白井 景③

 山道を進むあいだ、波美の話は途切れなかった。免許を取ってから車の運転は初めてだった。慣れない新幹線で、近くに酒を飲み続けている人がいて落ち着かなかった。東京の大学に通っている学生で、みどりとはずっといっしょに暮らしていた。偶然にも、彼女たちの部屋は私が仕事をする河川敷と近かった。


 どれだけ走っても景色は変わらず、ナビ上の印も谷底に落ちたままだったが、車はたしかに進んでいたらしく、やがて道の先に小さな建物が見えてきた。


 窩ヶ森集落に着いたのだろう。


 しかしその建物は家ではないようだった。柿葺きの三角屋根は窮屈に感じるほど背が低く、白塗りの土壁にはひび割れが目立ち、道に面した横開きの大窓にはカーテンもかかっていない。室内には物もなく、少なくとも人が住んでいるようには見えなかった。


「ナビ、戻ったぽいですね」


 見てみると車の位置は動いていたが、今度は道の表示が消えている。目的地にピンは刺さっているものの、道順まではわからないのだ。山中の森を切り拓いてつくった、狭い集落のようだった。舗装の途切れた地面から、固い砂地や小石を踏みしめる感触が伝わってくる。


「もしもし、そちらで車をお借りしているのですが……はい。途中で故障して……」


 波美の声を聞きながら、ゆるやかなカーブ続きの道を進んでいく。沿道には放棄されたらしい耕作地を境界として数十メートルおきに家々が並んでおり、ほとんどは集落入り口にあったものと同じ粗末なつくりとなっている。そうした家並みは、住民の暮らしに対する興味の薄さを感じさせた。


 そのどこにも――集落のどこにも人の姿はない。


「ほんとに住んでるんですかね」電話を終え、波美が言う。「山奥なのに車もないじゃないですか」

「おまえの田舎だろ」

「……えっと、実は違くて」波美は続ける。「あたし、根井の家とは血がつながってないんです。姉は茎子さんの子供なんですけど、あたしのお母さんは死んじゃったんだけど別にいて、だから茎子さんとは会ったこともなくて……」


 重たい口調で波美が話すのは、こういうことだった。


 みどりと波美は異母姉妹で、みどりの母は茎子、波美の母は波美の生後すぐに亡くなっている。二人の父親は末期の認知症のため施設でほとんど寝たきりの生活をおくっており、葬儀には参列できない。そこで波美が、窩ヶ森へ来ることになった。


「お父さんの家族とはもう連絡もつかなくて、だったら、みどねえも望んでくれる場所でおくってもらったほうがいいって思って」


 と波美はくちびるを結んだ。


 出会ったばかりの他人にそこまで話してしまう、無垢なまでの素直さ。


「そっか。適当なこと言って悪かった。ごめんな」


 少し怖いなと、私は思う。


「いえ! ぜんぜん……あの、角のところ誰かいますね」

「あー、うん。なにしてんだろうな」

「子どもじゃないです?」


 道の先には三叉路があり、人影は交差点のまんなかにかがみ込んでいた。近付いてみると、たしかに子どもらしい。黒い髪を肩までまっすぐ下ろした少女。赤っぽいワンピースにだぼっとしたカーディガンを合わせ、平らなサンダルを履いている。


