第一章 出会い

第1話 不良少女と貧民街《イースト・エンド》

 ――パノティア王国

 ――王都クリューソス

 

 パノティア王国は現代世界における覇権国家であり、史上初めての〝超大国〟である。

 世界中に植民地を持つこの王国を、人々は日の沈まぬ国と呼んだ。

 王都クリューソスは黄金都市とも呼ばれ、世界中の富がここに集まっているとさえ言われている。

 人間の歴史上において、稀に見るほど栄華をこの王都の人々は今まさに謳歌しているところだった。

 ……だが、もう何年もこの街の片隅で生きてきたライラ・フリスにとって、この街はまるで苦しそうにあえぐ病人そのものだった。図体だけが大きいだけの、死にかけの病人だ。

 黄金都市?

 世界中の富?

 果たして、そんなものはいったいどこにあるというのだろう?

 確かに、西側の表通りに顔を出してみれば、恐ろしいほどの群衆が往来を行き交っている。

 その中には、まるで人生が楽しいと言わんばかりの、幸せそうな人たちも大勢いるように見える。

 どうやら彼らには幸せを買えるほどの金がたんまりとあるようだ。

 そういう連中にとっては、確かにここは世界一素晴らしい街なのかもしれない。

 でも、それは本当に上っ面の話でしかない。

 誰も彼もが、彼らのように恵まれているわけじゃない。

 彼らと違って、生まれながらにゴミのような価値しかない無価値な人間というのは、掃いて捨てるほどこの街にいる。きっと彼らのような幸せ者の目には届かないだろうけど、確かにいるのだ。そういう連中は。

 譲り合いだとか何だとか、そういう綺麗事は満たされている連中の戯れ言だ。いま目の前にあるパンを奪い取って食わなきゃ野垂れ死ぬやつだって、この街にはいくらでもいるのだから。

 ライラは満たされている人間が嫌いだ。

 理由は簡単だ。

 自分は何も持っていないからである。

 これだけこの王都には人が溢れている。

 でも、みんな他人だ。

 他人がどれだけいようと、所詮は他人。何も変わらない。何の関係もない。

 人間は怖い。

 顔では笑っていても、心の中では何を考えているのかまるで分からない。

 だから、ライラは誰も信じない。

 誰も自分の心の中に踏み入れさせない。

 ……だって、、彼女はもう二度と立ち直れないだろうから。

 裏切られるくらいならば、最初から誰も信用しなければいい。

 そう、それだけの話なのだ。

 たったそれだけの――


 μβψ


 ――今日からここがライラのお家だよ。

 ――これからは、わたしたちを本当のパパとママだと思ってね。


 ……叔父と叔母はそう言ってくれた。

 まだ幼かったライラは純粋に嬉しかった。

 幼くして父と母を亡くした彼女を引き取ったのは父方の叔父夫婦だった。

 二人はとても優しかった。

 五年も経つ頃には、ライラは二人を本当の両親のように思っていた。

 ……なのに。


 ――死ね、この〝化け物〟めッ!

 ――ち、近づかないでッ!


 二人はライラが〝ヴィルマルス〟だと分かった途端、その態度を一変させた。

 昨日まで笑顔で頭を撫でてくれていた2人はどこにもいなかった。

 叔母は包丁を持って、叔父は猟銃を持って、まだ小さな子供だったライラを本気で殺そうと追い回したのだ。

 ……本当の親みたいに思ってたのに。

 ……どうして裏切ったの。

 仄暗い感情がふつふつと心の奥底から涌いてくるのを感じた。

 雨が降りしきる森の中、目の前に猟銃を構えた叔父がいる。

 凄まじい形相だ。

 この時、彼女は初めて聞いた。

 恐怖と共に、自身の内にある〝声〟が芽生えるのを、彼女ははっきりと感じたのだった。


 ――せ

 ――ろせ


 殺される。

 叔父は本当に自分を撃ち殺すつもりだ。


 ……


 自然とそう思った。

 それが当然だと思った。

 だって、そうしないと自分が殺されてしまう。

 嫌だ。

 死にたくない。

 ライラの中にいる、彼女も知らない〝誰か〟が、力の限り大きく叫んだ。


 ――〝敵〟を、殺せッ!!

 

 μβψ


「うわぁ!?」

 ライラは飛び起きた。

 慌てて周囲を見回した。

 もちろん、そこは森の中でもなかったし、雨が降っているわけでもなかった。いつも通りの、見慣れた自分の部屋だ。

 頭が冴えてくると、彼女は思いきり舌打ちしていた。

「ちっ、またあの夢かよ……」

 頭をガシガシ掻いてから起き上がり、そのまま洗面台でばしゃばしゃと思い切り顔を洗った。

 顔を上げると、鏡には随分と人相の悪い顔が映り込んでいた。

 灰色の髪はいつも自分で適当に切っているから毛先も揃ってないし、普段まともな食事もしていないせいで顔色も悪い。体つきも華奢というか、単純に肉付きが悪いので、まるで男みたいな体型だった。

