第14話 夢
――ライラ、オレが帰って来るまで良い子にしてるんだぞ。
……本当におぼろげな記憶の中で、誰かがライラに向かってそう言った。
顔は……よく分からない。水面の向こうにあるみたいに、何だかゆらゆら揺れてぼんやりしている。
でも、大きな手が頭を撫でてくれる感触は、はっきりと伝わってきた。
(……ああ、そういやそうだったな)
ライラは本当に久しぶりに、その感触のことを思い出していた。
(これは父さんだ。顔はあんま覚えてねえけど……でも、きっとそうだ。この手の感触だけは、今も覚えてる)
父親のことを思い出すなど本当に久しぶりだった。
――今日はライラの好きなもの作って上げるからね。
――ねえ、何が食べたい、ライラ?
母親の声もした。
まだ小さいライラに向かって、父親と母親が笑いかけている。
顔が判然としない父親と違って、母親の顔はよく覚えている。母親はライラが五歳の頃まで生きていたから、記憶がはっきりしているのだ。
ぼんやりと遠い昔の記憶を垣間見ながら、ライラは思った。
(……たぶん、この頃がいちばん幸せだったんだろうな)
別に裕福な家庭ではなかった。
東側にいくらでもある、よくある労働者の家庭だ。
でも、それでも、いま思えば本当に幸せだったと思う。
父親がいて、母親がいて、無条件で自分のことを愛してくれるなんて――本当に、幸せ過ぎて怖いくらいだ。
(――でも、あの日に全てが変わった。)
ライラは窓辺で外を眺めながら、父親が帰ってくるのをずっと待っていた。
……でも、いくら待っても父親は帰ってこなかった。
急に外が騒がしくなった。
近所の人たちが、みんな外に飛び出していた。
母親も外に飛び出したので、ライラも一緒になって外に出た。
……すると、遠くに大きな煙が見えた。
ものすごい煙だった。工場の排煙ではない。もっと黒くて、もっと禍々しいどす黒い煙だった。
火柱も上がっていた。それはもう、まるで空にまで届くのではないかと思うほどの大きな炎だった。
……この時、まさに魔人〝紅鐵号〟が王都クリューソスに出現していた瞬間だった。紅鐵号が出現したのは西側だったため、東側には影響はなかったのだが……ライラは何だか怖くなって、母親の足に無意識にしがみついていた。
まさかあの業火の中で自分の父親が今まさに魔人と戦っているところだったなど、幼かったライラにはまだ知る由もなかった。
その日から、全てが変わった。
家に父親はいなくなり、母親は朝から晩まで働くようになった。
住んでいた家はすぐに追い出された。
二人でもっと粗末な家に引っ越した。
母親は日に日にやつれていった。
でも、母親がライラに弱音を吐いたことはなかった。それどころか、いつも優しかったし、本当に最後の最後まで、全てを知った上で……それでもなお、ライラのことを愛してくれた。
――大丈夫よ、ライラ。大丈夫。なんにも怖いことなんてないわ。だから、大丈夫。安心して眠りなさい。
母親の声がした。
久しく忘れていた、心地の良い優しい声だ。
……でも、ライラは知っている。
もうすぐ、この優しさは失われてしまう。
それはイヤだ、と思った。
もっとここにいたい、と心から願った。
独りで生きていくなんて無理だ。
(イヤだ、独りはイヤだ……イヤだよ、母さん。助けて、助けてよ――)
ライラは必死に縋ろうとした。
ただ唯一、世界で1人だけ、自分の全てを愛してくれた母親に。
けれど、母親の姿は徐々に目の前から消えていく。
やがて真っ暗な闇の中にライラは放り出されてしまう。
――せ
ライラが恐怖を感じていると、どこからともなく響く〝声〟があった。
怖くなったライラは駆け出した。
怖い。
助けて。
助けて。
助けて――!