 車に気付いたらしい少女は、道の端に体を寄せた。


「こんにちは」

 声をかけると、少女はすぐさまうつむいた。吐息のような返事をしたくちびる、その左のきわは茶色がかってひきつれている。


「教えてほしいんだけど、根井さんの家って知ってる?」

 ますます顔を下げてしまった、もしくはうなずいてくれた少女はまだ小学生くらいに見えた。こういう土地で、学校はどうしているのだろう。


「まっすぐ行けば大丈夫そう?」

 少女はふたたび深くうつむいた。どうやら返事で合っているらしい。おそるおそるといったようすでこちらを見て、「あっち」と道を指で示した。


「次の分かれ道も、まっすぐ」


 小さなまるい目が、臆病らしく揺れている。


 すると私は、少女になにかを差し出したいと強く感じた。


「そっか。ありがとね」私は波美にたずねた。「飴とか持ってないか」

 えっ、と慌ててさぐった鞄から、波美は不揃いに割れた大袋のチョコを取り出す。何枚かをティッシュに包んで差し出すと、困惑しながらも少女は受け取った。


「お母さんには内緒で」


 そう言うと、やっと少女はほほえむ。


「じゃあね」


 そうして、バックミラーのむこうに消えていった。


「なんか、優しくしゃべれるじゃないですか」

 いかにも不満っぽく波美がこぼす。

「おまえ、チョコ好きなのな」

「大好きですけど」

「私も。もらっていい?」

「どうぞっ」

「ありがと。まあ、子どもにはそうなるだろ」

「あたしもけっこう子どもですけど」

「たしかにな。ほら、あれだろ」

「……えっと、あれですか?」


 少女の言った通りに、やがて目的地が見えてくる。地図上のピンが刺すその場所では、木々の隙間からひときわ背の高い柿葺きの屋根が覗いている。


「いいんですかここ」


 駐車スペースらしい砂利敷きの広場で、波美はキャリーケースをひっぱりだす。


「家の人にたしかめるよ」


 私は喪服のジャケットをはおり、ハンドバッグを指にひっかける。


「やっぱ着替えていったほうがいいですかね?」

「べつにいいだろ。場所貸してもらえよ」

「そのつもりだったんですけどー」

「気が引ける?」

「びびってきました」


 いいから、とさっさと行くと波美は慌ててついてくる。キャリーケースが地面を噛み、ごろごろと気持ちのいい音をたてる。


 よく整えられたツバキの生垣が、敷地に沿って桃色の花を咲かせている。生垣の奥では丈の高い広葉樹の群れが踊りのように幹を分かれさせては葉を広げており、取り囲む木々の途切れた境が家の門となっているようだった。


 声をかけてみるが返事はなく、敷地へ足を踏み入れる。ひとけのない道はうす暗く、肌寒い。頭上に密集した葉が自然光をほとんど塞いでいる、そこはひとつの森のようだった。


「静かですね」

「っていうか弔問客の案内もないんだよな」

「そっか、ふつう看板みたいなの出てますよね」

「まあ絶対出すわけじゃないんだろうけど……」

「景さん、景さん」


 立ち止まった波美の視線を追いかけると、樹間に立つ人影が見えた。


「……なにしてるんですかね?」


 なにをしているか。


 私には、木を見つめているように思えた。


 樹間の人は男性だった。体つきはまるく、作業着姿の背中も曲がっている。五十代くらいだろうか、頭には白髪が目立つ。彼は私たちから十数歩ほど離れた場所で、頭上をじっと見上げていた。


「すみません」

 声をかけると、波美が不安げに腕をつかんでくる。


 返事はない。


 はっきりと見えるわけではないが、彼の視線はなにか強烈な美しさに陶酔しているかのようにぼんやりと樹上へ捧げられている。


 その視線をたどった先では、幹を分かちながら伸びる木々の輪郭が数千の蛇のように絡み合い、うつろい揺れる葉の暗緑と混じるようにして、一瞬としてとどまらない大自然の芸術をえがき続けている。


「どうされました?」


 気がつくと、そばに人が立っていた。背が高く、体の線の細い男性だ。紺青の着物に長く伸びた髪を無造作に垂らし、不審がるでもない無表情をうかべている。


「……弔問にうかがいました。白井と申します」

 驚きを隠しながら、私はこたえる。


「お待ちしておりました。みどりの兄で、あずさといいます」

「このたびはみどりさん、茎子さんのことをお悔やみ申し上げます」

「ご足労をありがとうございます。波美さんも、先日はありがとうございました。遠方からわざわざご苦労さまです」

 波美は「いえ」と慌ててこたえ、袖から手を離す。「茎子さんのこと、お悔やみ申し上げます」

「ありがとうございます。屋敷へご案内しますので、こちらへ」


 みどりの兄だという男性、梓はひとしきり用件を済ませたというふうにさっさと歩き出す。気軽く裾のたなびく着物は、どうにも喪服には見えない。


「勝手に入ってすみません。どなたも見当たらなかったので」

「お気になさらず」

 と、今度は振り向きもせずこたえる。

「……おまえ、前に会ったか」

「はい、姉を迎えにきたとき病院で」

「あんなかんじだった?」

「ええと、そうですね。淡々としてるっていうか、冷静なかんじで……」


 懸命に言葉を選ぶ波美から木々の間へ視線を戻すと、樹間の男は姿を消している。足音は聞こえなかった。落ち葉を踏んだ痕跡もなく、はじめから、彼の存在は樹間の影がうつしたまぼろしでさえあるようだった。

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