第24話 〝本物〟

「クローイ、しっかりしろ!」

 ……自らの名を呼ぶ声に、クローイはゆっくりと意識を取り戻していった。

 どうやら誰かの腕に抱かれているようだ。

 顔を上げていくと、そこには白銀の魔人の姿があった。

 思わず眼を見開いた。

 一気に意識が覚醒する。

「ああ、よかった……生きてた!」

 魔人が嬉しそうな声を出した。

 クローイはすぐに気付いた。

「あ、あなた……もしかしてライラなの?」

「そうだよ、ライラだよ。つっても、これじゃ分かんねえと思うけど……」

「その姿はいったい……?」

「それが、おれにもよく分かんねえんだ。気が付いたらこうなってて……」

 自分自身の姿に、どうやらライラも困惑している様子だった。

 すぐ傍にジェイドの姿もあった。地面の上に仰向けで寝かされている。意識はないが、呼吸はしている。死んではいない。

 だが、その姿もうぼろぼろだった。満身創痍だ。これ以上戦うことはもう無理だろう。

 そして……それは、自分自身も似たようなものだった。魔力はもうほとんど残っていない。ほんの少し身をよじるだけでも身体中に痛みが走った。

 クローイが苦悶に顔を歪めていると――ぽたり、と顔に滴が落ちてきた。

(……? これは……?)

 何の滴だろうと思い、すぐに気付いた。

 その滴は、ライラの黄金色の眼からこぼれ落ちてきたものだったのだ。

 魔人化している彼女の顔は鎧に覆われていて、よく見えなかったが……どうやら泣いているらしかった。目元からぽたぽたと、何度も滴が落ちてくる。

「……ライラ、泣いてるの?」

 クローイは左手を伸ばし、そっとライラの顔に触れた。鉄を触ったような、ひんやりとした感触が伝わってきた。

「ごめん、ごめん――オレ、何にも出来なかった。お前がひどい目にあってるのに、何にもできなくて……」

「……泣かないで。あなたが謝ることじゃないのよ」

「でも、でもよ」

 ライラはそれでも、クローイに泣いて謝ろうとした。

 ……違う。

 それは違う。

 謝らなければならないのは、自分の方だ。

 今まで言えずにいたことを、クローイはちゃんと言うべきだと思った。

「……ライラ、あなたのお父様はね、あの日――わたしのことを庇って死んだのよ」

「え? い、いきなり何の話だよ?」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい」

 気が付くと、クローイの眼からも涙がこぼれ出していた。

 それはこれまでずっと、彼女が心の内に抱えてきた罪悪感そのものだった。それがいま、一気に溢れだしていた。

「あの日、わたしは民下街デプスに魔人が出たと聞いて、貴族街ハイツから飛び出して行った。魔人をやっつけて〝英雄〟になりたかったからよ。わたしは本当に愚かで何も知らない子供だった。あの頃のわたしは、自分なら何でもできるのだと勘違いしていた……でも、いざ紅鐵号を目の前にすると、恐怖で何もできなくなってしまった」

「……」

「危うく殺されかかったわたしを助けてくれた憲兵がいたの。彼の名はロジャー・フリス――わたしは、彼に命を助けられた。でも、彼はわたしを助けたせいで死んでしまった。まだ子供だったわたしを、彼は最後の最後まで、身を挺して守ってくれた。魔法なんて使えないのに、武器もないのに、それでも彼は逃げなかった……ごめん、ごめんね、ライラ。あなたの幸せを全部奪ったのは、わたしなのよ。わたしが愚かなことをしなければ、彼のような勇敢な憲兵が命を落とすことはなかった――全ては、このわたしのせいなのよ」

「父さんが、クローイを……」

 ライラは半ば呆然と言った。顔は見えないが、声色から動揺は伝わってきた。

『知らない誰かを守って死ぬんじゃなくて、父さんにはずっと、オレと母さんだけ守ってて欲しかったな――って』

 不意に、昨日のライラの言葉が脳裏をよぎった。

 それは紛れもない彼女の本心だったのだろう。

 父親がいなくなったことで、ライラはこれから歩むはずだった幸福な人生の全てを失ってしまった。

 そして、その原因を作ったのは他ならぬ自分自身。

 本来なら王女を守った〝英雄〟であるはずのロジャー・フリスであるが、公にクローイはあの場にはいなかったことになっている。クローイの愚かな行為に激怒した父が、そのことを徹底的に秘匿したからだ。

 ……それに、仮に秘匿されていなかったとしても、貴族が平民を〝英雄〟になんてするはずがないのだ。あの戦争でも、いったい貴族を守るためにどれだけ平民が死んだだろうか。平民の死など、貴族は誰も目もくれないし、歯牙にもかけない。彼らが数える死者は、同じ貴族の死者だけだ。