……すると、目の前に手が差し出された。
顔を上げる。相手の顔は見えない。でも、そのぼんやりした人影には、かつての母親に似た面影があった。
ライラは、一瞬躊躇ったが……すぐにその手を掴んだ。
μβψ
「……あれ?」
目を覚ますと、まず真っ先に感じたのは目元の違和感だった。
思わず手で擦る。
目元が濡れていた。
何でだろうと思ったが、すぐに理解した。
(……オレ、泣いてたのか)
さきほどまで見ていた夢のことを、やけにはっきりと思い出した。
両親の夢を見るなんて本当に久々だった。
(いつも〝悪夢〟しか見ねえのに、なんで今日に限って……ん?)
そこでようやく、ライラは気付いた。
何だかやけに頭の下が柔らかいのだ。硬い地面の上で寝ていたはずなのに、まるでふかふかの枕でもあるみたいだった。
「あら? 眼が覚めた?」
「え?」
真上からクローイが顔を覗き込んできた。
ライラはしばし呆けていたが、ようやく気付いた。
そう、なぜか分からないが、ライラはいつの間にかクローイに膝枕されていたのである。
「……え? なに、これ? どういう状況?」
「ライラが何だか寝苦しそうにしてたから……膝枕してあげたら寝やすくなるかなって思って。どう?」
「どうも何も……」
「どうも何も?」
「……」
ライラは黙った。
実際、けっこう気持ちよかったからだ。服の生地はごわごわしているが、クローイの膝は柔らかくて、枕にはとてもちょうど良かった。
ライラが何も言わなくなったのを見て、クローイはくすりと笑い、
「ねえ、ライラ。どうして泣いていたの?」
と、優しく問いかけた。
その声色が、ライラの記憶の中にあった母親の記憶と、ほんのわずかに重なった。
顔が似ている訳でもなければ、声が似ているわけでもない。それでも、優しい響きが何だか重なって聞こえたのだった。
だからか――ライラの眼には、本当に一瞬だけ、クローイのことが在りし日の母親に見えてしまった。
もちろん、すぐにハッと我に返る。
ライラは身体を起こして、クローイに背を向けた。
「……別に、泣いてなんかねえよ。気のせいだ、気のせい」
「そうなの?」
「ああ」
「そう……じゃあ、わたしの気のせいだったわね。ごめんなさい」
クローイは謝ったが、顔も声も優しいままだ。
ライラは思わず頭をガシガシと掻いた。どうもクローイが相手だと調子が狂ってしまう。喧嘩することには慣れているが、優しくされることには慣れていないのだ。
「……オレ、どれくらい寝てた?」
「多分四時間くらいしか寝てないわよ。外はまだ未明といったところでしょうね。ここからじゃ分からないけれど。今はわたしが見張りをしているところよ」
どうやらいつの間にかジェイドと交代していたようだ。ジェイドは壁に背を預けて、静かに目を瞑っていた。あれでたぶん寝ているのだろう。
「……そうか」
「ええ、そうよ」
「……」
「……」
2人の間に沈黙が舞い降りた。
光源となっている炎の光だけが、その場をぼんやりと浮かび上がらせているが……後は全て闇の中だ。沈黙で耳が痛い。
ちら、とライラはクローイのことを振り返った。これまであまりよく見ていなかったが……少し顔色が悪いように見えた。
「……お前、なんか顔色悪くねえか? 体調でも悪いのか?」
「いいえ、別に何ともないわよ」
と、クローイはやんわり微笑んだが、やっぱり顔色は悪い。
ライラは不思議に思った。
思ったことを、そのままクローイに問うた。
「……なんで、そこまでしてお前が切裂号を追っかける必要があるんだ? お前って王女様なんだろ? 王女様がわざわざこんなことする必要あんのか?」
「それはもちろんよ。むしろ、王女だからこそ、わたしは自分にできることをしなければならない。その責務がわたしにはあるのだから」
「……お前って、なんか全然貴族っぽくねえよな」
「どうしたの、いまさら?」
「いや、何かこう、思ってた貴族と違うっていうか……貴族っていうと、たぶんあの男――ダニエルだっけ? あいつみたいなのが〝普通〟なんだろ? 貴族は平民なんて人間扱いしてないし、平気で殺すって、みんなそう言ってる。でも、お前は……なんつーか、何か違うよなって。そう、貴族っぽくない」
