第6話 春の悪夢⑥

「――警察には連絡しない」

 かさつく口から、やっと出た言葉はほとんど無意識からの事だった。立花の学生証を手に持ちながら、気味の悪い男の死体を見下ろす。

「連絡しない? どうしてや」

 河西は不思議そうに振り返った。玉井はただ青い顔で黙り込んでいる。

 なんとなくそうした方が良い気がしたから、なんて、本音を話しても彼は納得しないだろう。当たり前だ。それでも理由なんてものは分からない。きっと忘れた記憶の中にあるものだからだ。

 でも、彼らを納得させ、かつ高い可能性を示す事柄があった。

 先ほどまでの錯乱していた僕の頭の中。風呂場の天井から落ちてきたブルーシートや包丁。何より目の前に横たわる死体。

 チラつく脳裏に、赤い手の平が映る。

「……僕が殺したかもしれない」

「え?」

「……なるほどねぇ~」

 呆気にとられた玉井に反して、河西は苦々しい顔をして顎に手をやった。

「せやったら、このまま放っておくんがええな。下手に触ったら変に証拠が残りそうや」

 河西は、はぁと小さくため息をついて肩を落とした仕草をしたが、そこには動揺した様子はない。底の見えない態度にこちらが肩透かしを食らったが、賛同してくれるのなら好都合だった。

 予想と反した態度を取ったのは玉井のほうだった。

「え。え。放っておくって……この人を、このまま?」

 先ほどから静かだと思っていたが、揺れる瞳でこちらを振り返った。可能な限り死体を視野に入れないようにしているのか、その動きはぎこちなく不自然だった。

「まだ決まったわけやあらへんけど、正直な話、俺は十分可能性があると思う。疑惑があるなら隠しとくべきやって。あずやんが捕まらんためにも、せめて記憶が戻るまではな」

「だ、駄目に決まってるじゃん! こんなところに! それに、あなたが殺すわけがないじゃない。なんでそんなことを言うの?」

 玉井はひどく取り乱した様子でこちらを振り向いた。小さく肩を震わせて、縋るようにこちらを見ていた。

 僕はそんな玉井の視線から逃げるように目をそらして、もはや原型もないような死体を見下ろした。

 この死体を見ていると、どうにも落ち着いていられない。胸の中がざわついて、指が震えるようだった。

 この感情はなんだろうか。罪悪感。怒り。恐怖。理由の分からない感情からは、何が当てはまるのかさえ分からなかった。

 でも、あの歪んだガードレールを目にした時、僕の中に生じたのはただ事ではない感情だった。

 この死体の事を僕が知らなかったとは思えない。それなのに、人知れずにこの死体はここに在った。

 ――僕は、この死体の存在を隠していた。

 認めたくない事実が、目の前に現実として存在している。ぎりっと、小さな痛みが手のひらに走って僕は咄嗟に右手を上げた。気づけば食い込んでいた爪が手のひらに傷を作っていた。

 小さく浮き出た赤い血を指で拭う。

僕が気になった先に死体が転がっていて、そいつは立花の学生証を持っていた。僕と、そして立花が、彼に関係していることだけは確かだ。

おそらく僕は、この死体の理由を知っていたはずだ。知っていて、隠していた。

痛みが僕を冷静にさせた。

「頼む、玉井。今は僕の言うとおりにしてくれ」

 声に出た言葉は、想像していたより冷たく無感情な声音だった。

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