第5話
「水香さ~ん! 一緒に帰りましょぉ~!」
自転車に乗ろうとしている水香さんに手を振りながら、駆け寄った。
……良かったぁ……間に合ったぁ……。
メールを打っていたら、帰り支度が遅れてしまった。
だけど、水香さんが帰ってしまう前に、ギリギリ間に合った。
更衣室から、この店の裏手まで、駆け足で来たおかげ。
「どうしたの? 家は反対方向でしょ?」
髪をかき上げながら、質問する水香さん。
「そっち方面に、ちょっと、用事があるんですよぉ」
胸に手を当てて、乱れた呼吸を整えながら、答えた。
「こんな夜遅くに? 親が心配するんじゃないの?」
一瞬、考える素振りを見せた水香さんが、私の心の中を見抜くような視線を向けながら、そう言った。
「大丈夫ですよぉ、ちゃんと親には伝えてありますよぉ」
咄嗟に、目の前で手を振り、ズレたバッグを掛け直しながら、笑顔で答えた。
……水香さんには、良くない印象は持たれたくないもんね!
「本当にぃ?」
水香さんが、少し顔を寄せて、私の目を覗き込んだ。
……あれ?疑ってる?……もぉ、何で?
信じてほしい。
でも、ちょっとだけ、ムッとしちゃう。
「本当ですよぉ!」
そう返した時、いつの間にか唇を尖らせていたことに、気付いた。
……ダメダメ! 悪い癖! すぐに態度に出ちゃう。
心の中で自分を叱っていると。
「ふふ! ゴメンゴメン」
水香さんが、私に笑い掛けて、謝った。
……水香さん……信じてくれた!
水香さんは自転車を押しながら歩き出した。
私はその半歩後ろを並んで歩く、自転車を挟んで。
……水香さんと一緒に帰るのは久しぶり!
最後に一緒に帰ったのはいつだろう。
水香さんの家に遊びに行った時かな。
真夜中に親に迎えに来てもらった日かも。
「どんな用事なの?」
ちょっとした沈黙の後、水香さんが質問してきた。
「友達のウチに行くんです、こっちの方に住んでるんですよぉ」
笑顔で前を指差しながら、質問に答えた。
……やった!水香さんが話題を振ってくれている!
短い時間だけど、水香さんを楽しませよう。
どうやって話を広げようかな。
友達のことを話そうかな。
柴崎さんと一緒に来ていた人のことを聞こうかな。
それとも……。
……あれ?
気が付くと静寂。
横を向くと、水香さんが、少し俯いたまま、黙って歩いていた。
……どうしたんだろぉ?
また、悩ましげな表情。
何かを考え込んでいるみたい。
思い返せば、今日はこの表情を何度も見ていた。
……体調が万全じゃないのかなぁ……。
ふと、水香さんが前髪に息を吹き掛け、ぎこちない微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですかぁ?」
水香さんの顔を下から覗き込みながら、声を掛けてみた。
やっぱり、具合が悪いのかも。
「ん? ……大丈夫よ、ちょっと疲れてるのかも……」
水香さんはそう言って、軽く深呼吸した。
……やっぱり……今日は、いきなり忙しくなったから……。
私の休憩中に起きたラッシュ。
手伝いに出たとはいえ、かなり大変だった。
流石の水香さんも病み上がりだったし、堪えたはず。
「ですよねぇ、私も疲れました。いきなり、あんなに混むとは思いませんでしたぁ」
「あの時は本当に助かったわ、ありがとね」
「いえいえ。一段落してからまた休憩に入れてもらえましたし……それに仕事なんですから、問題ありませんよぉ」
突然の、水香さんからの感謝。
それに戸惑い、慌てて顔の前でパタパタと手を振って、応えた。
私の反応が可笑しかったのか、水香さんが微笑んだ。
……良かったぁ……笑顔だぁ……この調子で……。
水香さんに聞いてみようかな。
友達の話をしようと思ったけど、まずは先に……。
「そういえば、今日……柴崎さんが店に来たじゃないですかぁ。その時に一緒に来ていた人……けっこうイケメンでしたよね? 水香さんの知っている人でしたかぁ? なんて名前……ぁ……」
ふと、気が付くと。
水香さんが、また何かを考え込んでいるような表情を浮かべながら、空を見上げていた。
……もぉ……聞いてなかったのかなぁ……どうしたんだろぉ?
今日の水香さんはなんだか様子がいつもと違う。
病み上がりだからかな?
約二週間ぶりに会ったからかな?
なんだろ?
