第3話 ハートのQ

「森のおきてを破り、ハートのQを持ち込んだ愚かな人間よ」


 ネクタイをしたウサギが高らかに声を上げる。テーブルの周りに集まった森の動物たちは、怒りをあらわにして僕を睨みつけた。息を荒げたり、草を食べたりする者もいた。


「森のおきてってなんだよ。君たちが用意したカードしか使っていないじゃないか!」


 いつの間にか両手を後ろで縛られていた僕は、必死に弁明をした。これではまるで罪人じゃないか。


「この森で使用されるトランプは、ジョーカーを除く51枚で構成されている。きみが知らなかったとしても、それはこちらの知ったことではない。きみは勝負でいかさまをしただけでなく、森のおきてまで破った。その罪はあがなってもらうよ」


 ネクタイをしたウサギが冷たく言い放つと、続いてもう一匹のウサギが一歩前に出て叫んだ。


「森のおきて第67条。ハートのQを森に持ち込んだ者は、首をね飛ばされる!」


 その瞬間、集まった動物たちがわぁと大歓声を上げた。


「首を刎ねろ! 首を刎ねろ!」


「愚かな人間に死を!」


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 絶叫する動物たちの声が、僕の心をズタズタに引き裂いていく。こんなことになるなんて、だれが予想できただろうか。

 たまらず叫びそうになった時、不気味な笑みを浮かべた妖艶なネコが静かに前に出てきた。驚くことに、さっきまで騒いでいた動物たちは、ネコの姿を見た途端に急におとなしくなったのだ。真っ赤な顔をしていたウサギたちも例外ではなく、すっかり真っ白な毛並みに戻っていた。


 妖艶なネコが僕の正面まで来ると、すとんと座り込んだ。そして、じっと僕の顔を見つめた。ネコが何を考えているのか、動物たちにとってどのような存在なのか、全く読めなかった。

 何分か沈黙が続いた後、ネコは突然うねうねと体を動かし始めた。ネコの動きが放つひどい不気味さに驚き、僕は逃げようとしたが、体は麻痺したようにピクリとも動かなかった。その傍らで、森の動物たちは静かに成り行きを見守っていた。


 不気味なネコがみせる体のうねりは段々と激しくなっていき、次第にネコの形状を失っていった。同時に、“ネコだったもの”の体が急速に膨張していく。ネコの形をしていたは、球体になったり、水たまりみたいになったりを繰り返しながら、どんどん大きくなっていった。


 ついには、2mくらいの大きさにまでなった。すると、“ネコだったもの”は更なる変貌を遂げ、人のような形へと辿り着いたのだった。


「ああ、アリスさまが姿をお見せになるぞ!」


 誰かが叫んだ。ウサギの声ではなかったが、そんなことはもうどうでもよかった。僕の目にも、さっきまでネコだったの姿かたちがハッキリと見えてきたのだ。

 僕の前に姿を現したのは、切れ長の目で鼻が高い端正な顔立ちをしている、すらりと背の高いブロンドヘアの美女だった。美女は高い視点から動物たちをざっと一瞥した後、縛られた僕を冷たく見下ろした。


「え、あなたは……あなたはどこかで……あれ?」


 このアリスと呼ばれているらしい美女を、どこかで見たことがあるような気がする。だが、なぜだか少しも思い出すことができなかった。


「ウサギ」


 アリスが一言つぶやくと、ネクタイをしたウサギがぴょんと飛び跳ね、森の中へ入っていった。そして、数秒もしないうちに戻ってきた。ウサギよりもずっと大きな斧を持って。

 アリスはウサギから斧を受け取ると、軽々と振り回し、テーブルに斧頭を叩きつけた。テーブルは粉々に砕け、トランプが散った。よく見ると、斧の刃先には古い血痕が残っている。


 呆気にとられていると、アリスはじっと僕を見下ろしながら、カツンカツンとヒールを鳴らして近づいてきた。そして、熱を帯びた体が触れそうになるくらい接近すると、アリスは人差し指を僕のおでこにコツンとぶつけた。

 その時、どこかで嗅いだことがあるような、魅惑的な香りが僕を包み、体がふわふわと浮かぶような感覚に襲われた。


「次は君だ」


 そう言うとアリスは一歩下がり、しなやかな体躯をねじりながら、血の染みた大斧を振り上げた。


「ちょっと……!」


 助けを乞う暇もなく、無慈悲に斧は振り下ろされた。


 最後に見たものは何だっただろうか。喜び舞う動物たちの笑顔か。四散した52枚のトランプか。赤く光る斧の残忍な刃か。違う、どれでもない。

 僕の目が最後に捉えたものは、重厚な大斧を首元めがけて振り下ろす、アリスの恍惚とした表情だった。斬撃を繰り出す彼女の美しい顔からは、残酷さと美しさと共に、どこか優しさも感じられたのだ。