クローイはどこか、諦めたような笑みを見せながら頷いた。
「そうね……ライラの言うとおり、ほとんどの貴族はダニエルのように平民と接するわね。貴族は支配者だから、平民には何をしてもいい――貴族は潜在的に、たぶんみんなそう思ってるのでしょうね」
「お前はそう思わないのか?」
クローイはなぜか少し躊躇いがちに口を開いた。
「……わたしね、昔とある人に命を助けられたことがあるの」
「とある人?」
「そう……その人は平民の人だったわ。もちろん、魔法なんて使えない。なのに、その人は自分の命が危ないにも関わらず、本当に必死でわたしのことを守ってくれたの。そのおかげで、いまわたしはここにいる。あの人がいなければ、たぶんわたしは本当に死んでいたと思う。わたしが生きているのは……全て、あの人のおかげ」
「……」
「あの時、わたしは思い知った――というより、眼が覚めたというべきかしらね。魔法が使える程度のことで、貴族は何を威張っているんだろう、って。平民は弱くもなければ愚かでもない。彼らを無条件に見下しているわたしたちの方が、よほど愚かで弱い存在よ。魔法の力がなければ、わたしたちは本当に何もできないのだから。でも、平民は違うわ。彼らは何も特別な力がなかったが故に、特別なものを生み出した。平民が創り上げた
「でもさ、平民が銃持ってても、やっぱ貴族には勝てないだろ?」
「拳銃や
「……きんきへいき? なにそれ?」
「いわゆる重火器全般のことよ。重機関銃とか、曲射砲とか、平射砲とか……でも特に騎士相手なら、固定式のものより歩兵が携行できる類いの武器が最も有効的だったようね。無反動砲なんかは栄光戦争でもかなりバルティカの騎士を苦戦させたようだし」
「オレはあんましそういうの知らねえけど……そんなのあるなら、魔人にだって使えるんじゃねえの?」
「使えるでしょうね。倒せるまではいかないにしても、足止めくらいなら、もしかしたらできたかもしれない」
「……そんなのあるなら、紅鐵号事件の時だってそのすげー武器を使えば良かったじゃねえか」
「貴族側が承認しなかったのよ」
「え? なんで?」
「〝禁忌兵器〟の使用は禁じられているからよ。〝予言書〟とのズレをこれ以上大きくしないために」
「……ん? よげんしょ? 何の話だ?」
「わたしのお爺様が記した本のことよ。たった一代でこの国を超大国にした史上最も偉大なる王、ライオネス・プリムス・パノティア――今では〝大王〟とも呼ばれているわね。お爺様はね、本当に特別な〝固有魔法〟を持っていたの」
「どんな?」
「〝
μβψ
「お爺様は昔、ある日突然、未来の出来事を夢に見るようになったらしいわ。それが未来の出来事だと理解したお爺様は、夢に見た内容をひたすら日記に記すようになった。それは今では〝予言書〟と呼ばれていて、現在は王位を継いだ父上が所持している。わたしは中身を見たことはないけれど、話によると予言は千年先まで続いているらしい――と、言われているわ」
「せ、千年? 千年後っていうと……ええと、何年だ?」
「今が黄金歴1890年だから、2890年ね」
「……」
ほへー、とライラは思わず間抜けな顔をしてしまった。途方もないほどの未来だ。一週間先のことも分からないライラにとっては、まるで実感がわかない数字だった。
「お爺様は未来視の魔法で、これから
「じゃあ、これからこの国はもっと大きくなるってことか?」
「ええ。予言書の通りに全てが進めば、いずれ世界は全てこの王国のものになるそうよ。この王都クリューソスが世界の中心になるの。そして、やがて不滅の王国となる。それがお爺様の見た、この国の未来。でも……最近少しずつ、その予言にズレが生じ始めているの」
「ズレ? それって未来のことが書いてあるんだろ? ズレるとかあんのか?」
「お爺様の予言は、あくまでも貴族が支配者として君臨し続け、
「来るべき時ってのはいつだよ?」
