第五章 共闘

第22話 仲間

 空を飛ぶ二人の視点からは、地上の大混乱ぶりがよく見えた。

 眼下のイースト・エンドはまさに混乱の極みにあった。

 そこら中の路地に人が溢れかえっており、誰もが叫びながら、懸命に〝何か〟から逃れようと必死になっていた。

「何という人の数だ……この区画にはこれだけの平民がいたのか」

 ジェイドが眼下の光景に驚いていた。

 それは確かにそうだろう。地上を埋め尽くす人の数は、まるで蟻の群れでも見ているかのようだったからだ。

 この王都クリューソスの民下街デプスは世界一の人口を誇る巨大都市であり、かつ超人口密集地でもある。この民下街デプスだけでそれこそ600万に及ぶ平民たちが暮らしているのである。

 イースト・エンドにはそこからあぶれた底辺の人々が、さらに密集して暮らしている。民下街デプスの行政を司っている〝セントラル・スクエア〟でさえ、この区画にどれほどの人間がいるのか把握できていない。

 それだけの人間が一斉に動き出し、無秩序にパニックを起こせばどうなるか――眼下の光景は、まさに阿鼻叫喚という他になかった。

(やべえぞ、これ……これだけでどんだけ人が死ぬんだよ、いったい……?)

 ライラの眼から見ても、地上の大混乱はもはや恐ろしいほどだった。

 眼下から聞こえてくるのは、まさに魑魅魍魎のごとき叫び声ばかりだった。思わず耳を塞いでしまいたくなる。

 それらの声に交じって、何度も聞こえてくる〝紅鐵号〟という言葉。

 どうやら、人々を恐怖に駆り立てている元凶こそが紅鐵号であるようだった。

 それはさきほどクローイとの遠隔通話でも出てきた言葉だ。

 いったいなぜこのタイミングで12年前に討伐されたはずの魔人の名が出てくるのか、相変わらず状況はさっぱり不明のままだ。

 ジェイドはとにかく、ある場所を目指して一目散に空を駆けていた。それは一際、凄まじい猛煙が噴き上がっている地点だ。きっとそこにクローイがいるに違いない、という確信を抱いているのだろう。

 その間、ライラは地上を凝視していたが、ふとあることに気付いた。

(……なんだ? あの辺はぜんぜんパニックが起きてねえな?)

 同じイースト・エンドの中でも、人々の混乱ぶりに大きな差があった。

 その区域をよく目を凝らしてい見ていると、避難誘導を行っている者たちの姿が確認できた。

 憲兵だ。

 そう、憲兵が避難誘導を行っている区画の人々は、それほどひどい混乱を起こしていなかったのである。

 空から見れば、憲兵たちが活動している区域とそうでない区域の違いは一目瞭然だった。

 しかし、憲兵たちもイースト・エンド全体がどうなっているかまでは把握出来ていないのだろう。せっかく憲兵たちが秩序を作り上げても、他の区画からやってきた群衆がその秩序を壊してしまっている。

(ああ、くそ! そこじゃねえって! そっちに逃がしたら別んところのやつとぶつかっちまう! 逃がすならあっち、そんで人を立てるならあそことあそこ――)

 空から全てが見えているライラには、その様子が非常にもどかしかった。

 ライラは思わずジェイドに言った。

「ジェイド! ほんの少しでいい! 地上に降りられないか!?」

「地上に? 悪いがそんな暇はない! 我々はすぐにでもクローイ様の元へ駆けつけねばならんのだ!」

「それは分かるけどよ、このままじゃ下にいる人がたくさん死んじまうんだよ! あれじゃ憲兵の連中がどんだけ気張っても意味がねえ! どこで何がどうなってるのか教えてやらねえと!」

「しかし……」

「頼む! ほんの少しだけでいい!」

「……」

 必死に頼み込むライラの視線を受けて、ジェイドは眼下に視線を落とした。

「……ほんの少しだけだぞ」

「悪い、助かる!」

 ライラは心から礼を言った。

 ……この時、ライラはなぜ地上の人々を助けねばと思ったのか、自分自身でもよく分かっていなかった。ただ、とにかくそうしなければと思ったのだった。

 イースト・エンドで暮らしたこの数年間、ライラはここに暮らす人々と心からの交流などしたことはなかった。ここでは誰もが生きるのに精一杯で、他人のことに構っている暇などなかったからだ。無論、ライラだってそうだった。互いに〝底辺〟という同じ境遇にあれど、仲間意識などは特になかった。

