白井 景⑤

 白い棺だった。


 ほどんど無垢の棺には、故人と顔を合わせるために用意された観音開きの小窓と、そのすぐ下側に扉、あるいは門のような図像が刻まれている。


 家紋や、宗派にまつわるものなのかもしれない。歪んだ線でえがかれた図像は長方形の上部がアーチ状になっており、その外枠に長い蛇のような曲線が絡みついている。


 座敷には白い棺がふたつと、その奥にやはりまっ白な布を被せた三段組の祭壇があり、上段に位牌と、みどりと茎子の写真が並べられている。二段目には遺灰を入れるらしい真珠貝の色をした箱が置かれ、三段目、つやのある丸瓶から厚い葉を垂れ下がらせた枝がいくつか伸びていた。


 空虚な眺めだ。


 祭壇と同様、畳間の座敷も広々した空間を持て余している。見えるものといえば扉の閉じた黒塗りの仏壇と、棺と同じ図像が壁に布張りされているくらいで、それ端整だとか幽玄だとかいうのではなく、外から見たこの家と近しいからっぽな印象だけを与えた。


「顔を見せてあげてね」


 棺の小窓をひらき、いつきがほほえみかける。


 波美にうながされ、私は小窓を覗く。眠るみどりはきれいだった。記憶のままにしずかだった。事故に遭ったと聞いていたが、化粧で隠しているのだろう。穏やかな光が清潔な白布からほの赤い頬へ昇っている、それはほんとうに眠るような姿に見えた。


 続けて波美が棺の前に座り、小窓を覗く。


 長い時間だった。


「ありがとうございます」

 と、波美は窓を閉じる。


「お別れまで、会いたいと思ったらいつでも声をかけてね」いつきが続ける。「わたしたち家族は葬儀の支度があるのであまりお構いできませんが、自由に過ごしてください。お部屋で休んでくださっても、あたりを散策していただいてもけっこうです。たいしたものも出せませんが、昼食の用意ができたらお声かけしますので」


 それと。


「ひとつだけお願いしたいのですが、お二人が泊まる離れの並びに祖父が暮らしています。高齢で足腰を弱くしているのですが、たまに車椅子で動き回るんです。もし見かけても、あまり気にしないでください」


 それでは、と深々頭を下げたいつきは、襖で座敷とつながった奥の間で台帳のようなものをあらためはじめた。


 私たちは座敷をあとに、離れへ向かった。二棟の離れは母屋から渡された廊下の先にあり、ひとつが来客用となっているらしい。いくつかの畳間に別れた客室には布団が敷いてあり、飲み水の入ったグラスつきの瓶が、窓から射し込む日を飴色に染めていた。


 ひとまず着替えを済ませると、外へ出ようということになる。

 着慣れたアウトドアジャケットに袖を通し、スニーカーで芝生を踏みしめると、死の臭いはすこしだけ遠ざかっていく。


 天頂の太陽が足もとから湿気た草の香りをたちのぼらせていた。森を降りた大気は重く体にまとわりつき、そのなかで呼吸を重ねるたび、しずかな泉の底に沈んでいくような心地よさが感じられた。


「どこいくんだ」

 と私はたずねる。


「べつに、散歩ですよー」

 波美は離れのさらに奥へ回り込んでいく。祖父がいるという建物からは物音もせず、小さな窓もかたく閉じられていた。


「景さん、あれ? ちょっと来てくださいよ」


 と波美が声をあげる。大げさな手招きを無視するわけにもいかず、私は波美を追い越すと、その視線をたどって母屋の裏側を見つめた。


 そこに樹木があった。


 その場所は一見すると、果樹園のようにも見えた。明色の樹皮をもった木々が並び、豊かな青葉がさんさんと注ぐ日を浴びている。


 しかし樹木は、ことごとく人間のかたちをしていたのだ。


 どっしりと厚みのある――ちょうど人間の胴体のような――形状の幹は、根元にかけて二股に分かれ、脚らしい形をとっていた。主枝はどれも二本、腕のように大きく広げられたり頭上へ掲げられたり、幹に沿って地面を指していたりする。樹高は私の胸程度からやや見上げるものまでさまざまだが、どれも樹冠にかけて細かく分枝しており、伸びた葉は密集と離散をくり返しながら、いかにも人間らしい頭部をかたちづくっていた。


人間樹にんげんじゅ〉。


 屋敷の裏から山との境界にかけ、数え切れないほどの人間樹が立ち並んでいる。あるものは枝が触れ合うほど近くに、あるものは集団を離れてぽつんとたたずみ。


 そのすべてを、天の光がわけへだてなく穏やかに照らしている。


 人間樹の園は、そういう場所だった。


「なんですかね、これ」

 と言いながら、波美が腕をつかんでくる。

「知らないけど、なんだよ」

「ひっぱってるんですけど」

「なんで」

「一緒に行ってほしいんです」

「散歩なら集落のほうでいいだろ。なんなら街に降りたっていい」

「姉が」

 波美は続ける。

「あっちにある木のところに行くんだそうです。葬儀の最後に、灰を撒くって。あの木とひとつになるのが、根井のならわしなんだって」


 波美の示すほうには、高くまで葉を広げる大樹がのぞいている。


「そういう信仰ってことか」

「たぶん。でも、よくわかりません。梓さんはそれしか言わなかったし、姉も父も、根井の家のことは教えてくれなかったので」


 うつむいた波美は、ほんとうの子どものようだった。


「そういうの、ちゃんと言えよ」

「だって、どう言ったらいいかわかんなくて」

「いまのかんじでいいんだよ。ほら、行くぞ」

「……はい」

「ついてこいよ」

「はいっ!」


 波美はその返事に似合いの歩幅で歩く。

 私は少し歩調を速めながら、足もとに気をつけるよう伝えた。


 知ることがある。


 私たちには――少なくともこの葬儀が終わるまで――時間があった。


「いやなかんじです」波美は半歩ぶん身を寄せる。「見られてるみたいじゃないですか?」

「そうだな」と、私はたばこを潰して人間樹を眺めた。


 木肌は明るく日をはじいているが、地面から伸びた灰色の蔓が絡みつくために、その体はまだらの縞に染まるようだった。


 奥へ進むほど、人間樹は密度を増していく。それらが円形に密集して取り囲む園の中心に、その木はそびえていた。


 立派な樹木だ。樹高は十数メートルほどあるように見えるが、傘のように枝を頭上すれすれまで広げてもいる。葉は厚く大きく、葉脈のすじは人間の大血管のようにはっきりとうかんでおり、黒っぽくごつごつとした質感の木肌は、人間樹はもちろん山々のどの木とも似ていない。


 あるいはそれが、この世界に唯一たったひとつの特別な樹木であるという感覚は、信徒のように周囲を囲む人間樹たちが与えるのかもしれなかった。


 家守の木。


 ふと波美が、ひとりごとのようにささやいた。


「は?」

「いえもりのきです。家を。守る。木。そういうふうに呼ばれてるんだそうです」


 それはつまり、先祖代々の墓のようなものだろうか。


 灰になったみどりはこの土地と混ざり合い、やがて樹木とひとつになって根井の家や一族を見守り続ける。


 果たしてそれを、安寧と呼ぶのだろうか。


「景さん。協力してくれませんか」


 黙って木を見上げていた波美が、ふとつぶやく。かたく結んだくちびるには緊張が、それと決意が浮かんでいる。


 そうやって、波美は私を連れて行くのかもしれなかった。


「もう一度、夜になったら姉のところへ行きます」

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