藤野 みどり②
その人は――そう呼んでいいのであれば――、ランタンやランプのたぐいではなく、頭部から光を放っていた。首から上は、まるでハロウィンの大カボチャの仮装のようなかたちをしていたが、頭部を形成しているのはホオズキだった。
それは人間の体をもったホオズキが、闇夜に巨大な花をひらかせながら、そのオレンジの弱光でもって、わたしを照らそうとするようだった。
――ラウラ。
目を奪われた。視線だけでなく、心まで避け得なく奪われるようだった。ホオズキの体はよく見えない。はなやかにもほの暗い光を放つ頭には当然、胴体や手足がついているのだが、それは焦点の合わない映像のようにぼやけて感じられる。
――ラウラ。
ホオズキが顔を上げる。ゆっくりと、夜にだけひらく花のように首をもたげてゆく、その光景から目をそらせない。視界は段々せばまり、すると、ホオズキの肌を編み上げる繊維の目までが見えてくる。それは糸がほつれるようにしてほどけると、くしゃっとまるまって、隠れていた実をあらわにする。金色だ。美しい黄金。その実は黄金を思わせるようなかがやきをもっており、つやつやとして傷や皺のひとつもなく、どこか偽りを感じさせるほど正しい形状をしていた。
『ラウラ・シリシリ・エ・ガラテア』
突然、耳もとを母の声が響いた。わたしの記憶をこだまする声だった。わたしは死んだ母の声を呼び起こしながら、ホオズキの実の嘘の美しさを長いあいだ見つめ、スマートフォンを取り上げた。
なみ。
トーク画面をひらくと、この週末になみと交わした言葉はこう結ばれている。
『星川さんに充電忘れてるって伝えて』
わたしはそこに『ありがとう』と打ち、『たくさん』とつけ足して、結局は『ほんとうにありがとう』と打ちなおすと、画面を表示したままスマートフォンをテーブルに置いた。
なみの姿はソファで見えない。
なみを見たかったし、話したかった。それに、最後にたばこの一本くらい吸いたかった。
けれど終わらせなければならない。
せめて、わたしで。
ベランダの柵から上体を乗り出し、地面を見下ろす。ホオズキは反応するでもなく、こちらをじっと見上げている。わたしはよいしょっと左脚を持ち上げ、柵をまたぐような格好になると、なみの方に残ろうとする右脚を勢いよく蹴り出した。
七階。
恐怖を感じる間もなく視界はまっ暗になり、それから、ゆっくりと時間をかけてさまざまな感覚が体へ戻ってくる。頭はしびれ、鼻の奥がじんじんとして、息は苦しい。よく刈り込まれた芝生が、くちびるをくすぐっている。
どうやら、地面に横たわっているらしい。
それに、まだ生きている。
目の前には腕があった。植樹された若木のように地面から伸びているのが、わたしの左腕であるようだった。まんなかで折れた腕を突き破った白い骨が、血に濡れながら美しくかがやいている、と気付くと同時にとてつもない痛みがやってきて、わたしは絶叫する。水中にいるようなごぼごぼという悲鳴は体内で、喉をあふれる血の内でとどまった。息をするのもむずかしく、激しい苦痛による絶叫を続けながら、一瞬でも早い死がおとずれるよう祈った。すると痛みが遠ざかり、混ぜすぎた絵の具のような闇が見えるものすべてに降りてゆき、ああ、この祈りは死の神に届いたのかもしれなかった。
「なみ」
ふと、どこかからささやくような声が聞こえる。
「なみ……」
声は頭上から落ちてくるようだった。しかし、それは目の前のわたしではなく、ほかの場所を求めているようにも聞こえた。
力を振り絞り、視線を動かす。
すると、視界に足が入り込んでくる。
足はわたしに寄り添うよう、すぐそばに立っていた。なま白い裸の足だ。女性のものらしいまるみのあるかたちをしているが、指は四本だけだった。いや、よく見れば五本目は足の内側、親指の隣に生えているらしい。その指は、綿のすり減ったぬいぐるみの尾のようにふらふらと揺れており、足の至るところからはほつれた糸くずのようなものが飛び出している。
「なみ。なみ。なみぃ……」
そしてその白い足が、一歩を踏み出した。
ホオズキの明かりが作り出したかすかな明暗を、外へ。
わたしはふたたび声をあげようとして、もう喉すらも動かなくなっていることに気付いた。くちびるも、目も。わたしはわたしがうしなわれていくのを感じる。なみ。わたしは思った。急性心筋梗塞。たばこ。ラウラ。ホオズキ。波美。ラウラ。あまりにもおおきな暗闇。
わたしは、間違えたのかもしれなかった。
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