2 白井 景
白井 景①
基準点〈13-4-4-1-000290〉には、ひとかたまりのシロツメクサが群生している。
豊かにひらいた亜球形の花々のあいだには、朱色のリボンを結んだ観測の基準となる茎が力強く伸びており、私はそこに測量用ポールをつきたてた。
美しい春の日よりだった。あかるい日のそそぐ河川敷では、草陰から見えない鳥たちのさえずりがこぼれ出しており、芝生はジョガーや親子連れ、マットを広げて運動をするらしい老人たちでにぎわっている。
うるおった陽光が素肌を焼くように感じられ、おろした長袖をボタンでとめる。ふとおくれ毛が気にかかり、後ろ手で髪を束ねなおすと、ヘアゴムに絡んだ毛先が何本かぶちぶち千切れた。
私は副基準点〈13-4-4-1-000290-1〉、青いリボンが結ばれたヨモギの基準茎まで移動し、トータルステーションを覗き込むと、座標〈1021.333,118.622〉を端末からサーバーへアップロードする。
データが問題なく受理されると、次の地点へ。
〈13-4-4-1-000290-2〉のオオバコは座標〈509.739,499.104〉
〈13-4-4-1-000290-3〉のスギナは座標〈1252.690,1080.508〉
〈13-4-4-1-000290-4〉のレンゲソウは。
異常なし。異常なし。異常なし……。
データはすべて正常に受理される。観測された植物の座標、基準点との方位、距離にずれはなく、つまり、この世界は今日も正しく回っている。
まったく、それはなによりなことだ。
一基準点の観測は三十分で終わる。観測士の仕事を始めて三年、手順は体が覚えている。昨日も、今日も明日も。一点につき三十分。二点ごとにたばこを吸う。アメリカンスピリット・ゴールド。これのいいのは他の倍、燃焼時間を食うことだ。そのぶんだけ人生はさっさと過ぎる。
六点を終えて、昼になった。
芝生の向こう側、試合のひらかれていないグラウンドでは、からっぽのマウンドをつかって親子がキャッチボールを楽しんでいる。かれのボールは父親まで届くだろうか。私はすこし離れたベンチに腰かけ、たばこに火をつけた。
『――藤野みどりさんが、昨晩亡くなられたそうです』
男の子の投げそこねたボールは、父親を飛び越してグラウンドの外へ転がっていく。
『――ということなので、藤野さんの担当区域は一旦近場の人で分担してもらいます。白井さん、前田さん、加藤さんは残ってもらって……』
パパ! パパ!
男の子ははしゃぎながら父親を追い越していくと、拾ったボールをむこうの芝生――藤野みどりの担当区域――から思いきり、今度は父親のところに投げた。かれの声や私の吐いた煙は、あまり風の吹かない河川敷にしばらくとどまっていた。
藤野みどり。
彼女の死は朝礼でなにげなく告げられた。
私は死んだ彼女を知らなかった。いつかの飲み会で話したきりだ。好きな映画の話で少し盛り上がったけれど、それから話す機会もなかった。担当区域が隣だったので目が合えば挨拶くらいはしたし、顔も思い出せる。それでも、私にとって彼女は知らない人だった。
彼女は事故で死んだのだという。
私の知らない人のままで。
潰したたばこを携帯灰皿に放り込んで立ちあがると、不意の痛みが腰を打つ。重たく鈍いいつもの痛みだが、ひとまず嘔気も不快感もない。私は処方されている痛み止めを水で流し込み、ふたたびベンチに腰をおろした。
いつまでも、親子はキャッチボールに飽きなかった。
痛みが引くと、基準点〈13-4-4-1-000310〉の観測にとりかかる。ポールを立てて、カメラを覗き、データを送る。父親の投げ返したボールを男の子がしっかりと受け止めている。異常なし。世界は正しく回っている。なにもかも。間違いなく。
*
さらに二点の観測を終えて休んでいると、社用のバンが河川敷を近付いてくるのが見えた。
こっちへ来るな。
願いむなしくバンは芝生に停まり、羽村さんがこちらへ歩いてくる。羽村さんはいつもの淡い草色の作業着姿で、ランチボックスと水筒を持っている。私はいやな予感にかられた。朝、同じ格好で藤野さんの死を伝えたのは彼だった。
「白井さん。お疲れさま、調子はどう?」
彼は返事を聞くでもなく隣のベンチに腰を下ろす。パイプフレームが、百キロを超すという彼の重みに歪んだ。その体を動かすのに足りそうもない手作りのお弁当を広げると、彼はさっさと昼食をとりはじめた。
「藤野さんのとこ、引き受けてくれてありがとう」玉子焼きをひとくちで食べ、彼は告げる。「白井さん、藤野さんの葬儀に行ってもらえない?」
げっ、と私はこぼす。彼が伝えるのはたいてい良くないことだ。ほほえみを絶やさない柔和な顔つきで、手当の廃止とか同僚の訃報とか、そのたいして知らない同僚の死を悼めとか。
「それ、命令ですか」
「まだお願いだけど、白井さん次第ではそうなるかもね」
「まじのやつじゃないですか」
「うん。藤野さん、親しい人って白井さんしかいなかったみたいだから」
「親しくはないですけど」
「飲み会で話してたよね」
「一回だけですけど」
「充分じゃない?」
「いやいやいや」私は続ける。「親しいっていうか、ちょっと趣味の話で盛り上がっただけですよ。それからしゃべってませんし、挨拶しかしないし連絡先も知らないし、いっしょに出かけたこともないし、それって仲良しだと思います?」
「仲良しなんじゃないの?」
「はぁーっ?」
そもそもこの会話に興味がないらしく、彼は休みなく食事を続けていた。驚くべきことに、ランチボックスはものの数分でほとんどからっぽになっている。
「逆にだけど、誰か藤野さんと親しかった人って知らない? 相手の身内に気の利いたエピソードくらい話せそうな人」
「知りません」
「じゃあ、やっぱり白井さんがいちばん親しかったんだよ」
そう言うと、彼はさっさとランチボックスを畳んだ。
「あとはやっておくから、もうあがっていいよ。午後から出張扱いで給料も手当も出るし、詳細は文書で送るけど、場所も遠いし準備もいるだろうから」
「いま大事なこと言いましたよね」
「あと、藤野さんのお母さまの葬儀もいっしょにするって。つい先日亡くなったらしいよ」
「まだ隠してることありますか」
「詳細早めに送るから」
じゃあよろしく、と彼は背中越しに手を振り、水筒の水でうがいを済ませる。電話をかけるのは事務所らしい。
膝の上のタマゴサンドを、その巨大な背中で押し潰すところを想像してみる。彼は驚きもしないようすだが、洗濯の手間を思ってかうっすらと表情を歪めてみせた。
ほどなくしてスマートフォンの通知音が鳴り、葬儀の案内らしい文書が届く。私がベンチを立つころに、彼はもう観測を始めていた。私はその、巨体からは想像もできないほど流麗な手つきや、白く細い髪が銀の日をはじくのがけっこう好きだった。おまえの葬儀にも絶対行く。彼が地面につきたてたポールは驚くほどまっすぐに天を指し、すぐに端末が正常なデータの受理を告げた。
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