 クローイがロジャーの名を知ったのは、事件からかなり経った後だった。その頃になってようやく、伝手つてを使って調べることができたのだ。その時、彼女は貴族街ハイツというはこの中がいかに平民社会と隔絶されているかを思い知った。

 ただ、名を知ったところで恩人を公に弔うことはできなかった。そのための機会は、一度も訪れなかった。そもそも紅鐵号事件そのものが貴族社会ではほとんど覚えられていないのだ。なぜか。貴族街ハイツには何の被害もなかったからだ。ロジャーのことも、他の大勢の憲兵のことも、市民の被害者のことも――貴族は誰も気にも留めていない。もうすっかり忘れてしまっている。

 気が付けば12年が経っていた。

 ……そして、ライラと出会った。

 クローイは、ライラとの出会いは決して偶然ではないと思っていた。

 もし真実を知ったライラが自分を恨んで、殺そうとするのならば――クローイはそれを受け入れるつもりだった。彼女にはその権利があるし、自分にはその義務がある。

 クローイはずっと、大きな罪悪感を抱えながら生きてきた。自分せいで誰かが死んだ――そのことは、まだ子供だったクローイの心にとってはあまりにも重すぎる罪悪感だった。

 でも、貴族社会では誰もクローイの罪悪感は理解されなかった。なぜなら、死んだ相手が貴族ではなく平民だったからだ。だから――誰もが言うのだ。父ですらこう言った。それがどうしたのだ? と。

 ……どうして血の色が違うというだけで、そこまで冷徹で、無関心でいられるようになるのだろう。

 同じ言葉を話して、同じ感情を持っていて、同じ世界を見ている相手を――なぜ、そこまで無碍にすることができるのだろう。

 あの日から、クローイは貴族たちの感覚が理解できなくなってしまった。

 だから――彼女もまた、ずっと孤独だったのだ。

「……」

 ライラがじっと静かに自分を見ている。

 すっ――とおもむろに彼女が手を伸ばした。

 クローイは目を閉じた。

 その手が自分の首にかかるところを想像した。

 ……けれど、そうはならなかった。

 ひんやりとした硬い感触が、自分の目元を拭う感触があった。

「え……?」

 クローイは困惑して目を開いた。

「そうか、そうだったんだな。それじゃあ……クローイと出会えたのは、全部父さんのおかげだったんだな」

「……ライラ?」

 ライラの声色はどこまでも優しかった。最初に出会った時とは、なんだか別人のような雰囲気だ。顔こそ見えないが……そのあまりに穏やかな声色に、クローイはただただ困惑した。

 クローイの今まで抱えてきた罪悪感は、むしろ裁かれることを望んでいた。

 自分は怨嗟をぶつけられるべきなのだと思っていた。

 でも、ライラはまったくそうしようとはしなかった。

「……わたしのこと、責めないの? 恨まないの?」

「そんなことするもんかよ。父さんがクローイのこと、守ってくれてよかったよ。本当に……心からそう思う」

 大きな音がした。

 アーヴァインが瓦礫を押しのけて立ち上がっていた。

 ライラは立ち上がり、クローイに背を向けた。

 ……その姿は完全に〝魔人〟そのものだった。

 魔人と言えば、この世界では恐怖の象徴そのものだ。

 一度でも現れれば破壊の限りを尽くし、膨大な犠牲者を生み出す殺戮者。

 だが、クローイは今のライラの姿を見て、恐ろしいとは思わなかった。

 むしろ――美しいとさえ思った。

 これほど高潔な白銀のかがやきを、クローイはこれまでの人生で見たことがなかった。

 その気高さは、人々が想像する〝魔人〟という言葉とは、本当にまったく相容れないものだった。

「オレさ、いまようやく分かったよ」

「……分かった? いったい何を?」

「どうして、自分がヴィルマルスなのか……どうしてこんな〝力〟があるのか。ずっと何でだろうって思ってた。こんな〝力〟さえなかったら……きっと、もっと普通に暮らしてたはずなんだ。だから、ずっとこの〝力〟のことを恨んでた。消えてなくなればいいって思ってた。でも――今は、この〝力〟があって良かったって、心からそう思ってる」

