第7話 異質な夏休み①
【四年前:高校一年の夏休み】
高校一年の夏休みは人生で一番と言っていいほど、呆気なく終わりかけていた。
一年生といえども、甲子園の常連校の野球部だ。夏に入ると結城は忙しそうで、話す機会も減ってしまった。進級してすぐは補習や周りに追いつくための勉強で気にならなかったけれど、意外と自分の友好関係が狭いことに気づく。
案外、僕は野球部を除けば、立花ぐらいとしか会話をしていなかったようだ。夏休みの計画を楽しそうに立てていたクラスメイトに混じることもできず、ぼんやりとしたまま夏休みに突入すれば、立花と宝条の劇の練習ぐらいでしか外出の予定はありはしなかった。
あとは、家で漫画を読んだり、動画を見たり、ゲームをしたり、ごくまれに勉強をしていた。
夏休みは残り一週間に迫っていたが、明日からは夏期講習が始まる。実質的な休みは今日までだ。
講習で新しい課題が出る前に休業前に出されたものを片付けようと、居間の机の前に座布団を敷いて勉強をしていると上からしゃがれた声が話しかけてきた。
「あーくん。そろそろ休憩したほうがいいんじゃない?」
振り返ると、祖母がお盆に麦茶の入ったグラスを二つ持って立っていた。小柄で、薄くはなっているが父によく似たくせ毛をシニヨンネットでお団子にまとめている。心配そうに眉が下がっているが、心配性の祖母の眉は上がっていることの方が稀だった。ゆっくりとグラスを机に置くと、少し躊躇いがちにソファへと腰を下ろした。そしてテーブルの端にあったテレビのリモコンへと祖母の手は伸びたが、空中で少しの間さまよって、そのまま膝へと戻った。
不自然な動作が気になって、僕は一度ペンを持つ手を止めた。視線を上げて祖母を見ると、険しい顔をして、僕の手元を睨みつけていた。パッと左手に持っていたペンを離す。じっとりと逸らされることのない視線に生きた心地がしないまま、僕は右手で転がったペンを掴み上げた。
ほっと、祖母の体から力が抜ける。
「そう。そうよ。ちゃんと右を使ってね」
柔和な笑みを浮かべて、祖母は手元にあった麦茶に口を付けた。
「お勉強、頑張ってるみたいでよかった。新しいクラスには馴染めた?」
「……もう三か月も経ったから」
言葉を濁した僕に、祖母は気づきもせずに良いように受け取ったようで、嬉しそうに声を上げた。
「そう! そうよね! しーちゃんも同じクラスなんでしょう? 昔なじみの子が一緒でよかったわ。安心できるもの!」
しーちゃん、というのは、立花のことだ。幼稚園の頃、僕が彼女をそう呼んでいたから、今も祖母はそうやって彼女の事を呼ぶ。僕自身は小学校の中学年ぐらいで止めたその呼び名は懐かしさと気恥ずかしさを感じさせて、どうも苦手だ。
そのくせ、一番しっくりくるのだから始末に負えない。
「今日の朝ね、しーちゃんとすれ違ったの。部活の朝練習に行くんだって言ってたわ。今日は午前中で終わるって言ってたけど、夏休みなのに大変よねぇ」
「へぇ……」
生返事しながらも、僕は内心、立花に対して感嘆していた。さすが強豪。しっかりと練習があるらしい。それに加えて、午後からは立花と練習の約束がある。立花はあの日、宝条へ約束を果たすため、ほぼ毎日と言っていいほど彼女の劇の練習を怠らなかった。
立花への付きまといの件は、まだ解決していない。そのこともあって僕も毎度、彼女たち二人の練習に付き合っていた。
夏休みに入ってからは多少は時間に余裕ができ、遅い時間までやることはなかったからか、未だに僕は付きまといに対しての手掛かりはつかめていない。
そして、さすがに毎日、練習に付き合っていれば、僕の絶望的な演技力もましになるかと思いきや、まったくの成長も見せていない。その反面、宝条はメキメキと上達していっていた。始めたころは、僕と大差なかったというのにすっかり置いていかれてしまった。
「でも、午後はしーちゃんと遊びに行くんでしょう? 悠馬君も一緒?」
「いや、今日は結城はいない。他の友達が一緒だ」
「へぇ。珍しいのね~」
ニコニコと笑いながら祖母はお茶を飲んでいた。そうか、珍しいのか。彼女の何気ない言葉を僕は心の中で反芻していた。
確かに、言われてみるとそうだった。結城とは小学校からの付き合いだ。低学年の頃に意気投合して、彼に誘われて野球を始めた。それからは毎日のように同じチームで練習していた。立花とは幼稚園からの付き合いで、家が近所ということもあり、必ずと言っていいほど一緒に下校していた。
いつの間にか、三人一緒にいるのが自然になっていた。最近は、そろうことの方が珍しいけれど。
原因は――。
『ね。今度は悠馬を仲間外れにしてやろうよ。私と一緒に』
ぱっと脳裏にいつぞやの立花のセリフが思い浮かんだ。
そんな自分に、ぞわりと全身の毛が逆立った。
僕は今、何を考えた?
落ち着かない感情を抑えたくて、咄嗟に左肩に手をやった。もう痛みなんかない。不便なんて、片手で数えるほどだ。
もう後ろを見たって仕方がないだろ。割り切るって決めたじゃないか。宝条みたいに。立ち向かわないと、受け入れないと。
恨んだって仕方がない。
「……っ、どうしたの!? 痛いの? びょ、病院……」
「だ、大丈夫! 気になっただけ、気になっただけだから……」
脂汗をかきながら左肩を抑えていたせいで、祖母がぎょっとした顔をして、駆け寄ってきた。僕はすぐに手を放して、、平気なことをアピールする。
祖母は涙目になっていた。しきりに僕の左肩をさすり、顔色をうかがう。
「やっぱり、まだ治ってないんじゃないの? ……や、野球なんてっ、やっぱり、させるんじゃなかった……!」
ずきり、と胸が痛む。心配させてしまったこともだけれど、何よりも、そんな後悔を祖母がしていることに傷ついた。
彼女は誰よりも僕の事を気にかけてくれるけれど、僕の事を理解はしてくれなかった。
心配性で神経質で、テレビで体に悪いと聞いた食べ物は食卓に上がらなくなるし、左利きが苦労すると聞くと渋い顔をして右手を使うように忠告するようになった。
繊細な祖母にとって、母親のいない僕は大層みじめに見えるらしい。この世の終わりのような顔で、母の仏壇を眺めて、いつも父を睨みつけている。そして、いつも罪悪感を抱いた目で僕を見る。
言えない。やっぱり、お婆ちゃんには。
ぼろぼろと泣き崩れる祖母を宥めながら、諦めに近い感情が胸の中に広がるのが分かった。
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