 でも、だからと言って、この状況で彼らが死のうが生きようがどうでもいい――とはとても思えなかった。

 ようするに、元来のライラなのだ。

 母親に人前で力を使うことを止められていたのにも関わらず、一緒にいた叔父を土砂崩れから守ったのも、とっさにそうしなければと思ったからだ。

 そうしなければ――と。

 そこに理屈や理由はなかった。

 それがライラの本質なのだ。

 例え彼女の身を取り巻く境遇がどれほど彼女に酷なことを強いようとも、人間の本質というものはそう簡単には変わらない。

「ジェイド、あそこに降りてくれ! 憲兵が集まってるところだ!」

「分かった!」

 指図するな、とでも言われるかと思ったが、ジェイドは素直に指示に従った。

 ライラが指した地点に降りると、地上にいる憲兵たちがみなぎょっとしたように振り返った。

 石の馬で降りてきたということは、相手はまず間違いなく貴族だ。それだけでも驚くには十分なことだったが……一緒にいたライラの眼が黄金色だったことも、彼らをさらに驚かせる要因だった。

「お、おい! 騎士が戻ってきたぞ!? 中央騎士団の連中か!?」

「いや、あんな顔のやつはいなかったはずだ……というか一緒にいるの、もしかして昨日のヴィルマルスじゃないか?」

「ほ、本当だ。どうして騎士がヴィルマルスと一緒に……?」

 ライラは馬から飛び降りると、動揺する憲兵たちの目の前に立った。あまりにも堂々とした立ち振る舞いに、誰も彼女に小銃ライフルを向けることができなかった。

「てめぇらのリーダーは誰だ!?」

 すかさず声を張り上げる。

 すぐに一人の憲兵がライラの前に出てきた。

「リーダーはわたしだ」

 現れたのは、何やら見覚えのあるおっさんだった。

 誰だったか――そう考えて、ライラはすぐに思い出した。あの時、切裂号が逃げた直後に現れた憲兵の1人だ。確かフラトンとか隊長とか、そのように呼ばれていたはずである。

「き、君は――」

 相手の男がライラを見て驚愕を浮かべていたが、彼女はそれに構わず落ちていた棒きれを拾って地面に簡単な地図を描いた。手早く書いたにしては、各区画の特徴がよく現れていてとても分かりやすいものだった。

 その地図を示しながら、ライラは声を張り上げた。

「いいか、よく聞けよ! いまオレたちがいるのがここだ! このへんはまだいいが、こっちの北側にもっと人をまわせ! じゃないとこの先で人がダンゴになってやがる! 人を配置するならココとココ、そんで逃がすならこっち! 分かったか!?」