 アリスの斧刃が首元に届くまでの時間はわずか1秒もなかったが、僕には酷く長く感じられた。ああ、もう終わってしまうんだ。様々な後悔が波のように押し寄せる。


「でも、悪くない」


 そう思ったあたりで、首元に痛みが走り始める。そこからはあっという間で、斧が首を引き裂いて完全に通過した頃には、僕の視界は真っ暗になっていたのだった。







 ぺちぺち、ぺちぺち。


 何か……誰かが頬を叩いている。ハッとして、目を開く。


「いやだ、生きたい……!」


 ほとんど無意識に叫んでいた。鼓動の加速が止まらず、心臓のあたりが鋭く強く痛む。痛むが、動いている。僕は生きている。生きていたんだ。


「うるさいよ」


 再び、ぺちと頬を叩かれた。声がする方を見て、一瞬だが息が詰まった。目の前で僕の頬を叩いていたのは、『喫茶店アリス』の店主だった。相変わらず、機嫌の悪そうな表情をしている。


「うなされていたから」


 さっきまで僕の頬を叩いていた手を見つめながらそう呟くと、店主はサッと立ち上がり、カウンター裏の椅子に座って再びスマホを見始めた。スマホを見る横顔は大変美しく、ぼんやりとする意識の中でもつい見惚れてしまう。

 その時、ふと我に返った。さっきまで恐ろしい目に遭っていたこと思い出したからだ。ぞわぞわと背筋が凍るような感覚に陥った後、恐る恐る左手で首元を触る。


「繋がってる……」


 安堵で力が抜ける。あれは夢だったのか。


「ただの夢じゃないよ」


 ドアを開ける音と共に、聞き覚えのある声が背後から聞こえた。再び背筋が凍る。


「アリス、たまごのサンドイッチちょーだい」


 別の声が店内に響く。呼吸が乱れる。


「おい、ぼくの話はサンドイッチより大事なんだぞ。ぼくは絶対に、走り高跳びの選手になるんだ。これはただの夢なんかじゃない。絶対に叶えるんだ」


 声の主は、二人の少年だった。私立の小学校に通っているのだろうか。随分と綺麗な制服を着ていて、どこか品のある子供たちだった。


 お腹をぐうと鳴らしている少年はサスペンダー付きの半ズボンを履いていて、もう一方の夢を語っていた少年はネクタイまできっちりと締めて、高そうな腕時計をしている。


「コラ、お前たち! この店は大人が来るところだ。休みじゃないときは来るなと、いつも言っているだろ!」


 店主――アリスが、これまでになく饒舌に口を動かし、少年たちに説教した。少年たちは逃げるようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、慌ただしく店から出ていった。


「今の子たち、いつもここへ来てるんですか?」


「……たまにね」


 それだけ言うと、アリスはカウンターの下から1枚の紙を取り出し、僕の前に置いた。その紙には、『ハートのQ』と書かれていた。僕は紙を手に取りながら、肩をガタガタと震わせた。


「……こ、これは?」


「君に出した裏メニュー。まさか、知らずに頼んだのかい?」


 アリスはジトっとした目で僕を見つめながら言った。 


「あんな夢を見たのは、その『ハートのQ』という紅茶が原因だったってことですか」


 顔面がカッと熱くなるのを感じながら聞く。それに対し、アリスはハァとため息をつきながら答える。


「……君が何を見たのか、私は知らないよ。でも、今の君の顔は、この店に入った時よりもずっと希望に満ちた顔をしているように見える」


「……え?」


「またいつか、来たくなったらおいで」


 そう言うと、アリスはニコっと笑った。アリスの笑顔はあまりに妖艶で、まるで夢の中に出てきたネコのようだった。僕は少し照れて、一瞬だけ両目を伏せてしまった。

 次に目を開いた時、いつの間にか、僕は『喫茶店アリス』の外に出ていた。ドアにあるウサギ型の飾りの下には、“CLOSED”と書かれた看板が下げられていた。


 ステンドグラスの隙間から中を覗こうかと思ったが、やめた。


 太陽は天高く昇っている。時計の針はちょうど12時を指していた。店に背を向け、今度こそ駅に向かって歩き出す。


「またいつか、再び退屈を感じる時が来たら、この町に戻ってきます」


 そして、少し熱っぽくなった首元を左手で触りながら呟いた。


「その時はもう一度、僕を殺してください」

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魅惑の国のアリス―異界と繋がる喫茶店― 玖蘭サツキ @yusagi_s

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