でも、話を聞いてくれてなかったことに、ちょっとだけムッときた。
「水香さん! ちゃんと聞いてますかぁ?」
意識的に唇を尖らせ、水香さんに声を掛けた。
それに、水香さんはハッとして、振り向いた。
「ゴメンゴメン……やっぱり、疲れてるみたいね……それで? 何だっけ?」
水香さんがウィンクしながら、謝ってきた。
……はぁ……謝る姿も……様になるんだぁ……。
水香さんが〈イイオンナ〉であることを、改めて実感したせいなのか。
水香さんが私の話を聞いていなかったせいなのか。
その両方のせいなのか。
思わず、溜め息が零れた。
「もぉ、ですからぁ……柴崎さんと一緒に来ていた人のことですよぉ」
私の言葉に、水香さんは一瞬考える素振りを見せた。
「あぁ……大下さんがどうかしたの?」
……やった!やっぱり、水香さんの知り合いなんだぁ!
ちょっと嬉しい。
その大下さんと、どうこうしたい訳ではないけど。
水香さんの知り合いを、また一人知ることができたのが、嬉しい。
それになかなかのイケメンだったし……水香さんのことを色々と聞けるかも。
「そうかぁ、大下さん、っていうんですかぁ……けっこうイケメンで良い感じの人でしたよね? また、店に来ますかね?」
「大下さんと話す機会はなかったの? まぁ、あれだけ忙しかったら、仕方ないかなぁ」
「そうなんですよぉ。忙しくて、注文を取るぐらいしかできなかったです。会計は店長がしてたし。水香さんが休憩に入ってる時は、まだ暇だったんですけど……」
水香さんにそう答えると、視線を落として、溜め息を吐いた。
……柴崎さんが、おしゃべりじゃなければ……。
私が項垂れていると。
「柴崎さんでしょ?」
私の心を見透かしたように、水香さんがそう言った。
……さすが!水香さん!
「そうなんですよぉ! 水香さんが休憩に入ってから、ずっと一人で話続けてたんですよぉ! 聞こえてくるのは柴崎さんの声だけ! 中学校の時の思い出話か何かわからないですけど、大下さんの声は相槌くらいしか聞こえてこない。二人だけで来ても、おしゃべりなんですね! 柴崎さんは!」
思わず、水香さんに愚痴を零してしまった。
大下さんと知り合いになるチャンスを逃したこと。
その原因の大半が、柴崎さんにあることが腹立たしかったのかな。
……はぁ……水香さんに……愚痴っちゃったぁ……。
心の中で、溜め息を吐き、横目で水香さんを見ると。
「柴崎さんは困った人だよねぇ。ちなみに、大下さんは地元であるこっちに帰ってきたみたいだから、また、店には来ると思うよ」
微笑みを浮かびながら私を見据え、水香さんはそう言った。
「本当ですかぁ?! 」
水香さんの返しに、思わず、嬉しくなり、手を叩いてはしゃいでしまった。
……いけないいけない……もっと落ち着かないと……。
水香さんに気付かれないように、小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。
「ところで、愛里ちゃん。知ってるかな? ……噂話なんだけど……」
水香さんが話題を切り替えてきた。
その表情がどことなく、真剣な感じがする。
……噂話?何の噂だろぉ?バイトに関係することかなぁ?
突然の話題。
それも、特定できない、曖昧な質問。
「噂話ですかぁ?」
会話が途切れないように、さりげないように質問で返した。
「そう、SICマンションの噂……知ってる?」
……えすあいしーまんしょん……何だろ?
腕組みをして、記憶を巡らしてみた。
……噂……噂……えすあいしー…マンション……噂……。
何も浮かばない。
ピンと来るモノがない。
「エス、アイシー、マンション……う~ん、知らないですねぇ……」
申し訳ない気持ちを抱えつつ、水香さんにそう言った。
「そうかぁ……知らないかぁ……」
落胆した顔。
私があまり見たことない表情を浮かべ、そう呟いた水香さん。
余程のことなのかな。
……その噂に何があるんだろぉ……何か力になれれば…………ん?ここは……。
気が付くと、馴染みのある十字路に差し掛かった。
この道を真っ直ぐ行かないと、幼馴染の家に辿り着けない。
しかし、水香さんはこの十字路を左に曲がろうとしていた。
……そうだった……どうしよぉ……せっかく、水香さんの力になれるかもしれないのに……。
何度か遊びに行ったことがあるから、水香さんの家が何処にあるのか分かっていた。
このまま水香さんについて行くと、幼馴染の家から、どんどん離れて行ってしまう。
だけど……。
……よぉし!あまりない機会だもんね!もう少しだけ……水香さんと一緒に帰ろう!