 ライラ・フリス。

 それが彼女の名前である。

 彼女は今年で14歳だったが、とてもそうは見えなかった。まず第一に、彼女はかなり背が高い。すでに女性の平均身長は超えている。顔つきも大人っぽいため、年齢相応の幼さなど皆無だった。

 ……そして何より、彼女の持つ雰囲気そのものが、本来あるべき子供らしさを全て消し去っていた。

 ライラはまるで猛獣のような目をしていた。目が合った相手を問答無用でかみ殺す――そういう獰猛な目だ。

 ライラはじっと、鏡に映る自分の姿を睨みつけていた。

「……目の色は、いつも通りか」

 ぽつり、と言葉を漏らした。

 どこかほっとしたような響きがあった。

 だが……彼女はすぐに気付いた。

 いつの間にか、鏡の中に〝影〟がいたのだ。

 顔も何も無い、本当に〝影〟としか言いようのない――いや、だ。そういう得体の知れないものが、鏡越しに自分の後ろに立っていた。

「――ッ!?」

 慌てて振り返る。

 何も無い。

 誰もいない。

 もう一度鏡を見るも、やはり〝影〟なんてどこにもいない。

「……」

 目の錯覚――そうとしか思えない現象だった。

 彼女はそのままじっと鏡を睨みつけていたが、

「……くそ」

 と、悪態を吐いてから、いつものように身支度を始めた。

 着るものと言えばいつも同じものばかりだ。薄汚れた綿のシャツにウエストコート、同じように薄汚れた分厚いウールのズボンに年季の入った革のブーツ。その服装はまさに典型的な男性労働者のそれである。パッと見でライラが女だとは気付かないだろう。

 ライラが住んでいる部屋はかなり狭い。だが、物が少ないのであまりそうは見えなかった。部屋にあるものはベッドと小さな棚ぐらいなもので、いまいち生活感というものがなかった。

 彼女にとって、ここは家というよりただ寝るためだけの場所でしかなかった。

 ライラは黙って誰もいない部屋を後にする。

 「行って来ます」とか「ただいま」とか、彼女はもう何年もその言葉を口にしていなかった。そういう言葉があったことすら、もうすっかり忘れてしまうくらいに。


 μβψ


 王国の都、クリューソスは大きく二つの区域に分けることが出来る。

 一つは〝貴族街ハイツ〟、もう一つが〝民下街デプス〟だ。

 貴族街ハイツというのは丘の上にある街のことで、そこには〝貴族〟と呼ばれる特別な人間たちが住んでいる。

 それに対し、民下街デプスというのは平民たちが暮らしている区域のことだ。丘の上にある貴族街ハイツは、いつも民下街デプスのことを見下ろしている。

 クリューソスの民下街デプスは昔から霧の都と呼ばれてきた場所だ。秋から冬にかけて霧が多く発生するためである。

 だが、最近の民下街デプスは夏場でも〝霧〟に覆われていることが多かった。その霧の正体というのが、――いわゆる〝スモッグ〟である。

 現代産業の主要エネルギー源である〝火石かせき〟はメテオロンと呼ばれる鉱物から生成される。メテオロンは襾学かがく的に言うとエーテル結晶体のことで、これを元素操作して火元素を抽出し固体化することで精製されるが、この際、他の三つの元素は極力取り除かれる。それらが〝ヘドロ〟や〝スモッグ〟などの環境汚染物質となり、工場から排出される。

 スモッグは普通の霧と違い、視界を遮る上に人体には有毒だ。しかも単なる燃焼ガスと違って水元素が多く含まれているため、それがまるで〝霧〟のように街を覆ってしまうのだ。

 ただまぁ、スモッグに限らず〝霧〟に覆われるのはいつも民下街デプスだけで、丘の上にある貴族街ハイツにはあまり関係がない。恐らく貴族街ハイツから見れば、今の民下街デプスは年中ずっと〝霧〟の中に沈んでいるように見えるだろう。

(……今日も霧が濃いな)

 外に出ると、今日は〝霧〟が濃かった。この街の人間たちは、スモッグも全て〝霧〟と呼ぶ。〝霧〟は今や一年を通してこの街の名物と化している――なんて茶化す人間もいるが、年々酷くなっているので正直あまり笑っていられるものではなかったりもする。ちなみに本当の霧が出る冬場のスモッグは、さらにひどいことになる。

 今は『夏の季節』の『第二の月』で、その下旬にあたる時期だ。

 きっと産業革命以前ならば霧とは無縁の季節だったのだろうが、もはやライラにとってはこちらの方が馴染みのある風景だった。むしろ、すっかり晴れ渡った民下街デプスの姿など、彼女はこれまで一度も見たことがなかった。

