青ひげ危機一髪
@otaku
第1話
今朝は嫌な夢を見た。夢の内容は醒めてしまった瞬間からもうあまり覚えていないのだが、拷問を受けていたような気がする。身動きの取れない状況で、串刺しにされて、気を失うほどの痛みがあったような。無論、夢の中の出来事だから僕の身体から血は流れていないけれど、滝のように汗を流しており不快である。
でも、悠長にシャワーを浴びている余裕などないことに時計を見て気がつく。そこには本来起きなければならない時間から三十分は遅いものが表示されていた。デジタルだから読み間違えようもない。
僕は顔面蒼白になった。今日は朝イチで大事な商談があるのだ。つまり、絶対に遅刻はできない。僕は急いで顔を洗って歯を磨き、スーツに着替えると朝ごはんは食べずにそのまま家を出る。それから駅までの四百メートルほどの道のりを駆け抜けて何とかオンタイムで駅に着く。
飛び乗った電車のドアが閉まってゆっくりと動き出した。ようやくほっと一息ついたのも束の間、窓に目を向けるとそこには自分のやつれた顔が反射している。特に口の周りに暗い影が落ちている。いや、影ではないな。嫌な予感がして、吊り革を掴んでいない方の手で顎をなでるとジョリジョリとした。そこで初めて髭を剃り忘れていたことに気がついた。繰り返すが今日は大事な商談がある。電車は猛スピードで会社の方角へ走ってゆく。
項垂れているサラリーマンの横では女子高生たちが会話に花を咲かせている。曰く、この夏休みに稼いだ金で脱毛に行こうと思っているらしい。
「えーいいなあ。脱毛わたしも気になってるんだけど、どこのが良いのか全然分かんなくて」
「ミカ先輩に教えてもらったんだけど、○○駅の××美容クリニックがいいらしいよ」
気付くと僕は××美容クリニックについてスマートフォンで調べていた。見た限り口コミはそれほど悪くなさそうである。
○○駅は会社の最寄駅ではなかったが、僕はそこで途中下車してクリニックへ急いだ。センサーの切られている自動ドアのガラスをガシガシ叩いて、まだ中で営業準備をしていた受付嬢に開けてもらう。
「お客様、当院の営業時間は九時からでございますが」
「事態は一刻を争うんです。いますぐこの髭を脱毛していただけませんか」
「お客様、ご予約は?」
僕は無言で首を横に振る。その後で受付嬢の目をじっと見つめる。彼女の目には怯えの色が見える。押しに弱そうだ。とてもじゃないが営業向きとは言い難い性格だ。
受付嬢が上の者に確認してみますなどと言って奥に消えたタイミングでポケットに入れたスマートフォンが振動する。液晶画面を見るとそこには課長と表示されている。
「おい、お前なんでまだ来てないんだよ。今日朝イチで商談あんだろ」
僕は、一度深呼吸をした後で、すみませんいまから手術なんでと告げる。嘘は言っていない。
「手術? お前、どこか怪我でもしてるのか?」
電話の向こうで課長は明らかに狼狽えている。僕はダメ押しでもう一度「今から手術なんで」と繰り返して電話を切る。
それから数分待ったのち、受付嬢が奥から医師を連れてきた。その医師の顔には、右眉の上から眉間を経て左頬にかけて、特徴的な縫合痕がある。室内だというのに黒いマントを羽織っている。どこかで見たことあるような気がするが、こんな格好の医師などごまんといるだけかもしれない。
「私は当クリニックの院長を務めている者です。普段は経営に専念しているのですが、頼まれれば施術もします」
「そんなお方が来たということは、手術やっていただけるんですね」
すると、お客様のような髭の濃い方には全12回施術のヒゲ全体プランをおすすめしておりますが、と言って医師は考え込む。
それに対して「一刻を争う事態なんです」と急かすと、彼はため息をついた後、「分かりました。それでは付いてきてください」と言って奥の階段の方へ歩き出した。
長い階段を降った果てに我々は独房のような趣の地下室へと行き着いた。これから行われる施術の説明はその道中簡単に行われた。
「いいですか。これから貴方に行うのはかなりの荒療治になります」
「と言いますと?」
その質問に医師が答えるまでに我々は五段降った。
「通常の髭脱毛ですと、皮膚にレーザーを当てて脱毛していきます。謂わば肉体に作用させるわけです。一方で、今回行うのは精神に作用させていく方法となります」
確かに中々尋常ではないことが行われそうなおどろおどろしい雰囲気がある。医師も僕も革靴を履いているため、階段を降るたびにコツンコツンと甚だしい音が響き渡る。しかも一つ一つの音は反響して中々止むことがない。
「精神? つまり、ストレスで円形脱毛症になるみたいな話でしょうか」
自分で言っていてあまり腑に落ちていなかったが、僕のリアクションを受けて医師は、
「お客様は中々鋭いお方ですね」
と言って笑った。
「いまから行う施術の一部はそうした効果を誘発します。でも、勿論まだそれだけじゃ足りない」
「中々全容が見えてきませんね」
「一つヒントを差し上げますと、脱毛にやはり近道はないということですね。でも、勘の鋭いお客様であればいずれ分かりますよ」
「答えを教えてはくれないんですか?」
「ええ、もう着いてしまいましたから」
我々は独房のような地下室へと行き着いている。部屋の中央に置かれているのは手術用のベッドではなく、人が一人入れそうなくらい巨大な樽である。
「あれは?」
「手術台です。IKEAで購入しました」
医師は淡々とそう答えた。僕が当惑していると、医師は更に自分の言葉を続けた。
「お客様にはいまからこのドン・キホーテで購入した施術着に着替えていただきます」
医師の手に持たれているのは未開封のハロウィン用コスプレ衣装であり、そこにはジャック・スパロウ風とデカデカと書かれている。
そこで僕はようやくこれから行われることに思い至った。僕はこれからこのダサい衣装に着替え、そしてあの樽の中に入り、部屋の隅に乱雑に立てかけられている剣で串刺しにされるというらしい。救いを求めるように医師を見ると、彼は茶色のゴム手袋を装着しているところであった。ピチピチであるため中々装着に手間取っており、その鬼気迫る表情を前に、おめおめとやはり通常の施術でお願いしますとは言いづらかった。
何より、先程課長に報告してしまった以上、もう僕に戻る場所などないのだ。夏のボーナスで奮発して買ったオーダーメイドのスーツを脱ぎ、テラテラのメイド・イン・△△の衣装に着替える。そうして覚悟を決めると僕は樽の中に収まった。医師がつかつかと部屋の隅まで行って、特に物色もせず立てかけられている剣の内の一つを手に取ると、徐に樽の中央に突き刺した。途端、此処にはタネも仕掛けもなく、今までに経験したこともないような痛みが身体を走る。これは確かに効くだろうなと思った。二つ目が今度は臀部のあたりに突き刺さる。涙が垂れてくる。でも、そもそも命あってこその髭脱毛であるような気もしてくる。なんでこんなことをしているんだろうと我に返った瞬間、三つ目が右胸あたりに突き刺さって、僕は絶命する。……夢の中で。
今朝は嫌な夢を見た。夢の内容は醒めてしまった瞬間からもうあまり覚えていないのだが、拷問を受けていたような気がする。身動きの取れない状況で、串刺しにされて、気を失うほどの痛みがあったような。無論、夢の中の出来事だから僕の身体から血は流れていないけれど、滝のように汗を流しており不快である。
でも、悠長にシャワーを浴びてい(以下ループ)
青ひげ危機一髪 @otaku
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