 リーダーの憲兵を始め、全員がぽかんとライラのことを見ていた。

 ライラはもう一度声を張り上げた。

「分かったかって聞いてんだよ!? 返事はぁッ!?」

「は、はいッ!? 了解しましたッ!」

 ライラの勢いに圧されて、憲兵たちは思わず敬礼していた。

 それを見たライラは頷いて、

「じゃ、そういうことで! 頼んだぞ!」

 と、ジェイドの手を借りてすぐにまた馬に飛び乗った。

 用事は済んだとばかりに再び空に駆け出そうとしたが、

「ま、待ってくれ!」

 リーダーの男が彼女たちを呼び止めた。

 ジェイドが馬を止め、ライラが後ろを振り返る。

「あん? どうした、おっさん?」

「き、君は――君はライラというのか? ライラ・フリスと?」

「そうだけど……それが?」

「父親の名前はもしかしてロジャーと言うのではないか?」

「え? 何で知ってんだよ?」

 ライラが驚いた顔をすると、男はすぐに敬礼して自ら名乗った。

「わたしはアラン・フラトンだ。君の父親――ロジャーとは同僚だった。若い頃は一緒に栄光戦争へ出征したこともある。古い付き合いだったんだ。同じ村の出身だった」

「父さんの……?」

「ああ。まぁもちろん君は覚えてないだろうが……わたしは赤ん坊の頃の君にも会ったことがある。本当に大きくなった。目元なんか、本当にロジャーにそっくりだ」

 男は――フラトンは少しだけ親しげな表情を見せたが、すぐに苦しげな顔で頭を下げた。

「あの時は、本当にすまなかった」

「な、なんだよいきなり? なんであやまるんだよ?」

「……わたしは君に銃口を向けてしまった。本当に、もう少しで撃つところだった。そのことを謝罪したい」

「ああ……それは別にもういいよ。オレはヴィルマルスだからな。そっちがビビってもしょうがねえし」

「君は……本当にヴィルマルスなのか? とてもそうは見えないが……」

「この眼を見りゃわかんだろ? オレは正真正銘、ヴィルマルスってやつだよ」

 ライラは黄金色に輝く自分の眼を自ら示した。

 この世界の人間にとって、黄金色に輝く瞳は恐怖の象徴だ。それはまさに、いずれ来る破壊と不吉の象徴であるからだ。

 ライラ自身も、そのことは重々承知している。いまここで彼らが再び銃口を向けてもおかしくない。

 しかし、だからこそ――ライラは、堂々と真っ直ぐにフラトンのことを見ていた。

 どうすれば自分の心が相手に伝わるか。ライラは、それをあの変わり者の王女様から学んだのだ。

「……でもさ、ヴィルマルスだから出来ることもあるって分かったんだ。オレは、オレのやるべきことをやる。そのために、今はこの〝力〟が必要なんだ。もしオレのことをどうにかしたいって思うんなら、それは全部が終わってからにしてくれ。それが終わったら、オレは別に自分がどうなろうがかまいやしねえから」

「……やるべきこと、というのは?」

「〝友達〟を――助けたいんだ」

「友達を……?」

「とにかく、避難のことは任せたからな! 気張れよおっさん! ジェイド、行ってくれ!」

「急ぐぞ! 掴まっていろ!」

「うお!?」

 魔法で生み出された石の馬は、再び空に向かって駆け出していった。

「……」

 フラトンはしばし、遠ざかっていく彼女たちの姿を見上げていた。

「隊長、ヴィルマルスをあのまま行かせてしまってよかったんですか?」

 部下が戸惑った様子で話しかけてくる。

 フラトンは大きく頭を振った。その顔には大きな後悔がにじんでいた。

「……違う、あの子はヴィルマルスではない。そうではなかったんだ。あの子は……わたしの〝友人〟の娘だったんだ。どうして、あの子の眼を見た時に、ちゃんとそれに気づけなかったんだ、わたしは――」