「それは……いったいどうして?」

 ライラはちょっとだけ振り返って、こう言った。

「お前を守れる」


 μβψ


 ……正直なところ、ライラ自身にも何が起こっているのかはまるで分からなかった。

 自分がどうなってしまったのか、あの〝影〟はどこへ行ってしまったのか、何も分からないままだ。

 ただ一つだけ分かっていることがあるとすれば――それは、この状況をどうにかできるのは、もう自分しかいないということだけだ。

「クローイ、ジェイドを連れてここから離れろ! 後は――オレが何とかするッ!」

「ライラ!? 待って――」

 クローイの呼び止めようとする声を振り切って、ライラは再び戦場へと飛び出していった。

 アーヴァインは瓦礫の中で静かに佇んでいた。

 ライラは少し離れたところで立ち止まり、相手と対峙する。

 〝敵〟は静かに佇んだまま、ライラのことをじっと見ていた。

 紅鐵こうてつの鎧に覆われた双眸の奥には、ギラギラと輝く黄金色が浮かんでいる。

 同じ色の眼をしたライラは、じっとその双眸を睨みつけた。

「くくく……」

 突然、アーヴァインが笑い始めた。

 ライラは相手の様子を訝った。なぜか、あまり敵意が感じられなかったからだ。

「……なんだ? なにがおかしいんだよ、おっさん? さっき蹴ったせいで頭がおかしくなったか?」

「いや、まさかこの眼で〝本物〟を拝める日が来るとは思ってなかったんでねえ……ちっとばかし興奮してるのさ」

「本物……? どういう意味だ?」

「なに、こっちの話だ。気にするな……ああ、そう言えば、まだちゃんと名前を聞いていなかったな。てめぇ、名は?」

「ライラ・フリスだ」

「ふむ……ライラか。ではライラ、一つ聞きたい。てめぇはどこで魔力制御を習得した? 誰から教えられた?」

「クローイにも同じようなこと聞かれたけど……オレはそんなもん誰からも教わってねえよ」

「……なに?」

「そもそも魔力とか言われても、オレにはなんのことかもさっぱり分かんねえしな。全部気付いたら、いつの間にかできるようになってただけだ」

「なら、その姿は?」

「知らん。勝手になってた」

「……」

 なぜか、アーヴァインは黙ってしまった。

 どうしたんだ? とライラが不審に思っていると――

「はははッ! なるほど、こいつは素晴らしいッ! まさに〝本物〟だッ! これこそが正真正銘の〝新人類〟ということかッ!」

 アーヴァインが大声で笑い出した。

 とても愉快そうで、楽しげな様子だった。

(何なんだ、こいつ……? さっきからいったい何を言ってやがるんだ……?)

 相手の言動や態度がまったく理解できないライラは、ますます警戒したように相手を睨みつけた。

 すると、アーヴァインがいきなりライラに手を差し出した。

「ライラ、おれの配下になれ」

「は?」

「てめぇの存在は〝新世界秩序〟にもっとも必要なものだ。今はまだ、おれたちのようなは道具に頼らねば本来の力を発揮できないが……てめぇは違う。何の道具もなくとも、自分の意思だけで人を超えられる。その血を解明しさえすれば、おれたちは本当の意味で〝呪い〟から解放されるはずだ」

「……」

「ライラ、おれの配下になれ。そして共に〝新世界秩序〟を創り上げようじゃねえか。てめぇには最上級の待遇を保証しよう。このおれの右腕として、なんなら世界の半分をくれてやってもいい。てめぇにはそれだけの価値がある。さぁ、おれの手を取れ」

 アーヴァインの口調はどこか熱っぽく、興奮した様子だった。

 ライラはじっと差し出された手を見ていたが――おもむろに溜め息を吐いた。

「……悪いけどな、おっさん。さっきからあんたがなに言ってんだか、オレにはさっぱりなんだわ」

「……なに?」

「ほんもの? しんせかいちつじょ? なんの話だよ、そりゃあ……オレには全然分かんねえよ。ああ、もう全然分かんねえ……全然分かんねえけど、でも、一つだけ分かってることはある」

 ライラは剣を生みだし、強く握りしめると、その切っ先を躊躇うことなくアーヴァインへと向けた。

 アーヴァインは自らに向けられた切っ先を見ながら、静かに問い返した。

「……分かっていること、というのは?」

「お前が――オレの〝敵〟だってことだ」

 アーヴァインを睨みつける。

 いま、自分の目の前にいるのは斃すべき〝敵〟だった。

 こいつは〝友達〟を傷つけた。

 こいつは12年前に父親を殺した。

 クローイはまるで自分が全て悪いかのように泣いていたが……それは違う。

 彼女は何一つ、謝らなければならないようなことはしていない。

 諸悪の根源はこの男だ。

 故に――こいつを斃さねば何も始まらないし、何も終わらない。

 全てを終わらせるためには、いまここで、こいつを斃さねばならない。

 それだけが分かっていればもう、ライラには十分だった。

 細かいことを考える必要はない。

 ありったけの〝力〟を使って、この男をのだ。

「やれやれ……ったく、おれも嫌われたもんだ」

 アーヴァインも剣を握った。あの巨大な剣だ。

 それを軽々と振り回し、ライラと同じように戦う構えを見せた。

「まぁいいだろう。てめぇがおれに従わないというのなら、それもまたよしとしよう。だが――その血は貰い受ける」

「はっ、悪いけどな……てめぇにくれてやる血なんざ一滴もねえよッ!!」

 先にライラが動いた。

 アーヴァインは真正面から迎え撃つ。

 ……魔人と魔人。

 人智を超えた存在同士の戦いが始まった。

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