そんなのあたしの問題だし……」

「いや、悪かった。じゃなくて、つまり好きなようにしていいんだ。暴れてもいいし泣いても、ずっと寝てるだけでも。いまおまえのしたいことをすればいい」

「そしたら、なんとかなりますか?」

「なんともならなかったよ。少なくとも私は」

「それでも、するんですか」

「だから、したいようにするんだよ。結局なにもかもどうにもならないんだ、せめていまの自分くらいはどうにかしてやっていいはずだろ」

「いまのあたし……」


 波美は棺のふちを撫でる。

 指先で、てのひらで閉じた小窓にふれ、こう続ける。


「景さん。あたし、姉が死んでないかもって思ってます」


 わかるよ、と私はこたえる。


「生きてるんじゃないかって、信じてる……」


 ゆっくりと、沈黙が落ちた。

 波美はもう一度深く息をして、棺の蓋に手をかけた。蝶番のない蓋は抵抗もなく持ち上がり、すると波美は「あっ」とこぼす。


「なに、これ」


 棺には人形が眠っていたのだ。

 みどりに代わるように白布に横たえられていたのは、木でできた小さな人形だった。


「これもならわしだって?」


 波美は黙ったまま、首だけを振る。


 人形は腕で抱えられる程度の大きさだった。はっきりとは見えないが黒っぽい色をしていて、さわってみると、ざらざらと指にかかる質感がある。生木を用いているのだろう。まるい胴体や、腕らしく伸びた枝には固い蔓が巻きついており、肉厚の葉はこすれ合うとうっすら森のような音をたてた。


 もうひとつ、並んだ棺に視線が吸い込まれる。


 みどりの母の、茎子。


 閉じた小窓。


 そのとき襖が、奥の間からそっとひらかれて光がさす。まぶしさに目が慣れると、そこにいつきが立っているのがわかった。


 吊り電球の白い光背の落とす影が、その顔を塗り潰している。


「どうしたんですか。こんな遅くに」


 彼女の声色は、いかにもなにげなかった。


「……どうしても、姉に会いたくて」


 波美は打ち合わせた通りにこたえる。


「夜はさみしいものね」


 そう言って、いつきは「おいで」と波美を招いた。


 私たちが立ち上がると奥の間の明かりは弱められ、やさしいイルカのように細められたいつきの目が見えてくる。白色の和服は眠るときのものらしく、その線は昼間よりやわらかい。


 彼女が膝をついたそばには二組の清浄な布団が並び、顔に白布をかぶせられた二人の遺体が眠っている。


 白布を丁寧に畳みながら、いつきは根井のならわしについて話した。

 葬儀を終えるまで、夜のあいだなきがらは棺から寝床へ移される。朝になるまで親族がつきそい、そのとき、なきがらの代わりとして一族が受け継ぐ木の人形を棺に入れておくことになっている。


 つまり、お通夜のような風習であるらしい。


「ドライアイスが置いてあるから、気をつけてね」

 隣に座った波美へ、いつきはそっと声をかける。


「ずっと使っていたものがよかったんだけど、みどりは子どもの頃のしかなかったから」


 白い毛布の中で、ひよこの色のくすんだ毛布がみどりの胸から下を覆っている。


「白井さん。わたしたちは出ていましょうか」


 波美は小さな背中をまるめたまま、じっと姉を見下ろした。


「近くにいてはなみちゃんも落ち着かないでしょう。こんなところで申し訳ないのですが」


 いつきはそう言って、ひんやりと涼しい廊下に座布団を敷く。


「白井さん。なみちゃんと一緒にいてくださってありがとうございます。本当ならわたしがそばにいるべきなのですが手が回らず、なみちゃんもなついているようですし、とても助かっています」