「……隊長?」

 フラトンは悔いていた。

 あの時、自分は彼女の眼をちゃんと見ていなかった。

 見ていたのは……自分自身の中にいる〝化け物きょうふ〟だったのだ、と。

 だが、今は悔いている時ではなかった。

 フラトンは制帽を正すと、改めて部下たちを振り返った。

「……気張るぞ、お前ら。我々は、我々の成すべきことをするのだ」


 μβψ


 再び空に駆け上がった2人は、すぐにクローイのことを見つけた。

 同時に、魔人の姿も確認した。

 どちらも実際に紅鐵号の姿を見たことはなかったが、まるで燃え上がるような真っ赤な鎧を身に纏ったその姿を見て、すぐにそいつが魔人――紅鐵号だと悟った。

 紅鐵号の巨大な剣が、クローイのことを今にも押し潰そうとしているところだった。

 ジェイドは焦った。

「まずい、クローイ様が――ライラ、急降下するぞ!」

 と、呼びかけた直後のことだった。

 その時点でライラは何の躊躇もなく、馬の背中から飛び降りていた。

「――え?」

 ジェイドは完全に虚を衝かれた。

「お、おい!? 何をしている!?」

 すぐに我に返ったが、ライラはもう何十プランクも落下した後だった。

 ……この時、正直なところライラは本当に何も考えていなかった。

 これほどの高さから飛び降りたらどうなるだろうとか、着地はどうしようだとか、本当にそんなことは何も考えていなかった。

 クローイが危ないと思ったその瞬間には、身体が勝手に動いていたのだ。

「――〝魔剣グラディット〟ッ!!」

 落下しながら白銀の剣を生み出す。

 そいつを構えて、ただ真っ直ぐに眼下の〝敵〟だけに狙いを定めた。

「どぉりゃああああああッ!!」

 ライラは無意識に魔法で態勢や速度を制御して、落下地点を補正した。それは本当に無意識のことだった。彼女は何一つ、やろうとしてやったことではなかった。

 狙いはドンピシャだった。

 頭上から降ってくるライラのことに気付いたのか、紅鐵号が顔を上げる。

 その顔面に、ライラは全身全霊の一撃をたたき込んだ。

 魔力によって強化された腕力と、自由落下による位置エネルギーの全てが紅鐵号に叩きつけられる

 頑強な魔人の身体でさえ、その衝撃には耐えきることは難しかった。完全なる不意打ちということもあり、紅鐵号は凄まじい勢いで地面に叩きつけられる。

 衝撃と共に、地面が大きくひび割れる。

 ライラ自身は本能的な身のこなしで反作用を受け流し、利用して、くるりと身体を捻って軽やかにクローイの目の前に着地した。

 突然目の前に現れたライラの姿に、クローイが目を白黒させていた。

「ラ、ライラ……?」

「クローイ、大丈夫か!?」

 ライラは慌てて駆け寄った。

 クローイの姿は見るからに満身創痍だったが、彼女の気丈さはまったく失われていなかった。心配そうにするライラに、むしろ安心させるような笑みを見せた。

「わたしは大丈夫よ。特に問題はないわ」

「そ、そっか。そりゃよかった……」

「それよりもライラ、その〝剣〟はいったい……?」

 クローイの視線が、ライラの持つ剣へと注がれる。

 ライラは自慢げにニヤリと笑った。

「さてな。オレにもなんかよく分かんねーけど……とりあえず出せるようになった」

「とりあえずって、そんな簡単に出せるようにものではないと思うのだけれど……」

「こまけぇことはいいんだよ。とにかく、これでオレも戦える。もう足手まといじゃねえ」

 ジェイドも遅れて地上に降りてきた。彼女が降りると、石馬サクサルスはすぐに光の粒子となって消え去った。

「クローイ様、ご無事で何よりです」

 ジェイドはすぐクローイに駆け寄った。ひとまずほっとした表情を見せるが、すぐさま地面に倒れたままの魔人を鋭く睨んだ。

「……クローイ様、あの魔人はいったい? なぜ〝紅鐵号〟がここにいるのですか? 切裂号はいったいどうなったのですか?」

「それは――」

「――ってぇ。おいおい、上からいきなり不意打ちってのは、ちいとばかし卑怯じゃねえか?」

 クローイが答えようとした時、魔人がゆっくりと身体を起こした。

 明らかに首や手足がおかしな方向に曲がっていたはずだが、立ち上がった時には全て元通りになっていた。

 その姿を見たライラとジェイドはそれぞれ驚いた。

「げぇ!? まだ生きてやがんのかよ!?」

「ま、魔人が喋った――だと?」

 ライラは平気で立ち上がった魔人に驚き、ジェイドは魔人が流暢に人語を解したことに驚いていた。

 その反応を楽しむように、紅鐵号は何やらほくそ笑むような雰囲気を見せた。

「ああ、なんだ。よく見たらさっきのヴィルマルスじゃねえか。それにジェイド・ブルースターか……ふむ。ダニエルのやつに追わせたはずだが、その様子だとやられちまったようだな。まぁ元々期待はしてなかったが……にしても、そっちのヴィルマルスはさっきとは別人みてぇな魔力量になってやがるな。まさか〝力〟に目覚めたか? ククク……面白えじゃねえか」

 何やら納得したようにくぐもった笑い声を発している。

 魔人の声色に、ジェイドは違和感を覚えた。明らかに聞き覚えのある声だったからだ。

 すぐにハッとなった。

「クローイ様、あの魔人――いや、紅鐵号はもしかして」

「……そうよ。あれはアーヴァインよ」

「そ、そんなまさか……では、12年前の紅鐵号事件も軍務卿が引き起こしたというのですか?」

「そうよ。12年前の紅鐵号事件も、そして今回の切裂号事件も、全てはアーヴァインが引き起こしたことだわ。どちらも賢者の石を使って引き起こされた人為的な魔人事件だった――原因は、ヴィルマルスではなかったのよ」

「貴族が魔人化するなどやはり素直には信じられませんが……こうして目の前に実物がある以上、納得するしかありませんね」

「え? なに? あれってさっきのゴツイおっさんなの?」

 事態を完全に把握したジェイドと違って、ライラはいまいち状況が飲み込めていない様子だった。

 紅鐵号――アーヴァインはますます面白がるような気配を見せた。

「さて、これで三対一になったな。どうする? おれはそっちが何人でもいっこうに構わねえぜ? もちろん、今さらやっぱ逃げますなんて言わねえよな? もしそんなこと言い出しやがったら、おれも何するか分かんねえぜ? このあたりの区画を丸ごと消し去るなんざ、今のおれには簡単に出来るんだからよ……」

