第3話 宝条先輩の妹①

 電柱の影で蹲ってすすり泣いていた宝条先輩の妹は、長い黒髪の間から眼鏡越しに僕を見ていた。

「だ、大丈夫?」

 動揺した僕からはありきたりで薄っぺらな言葉しか出てこなかった。

 僕の言葉に、宝条妹ははっと我に返って、スカートを引っ張って足を隠した。

「だ、大丈夫です! だいじょっ、ごめ、ふっ――」

 嗚咽交じりに、ボロボロと大粒の涙が再び流れ落ち始めた。

 泣いている女子を前に動揺して何も出来ないまま立ち尽くしていると、後ろから立花が乗り出した。

「ちょっと! 絶対大丈夫じゃないでしょ! もー! 東もなにボーっとしてるの!」

 硬直して立ち尽くす僕を押しのけて、立花が彼女へ駆け寄り。ハンカチを取り出して強引にその手に持たせると、スカートを捲って怪我の確認をし始めた。細い足が露わになって咄嗟に目を逸らす。

「東! ハンカチ!」

「あ、ああ。悪い……」

 急いで鞄を漁って、いつ入れてかも忘れたハンカチを取り出す。使っていないから大丈夫か? いや、駄目か? どうでも良い事が気にかかりそのままフリーズした僕の手から立花はハンカチを奪い取ると、宝条の足に着いた汚れをそれで拭った。

 しばらくして、立花が甲斐甲斐しく世話していたからか、彼女は幾分か落ち着いたようだった。頃合いをみて、立花が静かな口調で問いかけた。

「こんなところで何してたの?」

 宝条はまだ鼻を啜りながらではあるが、おずおずと答えた。

「……その、兄に会いに。寮に住んでいるので」

「じゃあ、僕が連絡を――」

「やめて!」

 僕が鞄から携帯を取り出そうとすると、宝条は鋭くそれを静止した。先ほどまでとはまるで別人のように険しい声に僕は驚き、再び硬直してしまった。情けない僕の姿に、立花が呆れた顔でため息を落すと、その音に反応して宝条がビクリと肩を震わせた。

「あ、ごめ、ごめんなさい。私、でも、やっぱり……私、帰るから……帰りますから、連絡は入れないでください。勢いで来ちゃったけど、やっぱり、お兄ちゃんには……た、大切な、時なのに……」

 そして体を縮めて、地面に落としていた鞄を掴んでその場を離れようとした。

「ちょっと! 流石にほっとけないから!」

 すぐさま立花が彼女の裾を掴んで引き留める。立花はちらりと僕の顔を見ると、顎で携帯をしまうよう指示した。

「れ、連絡はしない。分かった。悪かった」

 急いで携帯を鞄に戻す。宝条はそれにほっとした表情を見せた。

「何かあったんでしょ? 話してみてよ」

 間髪入れずに、立花は彼女へ話しかけた。優しい声音で、安心を誘う笑顔を浮かべているが、抜け目なく宝条の行く先へ体を入れてふさいでいる。しかし、よく見れば後ろに回している手が震えていて、動揺しているのが分かった。

 宝条は明らかに困った顔を浮かべていた。視線は落ち着きなく泳ぎ、その目からは涙がこぼれている。

立花は何とか宝条に理由を聞こうとしていたけれど、彼女は頑固に首を振るだけだった。立花の説得も意味をなさず、宝条も立花を振り切るために断りの言葉を口にして、双方が気の毒なほど時間だけが流れていく。

「……で、でも、そんなの西山さんたちに、関係ないことなのに。た、頼れない。練習とか、いそ、忙しいのに」

 流れていく宝条の言葉の一つに、あ、と思った。

そうか、彼女は僕が野球を辞めたことを知らないんだ。普段の僕ならば、ふと思い出しされたその事実に、どうしようもなく打ちのめされて言葉が詰まって何も言えなくなってしまうのに、どうしてなのか。その時は、するりと、特に大きな感慨も無く、当たり前のように言葉が出た。

「いや、忙しくないんだ。肩壊しちゃって。今は、やる事がなくて……だから、それは気にしないでくれ!」

 不自然に声が大きくなってしまった。

あからさまに虚勢と分かる僕の発言に、宝条は見るからに顔を青ざめさせた。おそらく自分の言葉を失言だと感じたのだろう。僕の左肩と顔をせわしく見比べて、ほとんどパニック寸前の様子で固まって黙り込んでいる。

 むしろ失言したのは、僕の方だ。立花がどんな顔をしているのか、怖くて目を逸らしたまま、なんだか可笑しくなって笑い声まで出た。

「はは。だから、良かったら話してみてくれないか」

 ただ、残念なことに笑い声は喉につっかえて、乾いた音にしかならなかった。ここで高らかに笑えたのなら、とも思ったけれど、それでもいいかとその時は思えた。

未だに割り切れないことが、女々しく野球に縋り付いていることが、それだけ野球が好きだったことが、分かってしまったから。仕方がないと感じてしまった。

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