ムジナの穴

見切り発車P

プロローグ

 目を開けてまず見えたのは、灰色の空だった。勢いよく雨粒が目に入り、咄嗟につぶった。

 ざあざあと降り注ぐ雨が、全身を濡らしていた。

 混乱し周囲を見渡す。

 どこだここは? 僕は卒業式から帰るところだったはずだ。不安を感じながら、斜面に手をついて上体を起こす。草と荒い土の感触。辺りは鬱蒼と草木が覆い茂っている。人の手が入っている様子はなく、低木と背の高い草が入り混じって雑多な印象を受けた。

 辺りを見回すと、今いる場所から斜面の上にかけて草が押し倒されていた。どうやら上から滑り落ちてきたらしい。意識すると、体のあちこちが痛んだ。

 ゆっくりと立ち上がり、泥だらけの服を申し訳程度にはたいた。水を含んだ服は重い。不安定な足元に注意して、滑ってきたであろう道を引き返す。一歩一歩が億劫で、どこか意識は霞がかっている。

 記憶が飛んでいるのか? そうだとして、こんな山の中で僕は何をしていたんだ?

随分長い事、雨の中で意識を失っていたようで全身濡れ鼠だった。泥だらけの全身は打ち身だらけで、寒気がする。呼吸をするたびに、肺の奥が焼けるように痛かった。頭もズキズキと痛み、思考を妨げる。足が地面を踏むたびに、靴から水が溢れる。

 分からない。何も思い出せない。ずるずると、体を引きずるようになんとか斜面を登りきると、開けた場所に出た。

「……なんだこれ?」

  草が踏み倒されて複数人が行き来した様子がある。そして、その痕跡の中心には何かを掘り返したような跡だけが残っていた。乱雑に置かれた数個のシャベルと、土の山、そして大きな穴。穴の中を覗いてみるが、そこには何もない。

 ぽっかりと空いた穴だけが僕、西山東の目の前にあった。

 不可思議な何かの跡を前に呆然としていると、突然ポケットの中が震えた。驚いたのも束の間、震えているものがポケットに入れていたスマートフォンであったことに気付いた。

 慌てて取り出して、画面を見た。

知らない名前だ。

 慌てて、僕は切電ボタンを押す。心臓は大きく音を立てているのに、まるで他人事のように響かない。

 ぱっと切り替わった画面に、僕は大きな違和感を抱いた。

 そして、その正体に気付き、指先には痺れるような感触が広がった。

 20××年3月17日。

 ディスプレイに冷たく表示された文字列は、何度瞬きをしても変わることがない。冷や汗がにじむ。

 その日付は、一年後の日付のはずだった。

 僕は、血の気の失せた表情で呆然としていた。これは一体どういうことなのだろう。目の前にある現実に理解が及ばず、立ち尽くす。

 ズキン、と頭が痛み、咄嗟に手をやると、どろりとした感触がした。手の平を目の前に持ってくると、赤黒い液体がべっとりとついている。

 非日常的だ。

 混乱した頭はまともに動かなかった。

 追い打ちをかけるように再び、携帯が鳴り始める。

 画面にある名前は『玉井るり』とあった。

 麻痺した頭は思考を止め、僕は少しでも事態を飲み込もうと通話ボタンを押した。とにかく、手がかりが欲しかった。

 通話が繋がり、まず聞こえたのは静かな環境音だった。

「も、もしもし」

 恐る恐る、話しかけると、聞き覚えのある声が話し始めた。

『……あずまか?』

結城ゆうき!」

 十年来の友人、結城ゆうき悠馬ゆうまだ。

「ひ、他人の電話からかけるからびっくりしたじゃないか! あのさ、今、おかしなことが起こっていて、相談にのって欲しいんだけど」

 僕は藁にもすがる思いで、急いで結城に助けを求めた。知り合いの声を聞いたことで安心したということもあった。不自然に饒舌になった僕に、結城は少し面食らった様子を見せたが……、聞き終えた瞬間に鼻で笑った。

『相談? 俺が、お前の相談にのるわけないだろう。お前、自分が俺に何したと思ってるんだ』

「えっ」

『この裏切り者め。お前も同じ穴の貉だからな』

 呪詛の言葉が羅列されていく。その全てが、嘘や冗談ではない苛烈な感情を露わにしていた。

『お前のせいで俺は死ぬんだ』

 そう彼が言った瞬間に、静かだった環境音は鋭い風切り音を奏で始め、ぐしゃりと潰れるような音と共に通話は終わった。

 そうして、僕の大学二年の春が始まった。

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