 ――ぞっとした。

 ライラは本能的な恐怖を覚えた。目の前にいる存在はあまりにも危険だと、言葉にならない領域でそのことを察した。

 それはきっとジェイドも同じだったはずだ。

 いまこの場で、毅然とアーヴァインに対峙することができたのは――やはり、クローイだけだった。

 彼女は立ち上がると、再び自らの剣を生みだし、強く握りしめ、その切っ先をアーヴァインへと向けた。

「……ほざきなさい。ここで逃げ出すことなど絶対にあり得ないわ。わたしは何があっても、絶対にあなたをたおす」

「ほう? 随分と威勢がいいじゃねえか……だが、そうこなくっちゃなッ!!」

 アーヴァインがさらなる〝力〟を解放する。

 膨大な魔力の渦が、まるで暴風雨のように周囲に吹き荒れる。

 ライラはあまりの大きな〝力〟の奔流を前に、思わず顔を庇った。

(な、なんだこれ……マジで〝化け物〟じゃねえか――)

 彼女が自分の目で魔人を見るのはこれが初めてだった。

 紅鐵号事件は数万人の死傷者が出るほどの大惨事だったというが、その元凶をこうして目の当たりにすることで、彼女はようやく理解したのだった。

 ――恐怖。

 今まで感じたことのない、本当の恐怖。

 まさに今、ライラはそれを味わっていた。

 勝てるわけがない。

 逃げるしかない。

 理性は既に屈服していた。

 だが、その中でライラは見たのだった。

 これほどの恐怖に臆することなく、真正面に立ち、堂々と対峙する彼女の背中を。

「――」

 ライラの脳裏に、在りし日の大きな背中が見えた。

 それは父親の背中だった。

 もう顔も覚えていない。

 ただ何となく、大きくて優しかった、ということだけしか覚えていない。

 ライラの記憶の中にあるおぼろげな父親の姿は、そのほとんどが母親から聞いた話だけのものだった。

 母親はいつも言っていた。

 父親はとても優しくて、強くて――そして勇敢だった、と。

 きっと紅鐵号事件の時も、憲兵として大勢の人を守ったに違いないのだ、と。

 そんな父親のことを、母親はいつも誇らしげに語っていた。

 どれだけ生活が苦しくて、明日が見えない状況だった時でも……母親は決して、父親を貶すようなことも、弱音も、恨み言も、一切言わなかった。


 ――わたしは、そんなお父さんのことが誇らしいのよ


 かつて母親が語っていた、誇らしい父の背中。

 その背中と、目の前にいる少女の背中が、ライラの中で重なった。

「――ッ!」

 気付くとライラは立ち上がっていた。

 自然とクローイの隣に並ぶ。

 クローイは驚いたようにライラを見た。

 すると、すぐにジェイドもクローイの隣に並んだ。その手には、もちろん戦うための意思つるぎが握られている。

 クローイは二人を交互に見てから、すぐにこう言った。

「……ダメよ、あなたたちはすぐにここから逃げなさい。わたしがあいつを食い止めている間に、一刻も早く貴族街ハイツに逃げるのよ。アーヴァインの計画や賢者の石のことをすぐお父様に知らせて」

「……お言葉ですがクローイ様。わたしとそこの野良犬が一匹逃げ延びてこの件を告発したところで、何もどうにもなりませんよ」

「おい、誰が野良犬だ」

 ライラが口を挟んだが、ジェイドは当然のように無視シカトした。

「そのことは、クローイ様だって分かっておられるでしょう?」

「……それは」

「相手は軍務卿――しかも、あなたの叔父であり王族でもある。そして〝英雄〟とも称される相手。権力が違い過ぎます。仮にクローイ様が告発したとしても、軍務卿を即座に罰するのは恐らく難しいでしょう。その間に、〝計画〟とやらが実行されれば終わりです。であれば――もう方法は一つしかありません」

 ジェイドが覚悟を決めたように言う。

 クローイも頷いた。

「……そうね。方法は一つしかないわね」

 両者は顔を見合わせてお互いに納得し合っているが……ライラはいまいちよく分からなかった。

「ええと……つまりどういうことだ?」

「簡単なことだ」

 ジェイドがニヤリと笑った。

「せっかく首謀者が目の前にいるのだ。だったら――いまこの場で、とっ捕まえてしまえばいい。そうだろう?」

「ああ……そういうことね」

 ようやく二人の言いたいことを飲み込めたライラは、同じようにニヤリと笑った。

「だったら、そいつはオレの出番だな。こう見えても喧嘩じゃ負けたことねえんだ。足ひっぱんじゃねえぞ」

「それはこちらのセリフだ」

「――来るわよ、二人とも」

 アーヴァインが動いた。

 戦いが始まった。

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