 家を出てから、ライラは霧の中を足早に進んで行った。

 ここは民下街デプス最大の貧民街――通称〝イースト・エンド〟と呼ばれる地区である。

 文字通り民下街デプス東端イースト・エンドにあるこの地区は、まさに掃き溜めと呼ぶに相応しい場所だ。

 そもそもからして、民下街デプスの東側は低所得者層が多い。その中でもイースト・エンドの治安は最悪だ。どの程度最悪なのかと言えば、荒くれ者が多いと言われる東側の人間ですら、この場所には滅多に近づかないくらいだ。

 ライラはいつものように川沿いの道を歩いて行く。そばを流れている大きな河川は、この王都を東西に流れるテムゼン川だ。

(……あいかわらずきったねぇ川だな)

 ライラはしみじみ思った。

 東側は川沿いに工場や造船所が多いので川はとても汚い。

 だが、これが西側まで行くと、川や街そのものの様子がガラリと変わる。

 世間一般的に認知されている〝黄金都市〟のイメージは、ほとんど西側にあるものばかりだろう。イースト・エンドの対極にある〝ウエスト・エンド〟は平民の中でも特に富裕層が住んでいることで有名な区域だし、他にも〝鉄道〟の駅がある巨大商業地区〝ウエスト・ゲート・プラザ〟、民下街デプスの行政を司る地区〝セントラル・スクエア〟など、娯楽や都市機能の中枢などは全てが西側に集約されている。〝地下鉄〟もつい最近、西側から操業を開始したところだ。

 民下街デプスの西側と東側は、それこそまるで別の国のように雰囲気が違う。産業革命以降はいわゆる〝中産階級〟の平民が増えて、彼らは決まって西側に住みたがった。結果、東側に残ったのは文字もろくに読めない低所得者層ばかりになってしまって、西側と東側は格差の壁によって大きく分断されることになった。

 いまや富裕層だけでなく、この中産階級までもがこぞって自家用車を手に入れようとするような時代だ。物流を支える輸送網も20年前に起きた隣国との大きな戦争を機にトラックや鉄道に置き換わっていたこともあって、馬車や馬車鉄道と言った家畜を使った輸送手段は、少なくともクリューソスの民下街デプスではほとんど見られなくなっていた。

「……ん?」

 ライラがテムゼン川の汚い川面を眺めながら歩いていると、どこからか男たちの笑い声が聞こえてきた。

 何となく通りかかった路地を覗くと、そこには五人ほどの男と、彼らに取り囲まれている少女の姿が目に入った。

(……なんじゃ、ありゃ?)

 ライラがまず最初に視線を持っていかれたのは男たちの方ではなく、少女の方だった。あんなごろつきはここいらでは珍しくもないので、むしろ視界にすら入っていなかった。

 少女がいやというほどライラの目に留まったのは、それは彼女が見るからに何と言うか……そう、とにかく〝お嬢様〟だったからである。

 富裕層とまではいかないが、いいところの中産階級のお嬢様くらいには見える。金のある家ならば学校にでも通っていそうな年齢だ。ライラと同年代、もしくは少し年上くらいだろう。

 金色の長い髪は艶やかで見るからに手入れされており、足首まで裾のあるドレスは仕立てや生地の良さが一目で分かる物だ。ここいらではまず見かけない類いの人間である。

 ライラは思わず呆れそうになった。というかもう呆れるを通り越した。

(あいつバカなのか……? あんな格好でうろついてたら、からんでくれって言ってるようなもんじゃねえか。たまにいるんだよなぁ、観光気分でここらへんに来る西側のやつって……)

 イースト・エンドは悪い意味で有名だ。東側の人間は身を以てイースト・エンドの恐ろしさを知っているので絶対に近寄らないが、むしろ普段ここに縁の無い西側の人間が軽い気分で足を踏み入れたりすることがあるのだ。そういう人間がどうなるかと言えば、大抵が行方不明になるか、後日死体がテムゼン川に浮いているか、そのどちらかだ。まぁ死体が出てきたならばまだ良い方だろう。

 少女は自分の置かれている状況をまったく理解していないのか、和やかな笑顔で男たちと話していた。

 すると、男たちが少女を路地のさらに奥へ連れ出そうとした。少女がまったくの無警戒なので力尽くというわけではなかった。

 一見すると問題がある場面には見えないが、それでもここはやはりイースト・エンドなのだ。言葉巧みに騙され、連れて行かれた先であの少女がどんな目に遭うか、想像するのは実に容易である。男たちのオモチャにされるか、もしくは売られて商品として使い捨てられるか……どちらにせよ、このまま放っておけば、あの少女の人生は終わったも同然だろう。

(……ま、オレには関係ねーか。バカの相手なんざいちいちしてらんねえな)

 世間知らずのお嬢様がどうなろうが、自分の知ったことではない。それにこれから日雇いの仕事がある。貧乏人は自分の面倒を見るだけで精一杯なのである。

 そう自分に言い聞かせながら、一度は踵を返してその場を立ち去ろうとしたライラだったが、

「……だー、くそ」

 立ち止まって頭を乱暴に掻くと、すぐに男たちの後を追いかけていった。

 

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