「いえ。なりゆきでしたけど、私もしたくてしているだけですから」


 こうしてしっかり声を聞くと、やはりあの、居酒屋の喧噪のなかで聞いたみどりの声を思い出す。私は組んだ足が落ち着かず、なんとなく夜の窓の反射を眺めながら話した。


「やはりショックを受けているようなので、ひとりにはしないほうがよさそうですし」

「ええ」

 とだけうなずき、「棺の人形ですが」といつきは切り出した。

「驚かせてしまいましたよね。実は、わたしも深い意味は知らないんです。ならわしだから、と続けているだけなので」

「昔から続いているんですか」

「そうらしいのですが詳しくは。わたしも祖母の葬儀で見たきりで、祖父なら知っているかもしれませんが……そういう、よくわからないものがこの家にはたくさんあります。裏へはもう行きましたか?」

「はい。あの場所もですか?」

「ええ。そうらしいです。わたしも子どものころは面白がって近付いたりもしましたが、いまとなってはやっぱり気味が悪くて。手入れも人に任せきりです」

「……手入れの方は今日も?」

「お会いしましたか?」

「いえ。ただ、こちらへ来たとき立ち木の中に人をお見かけして、なにをしているのか不思議に思っていたんです」

「ああ。芳野さんですね。庭ですとか家の周りを手入れしてくださっている近所の方なんですよ」


 話しながら、ガラスにうつる襖を見た。ぴったりと閉じられた奥の間からは、一条の光もこぼれてこない。物音も聞こえてこず、波美が中でなにをしているのかうかがい知ることはできなかった。


「実は、いつきさんにお会いして驚きました。みどりさんと瓜二つなので」


 少し気が抜けていた。いつきの物腰はやわらかく丁寧で、私は最初に抱いた警戒心を失礼だったなと思い直すくらいだった。


「ほんとうに、双子かと思うくらい」


 するといつきはこうこたえた。


「そんな、ただのきょうだいですよ」


 でも。


「よく似ているでしょう」


 私は背中のぞっとするのを感じた。


 目を細め、くちびるの端を上げる、その表情はガラスの奥に映った。木々のたたえる闇のなか、吹きはじめた強い風に樹上の葉はざんざん波打ち、点々とした青い夜光を体に落としていた。


 その姿から目をそらせず、返事に窮していると襖が開く。


 波美はすべるような足取りで奥の間から座敷へ戻ってきて、「ありがとうございました」と深く頭を下げた。


「夜の間はここにいるから、また会いたくなったらいつでも声をかけてね」

 いつきは優しく続ける。

「白井さんも。それと、朝方は冷え込むので体に気をつけてください」


 そうして私たちを見送り、ひとり奥の間へ戻っていった。


 離れへ戻る間、波美はじっと下を向いてひとことも話さなかった。


 部屋へ戻った頃、時刻は午前一時をまわっていた。今日のうちに葬儀がおこなわれ、灰になったみどりはあの樹木のもとに撒かれるのだ。


「みどりだったのか」


 そうたずねると、波美は寝床に座り込んだままうなずく。


「姉には生まれつきの痣があったんです。首と背中の間くらいに、二本並んだみみず腫れみたいな」


 ゆっくりと、波美は自分を落ち着かせるかのように話した。


「それと同じ痣がありました。だから、あれはたしかに姉でした。だから、もう」


 その目からぽつっとこぼれた涙が、握りしめた手の甲ではじけて消える。


「がんばったな」私は、波美の背中に腕をまわす。「えらいよ。おまえはよくやった」

「すいません」波美は私の肩に頭を寄せる。「すいません、景さん。ほんとにごめんなさい」


 そうして波美はしばらく泣いた。あまり悲痛な声をあげるので、抱きしめるよりほか私にできることはなかった。


 死者の心は――そもそも生きているあいだも――わからない。


 約束をすっぽかして寝坊だと電話越しに笑ったそのすぐ後で首をくくることがあるのだから、飛び降りて自死をするその日に木を植えることだってあるのだろう。


 結局、私たちはどうにかそれを受け入れていくよりほかないのだ。


 やがて疲れ果てたのか、波美は小さな子どものように眠ってしまった。


「おまえは大丈夫だよ」


 私は言う。


 波美の体に毛布をかけると、たばこを一本だけ吸って寝床に入る。


 それから、少しだけ波美の眠りがよいものになるように願った。

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