汝、隣人を愛するように草樹を愛せ

西 聖

1 藤野 みどり

藤野 みどり①

 わたしが母の死を知ったのは、ちょうど夕食の支度を済ませたそのあとのことだった。


『みどりへ』

『今日、母が死にました。連絡をください』


 数年ぶりとなる兄からのメッセージには死亡診断書らしい写真が添付されていたが、手書きの文字は妙にぼやけたうえに癖がひどく、母がどのようにして死んだのか、わたしにはすぐにわからなかった。


「どしたの? 仕事の連絡?」


 と、妹がたずねた。部屋の鉢やプランター、吊るし、エアープランツ……部屋中の植物に水やりをしている最中だった妹の声は母の死という事実とはあまりに遠く、その輪郭がぼやけて聞こえるほどに日常の響きをたもっていた。


「なんか、茎子さんが死んだっぽくて」

「茎子さんって……根井ねのいのお母さんじゃん」

「そう」

「連絡ってお兄さんから?」

「だね」

「電話とかしなくて平気?」

「だよね。うん、でも、ちょっとこっちきてほしいかも。ちょっとだけ」


 妹はすぐに駆けつけて、わたしを抱きしめてくれる。


 近しい姉妹だった。二十五歳と二十歳とやや年齢は離れているものの、ほとんど真反対といっていい外見や性格の違い、なにより産んだ母の違いがかえってわたしたちを近付けた。なにか苦しいことや嬉しいこと、ひとりではこらえきれないようなことが起きると体を寄せ合い、そうやってわたしたちはほんとうの姉妹となっていった。


 ひとしきり波だった心が落ち着くと、わたしは妹に感謝を告げてベランダへ出た。きっと、兄とゆっくり話すということはないだろう。サンダルを引っかけて折りたたみのハイチェアに腰を下ろすと、アウトドアテーブルのアメリカンスピリット・ゴールドに手を伸ばし、運良く箱に残っていた最後の一本に火をつける。オイルライターの火をくすぐった川沿いの夜風は、春のただなかとはいえまだ冷たく感じられる。


 兄は電話に出られなかった。


 ひとまず明日から週末まで帰郷するというメッセージを送り、同じだけの欠勤を上司にも報告する。


「なみ、これ読める?」


 いったん部屋へ戻り、妹へ声をかける。妹は、なみはソファから首を伸ばして死亡診断書の写真に目をこらした。


「んー……14時、21分?」

「そうかも、それっぽい。こっちは?」

「急性心筋梗塞? じゃないかな」

「すご。ありがとね」

「もう済んだの?」

「出なくて。またかけてみる」

「冷やさないでね」


 と言って、波美はひざ掛けにしていたストールを差し出した。


 窓を閉じて膝をまるめると、首と肩とをまるごと覆ったストールの香りを吸い込む。洗剤と柔軟剤と、妹のにおい。気持ちを落ち着かせてもう一度電話をかけるが、やはり応答はない。兄はもう、どこかへ行ってしまったのかもしれなかった。


『母が死にました』


 なんとなくメッセージ画面を眺めていると、闇のなかにかがやいて見えるその言葉は、唯一絶対の真実のように感じられてくる。


 しかし画面を閉じようと、まなうらに残ったその言葉は、母の死をかえって色濃く浮かび上がらせた。


 急性心筋梗塞。


 わたしたちの暮らす部屋は、マンションの七階にある。


 西向きのベランダは大きな川に面しており、足もとに広がる深い谷のような闇を渡った対岸には巨大な集合住宅がいくつも並んでいる。気まぐれに明滅する明かりが映すのはどれもかわりばえのない一家団欒の眺め――そのなかにひとつ、変わった部屋があった。


 その部屋は赤かった。


 深海生物の水槽のように昼も夜もなく赤い照明がともされた部屋の中央にはウッドテーブルとダイニングチェア、窓に面した床に横たわる二体のウサギのぬいぐるみと、正面ドア横の三本脚のコンソールテーブル、そしてその上にはスズランの植木鉢が置かれているが、あるいはいつ見ても美しくひらいているスズランは造花なのかもしれない。


 誰かが部屋に立ち入る様子はなく、内装も、少なくとも目をかけている二年のあいだで変わったものはひとつもない。


 ――14時、21分。


 そのときも、わたしは赤い部屋を見ていた。


 ちょうどベランダで、カラテアの苗を植え替えていたのだ。十センチ高まで育った苗からは青あおとした葉のにおいと、うららかな日射しにあたためられた土の香りとでわたしは良い心地だった、その頃、母は心筋梗塞の激痛に耐えかねて倒れ込み、畳間の床を転がっていたのだろう。


 植え替えを済ませると、誇らしく自立したカラテアの青葉を撫でながらたばこを吸い、その赤い部屋をベランダからぼんやりと眺めていた。


 しかし母はついに動きを止め、長い、長い息を吐く、その目は死後も永遠に続くかのような苦痛に赤く染まっている……。


「みどねえ」と、窓を開いてなみが呼ぶ。「まだ戻らない?」

「もうちょっと。すぐ入るよ」

「うん。待ってる」

「待たなくていいから、ごはん食べてなよ」

「ちょっとなんでしょ」


 からからと窓を鳴らし、なみはソファの陰に戻った。


「待たなくて」


 わたしはつぶやく。


 視線を戻すと、マンション群の温かい光に浮かぶ赤い部屋は目のように見えた。苦痛に見開かれた母の目。わたしはそれがおそろしくなり、目線を下へ落とした。


 するとまっくらな川面に、数個の星々が消えたりあらわれたりしているのが見えた。両岸の河川敷や堤防を、同じようにいくつもの小さな光が揺れながら流れていく。明滅するもの、さまざまな色をもつもの、速く遅く様々な速度で行き来するそれらは、散歩者やランナーのいきいきした足取りであるようだった。


 それらの光が、段々とにじんでいく。


 光はぼやけ、あいまいに拡散してゆき、やがて万華鏡のレンズを覗いたときのような、うつくしくも不実な無限色の花々が目の前でひらいていった。


 いくつも。いくつも。


 わたしはたぶん、泣いているのだった。


 母を愛していなかった。父がわたしを母のもとから連れ出してくれて嬉しかったし、なみが産まれたときにはほんとうに母を離れられたような気がした。それから二十年、母に会おうとは思わず、会いに行くこともなかった。わたしが母を愛していたのは生まれてからの数年でしかなく、それですら幼い子どもが母を愛さないという選択肢を持てないだけだった。母はわたしを苛んだ。きっと母はおかしかった。狂っていたのだ。


 けれど、それでも母が苦しんで死んだということが、わたしにはどうしようもなく悲しかった。


 もう一本、たばこに火をつけようとして、さっきのが最後だったことを思い出す。


 さいわいにも、なみはソファで横になっているらしい。


 涙が引いたら部屋へ戻ろうと決めて、ふたたび視線を地上に下ろす。光はやはりいくつかが、暗い闇を揺れながら行き交っている。するとふと、そのなかに不動の光があることに気付く。


 それはオレンジ色の、ランタンにも似た球状の光だった。ほかのものよりもずっと近く、土手の上でじっと動かずに立っているので目についたようだが、わたしが気付くと間もなく――待っていたかのように――動き出し、マンションへ向かって歩きはじめた。


 土手から石段を降り、赤レンガ敷きの遊歩道を横切る。


 生垣をすすと抜けて敷地へ入ると、迷わず部屋の真下で足を止める。


 それは人だった。


 少なくともわたしには、人であるように見えた。

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