第5話 夏休み前④

 宝条を最寄り駅へ送り届けて、立花と帰り道を歩く。川沿いの道は相変わらず薄暗く、宝条のすすり泣きを思い出して苦笑いがこみ上げてきた。あの時は心臓が止まるかと思った。

 隣を見れば、立花も同じことを考えていたようで感慨深げに街灯を見ていた。以前は点滅を繰り返していたけれど、電灯を付け替えたのかしっかりと灯りを保っている。

「そういえばここで宝条ちゃんと会ったんだもんね」

「あれは……怖かったな」

「やっぱり怖がってたんだ」

「う、うるさい」

 人差し指で小突いてきた立花の手を押し返す。けらけらと笑い声をあげながら、立花は目に浮かんだ涙をぬぐいながら立ち止まった。

「じゃあ、また明日ね」

 気付けば立花の家のすぐ近くまで来ていた。昔なじみの立花の家は僕の家の近所で、通りを後二つ過ぎれば僕の家に着くぐらいだ。普段なら、ここで別れるのだけれど――。

「家の前まで送ってく」

「え。どういう風の吹きまわし?」

 結城の話が引っ掛かり、気付けば僕はそう提案していた。立花は驚いた表情をしている。

 上手い言い訳も思い浮かばず、たじろぐ僕を立花は怪訝そうにじろじろと窺い見た。つま先からてっぺんまで無言で見つめられて、誤魔化しきれないと判断した僕は、事情を白状してしまうことになった。

「……結城から、最近誰かに付きまとわれてるって話を聞いた」

 立花が小さく舌打ちをした。

「あいつ……」

 歯ぎしりの音まで聞こえそうなほど険しい表情に、思わず気圧される。僕は心の中でそっと結城に謝った。

 後ずさった僕に気付いた立花は、ぱっと表情を明るいものへと変えた。流石、演劇部エースと言うべき変わり身の早さだ。

「別に東が気にする事じゃないよ。付き纏いっていっても知り合いだから」

「知り合い?」

 予想外の言葉に聞き返すと、立花は軽く答えた。

「そそ。演劇部の後輩の男の子。顔も名前も知ってるし、気の弱い子だから心配いらないよ」

「そう、か」

 断言する立花に押し切られる形で頷いてしまった。

 しかし、相手の正体が分かっていることにはひとまず安堵した。学校の後輩ということは、中等部の人間か。立花と結城が付き合っていることも知っているだろうし、放っておけば勝手に諦めるかもしれない。

 ……いや、でも安心はできないんじゃないか。僕がもう一歩、問題に踏み込もうとしたとき、目の前に入った光景に思考が停止した。

 立花の家の前に人影があった。玄関に明かりが灯り、背の高い男に対して立花の母親が対応していた。少し面倒そうに対応しているのが、離れた場所でもうかがい知れた。

「なんだろ?」

 立花が困惑気味にこちらに話しかけてきたが、僕は反応を返すことすらできなかった。

 固まったままの僕らに、立花の母親が気付いてほっと緊張を解いた。彼女に絡んでいた男がこちらを振り返る。

「……父さん」

「東っ!」

 眼鏡をかけたくせ毛の神経質そうな男が、僕の姿を認めて安堵の表情を浮かべた。

「こ、こんな時間まで何してるんだ! あ~、もう。心配したじゃないか」

 大げさな手振りで安堵を伝える彼に、立花が不安そうにこちらを見つめてきた。僕は彼女から距離を取ると、僕の父から離れるように手を振って伝えた。

「ごめん、立花。連れて帰る。おばさんにも謝っておいてくれ」

「で、でも」

 困惑気味の彼女を置いて、僕はとりあえず父に駆け寄った。

「仕事、早かったんだね」

「あ……ああ! そうなんだよ。今日は早めに上がれてね。久々に早く帰れたんだ。それなのに、それなのに家にいないから」

「ごめん。すぐに帰るよ」

 僕が謝ると気がすんだのか、父は頷いて、立花の母へと向き直った。

「すみません。遅くにお邪魔して。お騒がせしました」

 くせ毛へと手を置いて頭を下げる父へ、立花の母は顔を顰めながらも厄介ごとから解放されて嬉しそうだった。そして、ちらりと僕を見て、気の毒そうな目をした。

 会釈をして、視線を逸らす。顔を上げると、立花がまだこちらを見つめていた。

何か言いたげな彼女を無視して、横を通り過ぎる。立花は何か話しかけようとした様子だったけれど、父が顔を向けたのに気付いてびくりと体を震わせて口を閉じてしまった。

出来るだけ、立花たちから意識を逸らして早足にその場を後にする。僕の後ろをゆっくりと父が付いてきていた。

「しおりちゃん、大きくなったな~」

 彼女の姿が見えなくなってから、暢気に話しかけてきた。

「あの子、可愛いよな~。あんな娘がいたら幸せだろうなぁ。な、東。もしかして、あの子と付き合ってるのかぁ?」

 にやにやと笑いながら、話しかけてくる父に苛つきながら、僕は何度目か分からない答えを返した。

「立花には彼氏がいるよ。結城。知ってるだろ?」

「え? あぁ~……」

 曖昧に返事を濁らせた後、父はふっと嗤った。

「でも、あの子、お前の方が好きなんじゃないか? きっとそうだよ。今日だって一緒に帰ってたんだろう?」

 胸の中にざわざわと不快な感覚が生まれる。気分が高揚しているような、逆に落ち込んでいるような、とにかく落ち着かない感覚を振り払い、無視したまま歩き続ける。父の話にまともに付き合えば、疲れるのは分かっている。

「おーい。東ぁ~、お前、歩くの早いよ~。なんだよ、照れてるのかぁ~」

 後ろから聞こえる癇に障る声から逃げるように、足早に歩く。目を背けたいことばかりに、嫌気がさす。

立花に見られた。また。立花のおばさんにも迷惑をかけた。父さんに立花を見られた。

 申し訳ない。恥ずかしい。

 冷たい風に当たっていないと、羞恥でおかしくなりそうだった。

 すっと襟足に汗ばんだ皮膚の感触が触れて、咄嗟に手で押さえた。振り返ると、驚いた表情で父が手を伸ばして立っていた。

「な、何?」

「髪」

「えっ?」

「髪。伸びたな」

 野球をしていた時は刈り上げていた頭に、父はポンと手を置いた。そのまま、高校生の息子に触れるにしては、壊れ物に触れるような手つきで撫で始めた。

「前々から伸ばした方が似合うと思ってたんだ。東の髪は、母さん似でサラサラしてるからな」

 鳥肌の立った腕でこぶしを握りながら、僕は軽い力で押さえつける頭の上の手を払うことが出来なかった。

 父は、悪い人じゃない。

 無神経な言葉を投げかけるのも、高校生にもなる息子が少し遅くなっただけで知り合いの家に押し掛けて迷惑をかけるのも、悪意があっての事じゃない。

 僕さえいなければ、『普通の人』だ。普通に朝起きて、職場に行って、高校教師として教壇に立って、古文や漢文、現代文なんかを教えている。時には生徒の悩み相談に載って、同僚からは頼りにされて、周囲に聞けば、真面目で誠実で優しい人だと返ってくる。

 ただ、僕を憎んでいる。母の命を奪って生まれてきた僕のことを、愛しながらも憎んで、いつまでもどう扱えばいいのか分からないままなのだ。

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