「それは予言書を見ないと分からないわ。そんな感じで晩年のお爺様は、自分の予言書と現実の出来事をどうにか一致させることしか考えていなかったようね。その様子は本当に鬼気迫るものだったそうよ。わたしは、あんまりお爺様のことはよく覚えていないのだけれど。わたしが四歳の頃に
「じゃあ、今のところは予定通りってことか?」
「今のところは――ね。でも……実は、最近わたしも〝夢〟を見るようになったの」
「夢?」
「そう、とても恐ろしい夢……前にライラには固有魔法は持ってないと言ったけれど、もしかしたらこの〝夢〟が、わたしの固有魔法なのかもしれない。そうじゃなければいいと、わたし自身そう思っているのだけれどね……」
ライラは何となく、クローイの言わんとしていることを理解した。
「その夢って……もしかして未来が見えるっていうやつなのか?」
「分からないわ。そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。仮にそうだとしても、わたしが見ているであろう光景は、まだ数年、数十年先のことだから、あれが予知なのかどうか、わたし自身分からないのよ。実際にその時が来てみなければ――」
「それってどんな夢なんだ?」
「……貴族と平民が、お互いに二つの勢力に分かれて戦争を始める夢よ。最初にこの国で戦争が始まって、それがやがて世界中に広がっていくの。わたしはその夢で起こる戦争のことを〝世界大戦〟と呼んでいる。本当に恐ろしい戦争よ。数千、数万という単位じゃない。それこそ数百万、数千万という単位で人が死ぬの。これまでの歴史の中で、誰も見たことがないような、とてつもない規模の戦争よ」
「……」
「もし今もお爺様が生きていれば、わたしの見ている光景が予知なのかどうかも分かったかもしれない。でも……今はもう、未来視を使える者は誰もいない。あれはお爺様だけが手に入れた偶然の産物でしかなかった。お爺様の予言はこれまで数多くの出来事を的中させたから、みんな信じているけれど……わたしの見ている夢は、まだ予知かどうかさえも分からない。少なくとも、お爺様の予知にそんな出来事は記されていない。だから全てわたしの杞憂――そう思いたい。でも、あまりに夢が生々しすぎるし、具体的過ぎるのよ。とても、ただの夢では片付けられないほどに。仮にあれが未来に起こる出来事なのだとすれば……わたしは、どうにかしてあの戦争を回避したいの。貴族と平民が憎しみあって殺し合うような、あんな悲しい戦争だけは、絶対に避けなきゃならない……そのために、わたしは行動を起こそうと思った」
「……じゃあ、騎士団を作ったのも、切裂号を追っかけてるのも、全部そのためってことか?」
「ええ、そうよ。と言っても、自分でも何をすればいいのかさっぱり分からない……でも、とにかく何かやるしかない。今からわたしが動けば、もしかしたらあの戦争を回避できるかもしれないのだから。貴族と平民の関係を変えることが出来れば、まだ何とかなるかもしれない。だから周りにどう言われようが、そんなことは別にどうでもいいのよ。わたしは、あんな戦争だけは絶対に起こしたくない……だって、平民も貴族も同じ人間なのよ? 魔法が使えるからって、それで平民を見下していい理由にはならない。人の価値が決まるのは血の色ではない。心の強さなのよ。わたしは、わたしを救ってくれたあの人からそのことを教えてもらった。だから――わたしは、あの人みたいに、どんなに恐ろしいことがあっても、逃げずに立ち向かおうって決めたの。それが、あの時わたしが生き残った使命だと思うから」
クローイの眼には決意が宿っていた。
「……」
その眼を見た時、ライラは自分の心の中に、今まで感じたことのない感情が生じたように思えた。
どう言えばいいのか分からないが――胸の中に、一つの灯火がついたような、そんな感じだった。
その灯火の名前は、まだライラにも分からなかった。
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