3 白井 景
白井 景①
峠を越えると海が見えた。
午前九時のはなやかな光に涙がにじみ、穏やかな白波のうちに大あくびが消えていく。
家を出たのが五時。最後にサービスエリアで体を伸ばしたのが一時間前。
ナビの到着予定をたしかめ、道の駅にハンドルを切る。定休日らしくひとけのない駐車場で思いきり体を伸ばすと、喪服のワンピースが体にしたがって窮屈げな音をたてた。
これを着ると、友人を思い出す。
この、黒い塗装のオフロードSUVを中古で手に入れた頃には、いろいろな場所に出かけた。隣に友人を乗せて、思いがけないほど遠くまで。友人は助手席の座り心地が気に入ったらしく、あれこれクソみたいな指示を出したり、散々笑ったと思ったらいつの間にか寝ていたりしたものだった。
ふたたび車を走らせて海沿いの道をしばらく行くと、次で曲がるようにとナビが指示をする。それらしい道はいっこうにあらわれないが、十メートルほど手前までくるとようやく見えてきた。白黒まだらに苔むしたブナの木に隠れた狭道、その存在をしずかに知らせる道路標識には、こう記してあった。
〈
彼女の故郷の名前だ。
ずいぶん古いらしく塗料の剥がれた標識は、その名前がすでにうしなわれたような印象を与えていた。
ああ。
これはいやだ。
集落へ続く道は、樹木によってかたちづくられていた。アスファルト舗装された道を背丈の低い木々が囲み、それらが互いに倒れかかるようにして空を塞いでいる。さながらトンネル然として薄暗い道を慎重に進んでいくと、やがて明るい光に飛びこんだように目の前がぱっと白くなり、その先に、果てのない緑の国がひろがっていた。
目をみはるほどあざやかな眺めだ。
目をみはるほどのあざやかさだ。どこまでもつづら折りに曲がりくねった山道、その周囲見渡す限りを樹木と、灌木や下草が埋め尽くしている。見覚えのある、あるいは名前も知らない木々。あるものは目の高さで、あるものたちは遥か頭上まで背を伸ばし、かれらの傘は陽光を千々に切断し、数億とも知れない粒状の光を道々にそそがせている。
それはなにか、知らないうちに世界を渡ってしまったような光景だった。
もといた場所とは違う原理、異なった尺度で動いている世界へ突然足を踏み入れてしまったような、そんなこころもとなさが背すじを冷たくさせた。
かかかかんっ、とドアを叩かれる。
道へ伸びた木の枝が触れるのだった。
あわてて車体を中央線まで戻す。山道は舗装も行き届いており、標識も立てられているので人は通るのだろうが、ただでさえ狭い道の半分ほどを枝に侵略されている。対向車が来れば手間になりそうだった。あるいはもしも、車が動かなくなったら。あるいは。
ナビをたしかめると、目的地まではまだ数十分かかるらしい。肉眼で山道の終わりは見えず、地図を見てもその全容は判然としなかった。
いやな場所へ来た。
それでふと、たばこが恋しくなる。
車の速度を落としつつ、助手席に手を伸ばす。そこは手提げ鞄や膝かけ毛布でごちゃついており、たばこはすぐに見つからない。覚えてはいないが、鞄に放り込んだのかもしれない。
「ああ」
数時間ぶりに声を出した喉で、痰が遊んだ。
「最悪だ。最悪……」
視界の端、木々の奥でなにかが動いたように感じられ、道の先を見つめながら指の感覚で鞄をさぐった。
動物なら轢く。
目の前に飛び出してきたなら。
けれど人だったら。
窩ヶ森の住人だとか山菜採り。あるいはほかのなにか。
「いやだいやだ」
鞄をひっくり返して視線を散らすと、たばこはなにげなく助手席に転がっていた。
「いやだ……」
その黄金のパッケージを取り上げ、箱をひらく。そうして視線を正面へ戻すと、ゆるやかなカーブの途中に手を振る女が見えた。
ブレーキ。
絶叫のようなブレーキ音とともに、女はボンネットの陰に消えた。
『――ぜぇったい! 殺したって!』
友人とは、いろいろな場所に出かけた。
山間の湖へ行ったその日のことだった。ワカサギでおなかを満たした帰り、景観がいいという理由で選んだ道は濃霧で見通しがきかなくなっていた。ブレーキを踏みつけると、友人は飲んでいたビールの缶でうわくちびるを切り、足もとに大きな水たまりをつくった。「殺したって!」と彼女は血を拭いながらくり返し、私もたしかに獣らしい衝撃を感じていたが、死体は見つからなかった。血の痕は、うす暗い谷の方へ続いていた。
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