第1話 大学二年の春①

 その日、混乱した頭で僕は、本来大学に入学してから入居する予定だった家へと足を運んだ。鞄に入っていた鍵はピッタリと新居の鍵穴へと嵌った。

 中に入ると、そこは既に生活感にあふれ、一年間そこに自分が住んでいることを感じさせた。

 結城……死んだのか?

 もう何も考えたくない。自然と涙が溢れてくる。ただでさえ、記憶を失くしてどうすればいいのか分からない状況の中、喪失感が僕から活力を奪っていく。

 どうすればいい。嫌だ。何もしたくない。あの潰れるような音、彼はどうなってしまったんだろう。助けに行かないと。でも、どこに?

 ピンポーン。

 不意に、行き詰まった思考にとどめを刺すように呼び鈴が鳴った。

 急かすように、何度も押される。僕はインターフォンを確認することも忘れて、ふらふらと玄関の扉を開けた。

 そこに立っていたのは、同年齢の女性だった。すらりとした手足に小さな頭、顔はまるで作り物のように整っている。

「……うわ。東くん、どうしたの? その怪我」

 知らない女が、僕の名前を口走る。

「あんた、誰だ」

「誰って……、あはは。何その冗談。『玉井るり』だけど」

「『玉井たまいるり』っ……!?」

 その口から出た名前に、僕は衝撃を受けた。あの電話の主の名前だ。

「た、玉井るり! お前、結城に何を、いや、結城はどこにいる!」

「えっ、ちょ、ちょっと。いきなり何?」

「お前の携帯から結城が電話をかけてきたんだ! お前が、お前が結城に何かしたんだろう!」

「何言ってるの? 携帯は数日前に失くしたって言ったじゃん」

 突如掴みかかってきた僕に、玉井は酷く驚いた様子で押し返した。

「もー、何なの。家に呼んだのは東くんなのに」

「は? ぼ、僕が?」

 彼女の毅然とした態度に、つい怯んでしまう。しかし、その言い分を信じられるような性格を僕はしていなかった。

「変な冗談は止せ! この僕がこんな時間に女の子を家に呼べるわけないだろ」

「えー? 頭でも打ったの? あ、本当に打ってるのか。とりあえず家に入れてよ。玄関先で騒ぐと近所迷惑だよ?」

 ちらり、と玉井が外へ視線をやる。近隣住民が顔を出していたようで、玉井が人当たりの良い苦笑を浮かべて会釈をしていた。

 僕は渋々と彼女を家の中へ通した。怪しい女だが、何か手がかりを持っているのは確かだった。

 玉井は勝手知ったる様子で、押し入れからクッションやらたたみ机やらを取り出し部屋の中央へ置いた。僕は渋々と敷かれた座布団へ座った。

 そして、彼女は手に救急箱を持つと、僕の後ろへと回った。

「ほら頭の傷、見せて」

「断る。僕は君の事を信用してないからな」

 咄嗟に頭の怪我を隠す。睨み付けると玉井は心底面倒臭そうな表情をした。

「……引ん剝いてやろうかな、こいつ」

「なっ、何を考えているんだ!」

 不穏な言葉に救急箱をひったくる。怪しいだけじゃない、この女は危険だと僕の本能が告げていた。

「本当、仕方がないなぁ。ついでにお風呂に入っちゃったら? とてもじゃないけどそのままいると風邪ひくよ」

 玉井はじろじろと僕の姿を眺めていた。あの穴の前から帰ってすぐ、上着を脱いでタオルで水を拭っただけの姿だ。しかし、僕はそんな悠長なことをしている場合じゃない。

「素性が知れない人間を前にしてそんなことできるか。それに……」

 結城からのあの電話。高いところから落ちたような墜落音が耳から離れない。……彼が飛び降り自殺をしたのなら、早く駆け付けなければいけない。運が良ければまだ生きている。

「何をそんなに焦っているのか分からないけど、少し落ち着いた方がいいと思うけどな。それに、東くんがさっきから気にしてるユウキくん?だっけ。確か東くんの高校の時の同級生だよね。たまにサークルの活動で顔を合わせてた。そんなに仲良そうには見えなかったけど……」

 玉井は少し呆れた様子で、そしてそれとは別に僕を心配しているようだった。訝し気に、しかし慎重に僕を眺めている。

 僕は玉井と彼に面識があったことに驚き、一年間の記憶が欠け落ちたことに確信を抱きつつあった。ピッタリ一年。卒業式の帰り道から、それ以降の記憶がない。

 当時、僕は地元の大学への進学と父親の転勤が重なって、親戚のアパートへ入居することが決まった。同級生のほとんどは県外へと出ることが決まっていたが、結城は僕とは別の県内の大学へと進む予定だった。

 玉井は暫く、困った様子で言葉を選んでいた。しかし、少し逡巡し、諦めたように口を開いた。

「死んだって。さっき、サークル仲間から聞いた」

 冷徹に、そして残酷に、彼女はその事実を口にした。

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