心でそう決心すると、改めて、水香さんの言葉を思い出し、記憶を巡らしてみた。
〈噂〉
〈SICマンション〉
……噂……マンションの噂……何だっけ……何か…………っ?!
ピンと来た。
「あっ! でも、どこのマンションかは分かりませんけど、マンションに関する噂は、かなり前に聞いた事がありますよぉ」
確かに、マンションに関する話はあった。
だけど……。
……怖い話……噂話ではないのかなぁ……でも……。
怖い話も、話によっては噂話と言える。
私が体験した話ではないし、聞いた話。
本当かどうかわからない話。
そうなると、噂話と言っても嘘ではないかな。
「ホントっ?! 教えて!」
水香さんが、期待を込めた表情でそう言いながら、自転車に身を乗り出した。
……どうしよう……プレッシャーだぁ……余計なこと言っちゃったかなぁ……でも……。
とりあえず、知ってる話だけでも、思い出した話だけでも、伝えた方がいいかな。
もしかしたら、怖い話が苦手ということもあると思う。
「いいですよぉ。え~と、噂というか、怖い話になっちゃうかもしれないですけど……大丈夫ですかぁ?」
「え? ……大丈夫大丈夫!」
水香さんは、一瞬だけ訝しげな表情を浮かべると、すぐに微笑んだ。
……だよね……だけど……話そう。
記憶を辿った。
数年前に聞いた話。
高校生の時。
友達から聞いた話。
マンションで起きた事件。
思い出せる限りを……。
「それでは……確か、高校生の時、友達から聞いた話なんですけど……あるマンションの一室に泥棒が入るという事件があって……え~とぉ……そして、その部屋の住人はそのマンションから立ち退いてしまった……ということがあったそうです」
……始まりは……こんな感じ……だったかな……。
「立ち退いた?」
話の内容を、水香さんが確認してきた。
「はい、そうです」
簡単に答えると。
「……なんで? 被害がそんなに深刻だったの?」
……あれ?何でだっけ?……確か……大した意味はなかったような……。
思い出せない。
やっぱり、大した話じゃないのかもしれない。
そもそも、単なる前置きであって、深い理由まではないのかも。
……そうだ!違う!これが表向きの話で……裏の話が……。
閃き、思い出した。
「え~と……表向きはそんな理由だった、らしいです」
「裏の話があるってこと?」
……さすが!水香さん!鋭い!
心の中で、水香さんを称賛すると、再び、記憶を辿った。
裏の話。
怖い話を……。
「はい、そうです……え~とぉ……その立ち退いた住人は、とても仲の良い夫婦で、泥棒が入る前は、いつも一緒に仲良さそうにしているのを、他の住人が見かけてた……ですが……泥棒が入ってから、その夫婦が一緒に行動してるのを見かけることがなくなった……というか、妻の姿を見た人は、誰一人いなかったそうです……
それで……あれ、違う、かなぁ……そして、その夫婦は、マンションを立ち退いていった……」
……あれあれ?こんな終わり方じゃなくて……え~と……もっと……色々あって……何だっけ……あれぇ……ごっちゃになってきちゃったぁ……。
横目で水香さんを見ると、訝しげな表情を浮かべているのが分かった。
……どうしよぉ……何だっけ? 確か妻が……ん~……断片しか思い出せない……。
「まさか……それで、終わりじゃないよね?」
水香さんが期待と不安が入り混じったような表情でそう言った。
……その通りです……水香さん……確か……話にバリエーションがあったはずなんだけど……でも、まずは……。
「そうなんですよぉ、ごめんなさい……うまく話せてないですよね?」
両手を合わせながら謝り、水香さんの返しを待たずに続けた。
「前に聞いた話だから、記憶が曖昧で……何となく憶えているんですけどぉ。この話は色んなバリエーションがあったはずなんですよね。続きをどう話せばいいのか、頭の中がごっちゃになっちゃって……すみません……」
「大丈夫……憶えてる範囲でいいから、話してみて」
私の言葉に、水香さんは柔らかい表情を浮かべて、そう言ってくれた。
……何とか……頭を整理して……え~と……。
地面に視線を落として、慎重に記憶を辿った。
「え~と、断片的になっちゃいますけどぉ。妻が誘拐された、とかぁ……泥棒は強盗だった、とかぁ……夫が妻を殺した、とかぁ……妻ではなく愛人だった、とかぁ……
え~とぉ……あと、なんだったっけ……ん~とぉ……」
頭の中にモヤが掛かって、それ以上の事を思い出せなかった。
……どうしよぉ……やっぱり、曖昧過ぎるよぉ……む~……こうなったら……。
この話を教えてくれた友達に、聞いてみよう。
早い方がいい。
今聞くべきかな?
