白井 景②
おそるおそる車の前方へまわると、女はそこでへたりこんでいた。
「怪我は」
と言いかけ、私は言葉を飲み込む。
「……大丈夫……みたいです」
彼女の、なにかを知っていると感じたのだ。
彼女はゆっくり虚脱をぬけだし、顔や頭、腕、脚と続けざまに体の無事をたしかめている。黒のデニムにスニーカー、アウターにはスタジャンを羽織った活動的な姿だが、体は小さく顔立ちも少女然として見える。ショートボブカットが強調するたまご型の輪郭や、目のまるみが、おさない印象を際立たせるのかもしれない。
「びっ……」彼女は大きく天をあおぐ。「っくりしたぁー……っ」
「いや、頭とかぶつけてない? 吐き気とかめまいは?」
「ないっぽいけど、ちょっと動いてみますね」
「いや、ゆっくりにしとけって。なんだよ、いきなり飛び出してくんなよ」
「えーっ、よそ見はいけないと思いますけど、こんな山道なのに……」
私はすっかり安堵しきり、たばこのことを思い出す。
運転席のドアをひらくと、「あのう」と女が声をかけた。
「もしかして、藤野さん……か、根井さんのお葬式ですか?」
エンジンを落とすとそこかしこから未知の鳥のさえずり、獣のざわめきが聞こえてくる。それらはいかにものどかに歌うようだった。
「藤野みどりさんのお葬式です。すいませんが、たばこを吸うので苦手なら離れてください」
「平気です。あの、あたし、藤野波美といいます。藤野みどりの妹です。ええと、姉とはどういう……ご関係だったんですか?」
「白井、
「同僚さん」
「波美さん。みどりさんのこと、茎子さんのことお悔やみ申し上げます」
「いえ……ありがとうございます」
と、みどりの妹を名乗った女、波美は頭を下げた。
羽村さんは事情を教えてはくれなかったが、みどりは母親と違う名字をもっていた。離婚をして父親に親権がいった、ということだろうか。みどりと波美、二人の娘を父親が連れていくというのはよほどの事情があるか、他にもきょうだいがいるのかもしれない。
「で、こんなところでどうしました?」
「レンタカーでここまで来たんですけど、いきなり車が動かなくなって、誰か来ないかなって待ってたんです」
波美の車はカーブの先に停めてあった。たしかにエンジンはかからず、見たところ燃料やバッテリーが原因ではないらしいが、エンジンルームにも一目でわかる異常はなかった。さわってみようにも、喪服で手を出すのは気が進まない。
「電話もつながらないみたいで。景さんのはどうですか?」
波美の言うとおり、電波は完全に途切れていた。いつの間にかナビ上の車も谷底に落ちている。
「あの、よければいっしょに乗せてもらえませんか? 行っちゃえば電話もつながるって思うんです」
と、波美はなんとなく背すじを伸ばす。そうしてみると、百五十センチくらいの背丈はかえって目立ち、小型犬のような印象を与えた。
「いいけど、車は店に回収してもらうかんじ?」
「はい。帰りがあるので別のをもってきてもらえたらベストですけど」
「ごねろごねろ。時間合えば駅まで送っていいけど、親族なら葬儀の後にもなんかあるでしょ」
「えっと、たぶんですけど」
「いいよ、荷物もってきな」
「はい! ありがとうございます」
と、波美はほがらかに笑い、荷物を車からひっぱり出していく。
「あのさ、歳っていくつ?」
「十九で、今年ハタチになります。景さんはおいくつですか?」
「二十五」
「二十五になりました?」
「今年で二十六歳です」
「じゃあ、姉とおなじですね」
お待たせしました。波美は屈託のない笑顔で言った。
「うん」
とだけ私はこたえた。
波美は心もち早足になり、キャリーケースを転がして後ろをついてくる。
十九歳。
ということは、もう親元は離れて暮らしているのだろうか。仕事をしているようにも見えないので、大学にでも通っているのだ。これだけ人好きのする性格なら、毎日を楽しく過ごしていることだろう。
そういえば、藤野みどりも一度だけあんなふうに笑ったことがある。好きな映画について語っていたときだった。笑顔はすぐに醒めて自重するらしいささやかなものに戻ったが、あれはたしかに波美と同じだった。ふたりは顔立ちや背格好はまるで違うが、やさしい白イルカのように笑う目のかんじがとてもよく似ていた。
ほんとうは、みどりもこういうひとだったのかもしれない。
この子といるときは、あるいは。
「ちょい待ってて」
助手席にはこぼれたビールも友人の血の痕もないが、ひっくり返った鞄の中身が足もとまで転がっている。
死んでから、知ることがある。
同僚の妹とか友人の致命的なアルコール依存とか、そういう。
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