第6話 春の悪夢①
【現在:大学二年の春】
カリ、カリカリッ。何かが擦れる音で、頭がぼんやりと意識を結ぶ。視界がぐるりと揺れて、目の前には見慣れた自室の景色があった。
夢だ。
自宅に土足で立っているのを見て、僕はこれが自分の見ている夢の中だと悟った。
カリカリ。
再び、何かが擦れる音。音のする方へと顔を向ける。風呂場の方からだ。
室内を土足で歩くことに違和感を抱きながら、僕は廊下を歩く。やけにリアルな質感がある。
風呂場の前に立つと、磨りガラス越しに人影が見えた。
扉を開けるとスプリングコートを着た細身の人間が爪先立ちをして天井へ右手を延ばしていた。足元には踏み台があり、伸ばした指先がギリギリ天井を掻いている。
身長はあまり高くない。僕と同じぐらいだろうか。顔は見えない。そこだけ、靄がかかったみたいだ。
「……何をしているんだ?」
声をかけると、その人物はぴたりと動きを止めた。そしてこちらを振り返った。
『……』
無言でこちらを見ている。居心地の悪さから視線を逸らすと、微かに声が聞こえた。
『……ぃ、ばぁ……』
ばっと顔を上げる。人影の口がゆっくりと動いて音を紡いでいた。それなのに、人影と僕との距離はたいして開いていないのに、掠れてよく聞こえない。聞き返しても、古いテープを再生しているみたいに途切れ途切れで上手く聞き取れない。
『…ぇ…じょう、……ぁ、……も、だ……』
こちらが不可解な顔を浮かべたからか、人影は短い髪を掻きむしり、苛立たしそうに自分の口を指さした。そして同じ口の動きを繰り返した。
『ぉ、い……ぇ』
聞き取れずとも、短い単語の繰り返しは口の動きを見れば読み取れた。
『思い出せ』
咄嗟に人影から距離を取る。体は引きつり、思うように動かすことが出来ない。ぐるりと視界が動くと、どっと体が寒さを感じた。
パッと目が覚めると、何度目かの下宿先の天井が目に入った。体は汗でずぶ濡れで、心臓が早鐘を打っていた。荒い呼吸を整えながら、強張った体を起き上がらせる。
――悪夢だ。
直感的にそう思った。
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