……違う違う……万が一、連絡が取れなかった場合……水香さんの期待を裏切ることになりかねない……明日……明日聞こう!
そう決心すると、ゆっくりと顔を上げ、道の先に視線を移した。
……あっ!もうこんな所なんだぁ……。
目の前に、T字路があった。
あと十数メートルで突き当たる。
水香さんの家は、このT字路を右に曲がった先にある。
……さすがにこれ以上は……それに、ちょうどいいかも……あれを左に曲がろぉ……。
水香さんと別れ、T字路を曲がった先から、道を戻っていけばいい。
道は繋がってるんだし、問題はないと思う。
……方向音痴じゃないもんねっ!
心の中で軽く自慢すると、水香さんを横目で見た。
……もっと、水香さんと話していたいけど……マンションの話も聞かないといけないし……それに……。
道の先を一瞥すると、突き当りがすぐそこまで来ているのがわかった。
「すいません、水香さん。友達に聞いてみますね、友達も忘れてるかもしれませんけどぉ。話を聞けたら、連絡しますね」
「そう! ありがとう、よろしくね!」
「はい! すぐに連絡します!」
水香さんに頼られたのが嬉しくて、思わず両手をグーにして胸の前で構えてしまった。
私のその姿が面白かったのか、水香さんが笑顔を浮かべた時、T字路に突き当たった。
「あっ! 水香さん! ここを右、でしたよね? ……私、コッチなんで!」
水香さんが右に曲がる前に、そう言いながら、左の道を指差した。
……え?何……この道……暗い……。
道の先を眺めながら、後悔を覚えた。
私が指差している道。
街灯が一本しかない。
その先は真っ暗。
暗闇しかない。
道があるのかどうかさえ分からない。
危ない空気を醸し出していた。
「一人で、大丈夫なの? ……送るよ?」
水香さんも私と同じ気持ちを抱いたのか、心配そうにそう言ってくれた。
……今さら……戻ることはできない!
「大丈夫ですよぉ、すぐそこですからぁ」
笑顔を何とか作り、水香さんに答えた。
「……そう……じゃあ、気をつけてね!」
水香さんは、見定めるように私を見つめ、そう言った。
「はいっ! お疲れ様で~す!」
そう言って、水香さんに手を振ると、街灯が一本しかない道を、暗闇に向かって走り出した。
……いけないいけない!ボロが出る前に!
振り返ることなく走った。
まだ水香さんが見送っているはず。
せめて、あの暗闇の中に入るまでは……。
……水香さんに余計な気は遣わせれない……。
街灯の下を走り抜け、暗闇に入り込むと、徐々に走る速度を落とし、歩きへと変えていった。
「ぅぅ……暗いよぉ」
両手でショルダーバッグのベルトを掴み、歩きながら辺りを見回した。
……どうしよぉ……暗過ぎて前が見えない……でも……。
戻るわけにはいかない。
水香さんに心配は掛けられない。
何とかこのまま先に進まないと……。
……でも……この先に何が……。
道はあるの?
行き止まりとか?
何もわからない。
普段とは打って変わった行動範囲外の道。
……それに……この暗闇……。
何かが出て来たとしてもおかしくない。
……どうしよぉ……。
気付かないようにしていた感覚が……。
膨らみ出した。
……怖い……どうしよぉ……なんで……。
膨らみ出す恐怖と共に、後悔が湧き上り出した。
……やっぱり……あそこで別れてれば……こんな所まで……来なきゃよかったぁ……。
立ち止まり、後ろを振り返った。
……あっちは……明るい……。
一本の街灯が道を照らしていた。
その先を見ると、もっと明るくなっている事が分かった。
……そうだよね……明かりがあるもん……でも、何で?
疑問に思った。
どうして、この暗闇の先には、一切、明かりがないのか……。
この道はどこに繋がっているのか……。
何があるのか……。
……ちょっと、気になる……。
消えることのない恐怖心を他所に、好奇心が高まり出す。
「……どうしよぉ」
延々と続く暗闇を眺め、立ち尽くした。
好奇心はあるけど、圧倒的に恐怖心の方が強かった。
……やっぱり……怖い………………戻ろう……。
そう決めると、来た道を戻った。
明かりのある道へと……。
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