愛せなくても愛されなくても

宵町いつか

第1話

 やけに冷たい冷房の風から逃げたくて、御洲みしまは小さな車の椅子の上でもぞもぞと体を動かした。助手席から振り向いた母親が微笑ましげに見る。母親の見せる、慈愛に満ちた表情。御洲はその眩しい表情から逃げたくて額を膝に埋めた。

 父親の咳払いの響く車内。すこし埃っぽい暗い車内。

 外から中が見えないようにフィルムの貼られた黒い車窓から見える青空は、いつも見ている景色よりも青さがよりはっきりとしているように見えて苛立った。どうせなら全部真っ黒にしてくれたら良かったのにと心のなかで毒づく。それだったら自分はこんな気持ちにならなくて済むはずだと、この場に居ない誰かに愚痴る。もちろん、現実にそれを言えるような関係性の人なんて存在していない。

 無意識についたため息は煙草の匂いにかき消されてしまった。肺は少しずつ煙草の汚い空気に汚染されていく。漠然と眺めていた外の景色から視線を外し、自身の手首を見つめる。日光が遮断された中ではいつもより青白く、日焼け止めクリームを塗ったことも相まって、まるで死人のような色合いだった。

 今は水族館へ向かう途中の車内。外は多分暑い。太陽は丁度頂上にいる。水族館に行く意味は家族サービスなんかじゃない。皆が話さなくても良いから。家族間のコミュニケーションを積極的にとらなくてもいいからだ。そういう理由から我が家では水族館が好まれる。俗家とは違うだろうけど、我が家ではぞれが普通だ。親同士の仲が悪いのも、兄妹間の仲が悪いのも、父親と妹の仲が、母親と兄の仲が悪いのも、普通だ。これが普通。そうでないとおかしいのだ。

 外に出ると、コンクリートの匂いと湿度の高い空気の混ざったものが御洲の体を包み込む。いつもなら不快に思うはずの空気が今では心地よかった。先程の車内の空気よりかいくらかマシだった。

 皮膚の上で日焼け止めクリームが爆ぜるように、沸騰するような感覚に襲われる。それを無視して足早に、御洲は水族館へ向かう。

 元々クリーム色だったはずの壁面は濁っているし、看板も雨風に晒されてくすんでいる。床には潰された虫の死骸が散乱している。御洲は上書きするようにわざと思いっきり死骸を踏みつけた。感触も感慨も沸かない。

 背後から家族が着いてくる。それが虫みたいで薄気味悪かった。

 家族が発券機でチケットを買っている最中に御洲は椅子で時間を潰す。室内は水族館らしく青で統一された壁に灰色のカーペット。ただ、そのどれもが時の経過とともにくすんでいた。

 母親からチケットを貰う。ここ数年デザインは変わっておらず、名前の知らないアザラシがチケットの中からつぶらな瞳でずっと見つめている。

 母親が御洲を呼ぶ。その声に機械的に応じ、受付を通る。手の甲にスタンプを押される。今時珍しい、ブラックライトに当たると発光する仕組みのやつだ。

 カーペットに足音が吸われていく。水族館にはしっとりとした空気が流れているような気がした。きっと水槽から漏れ出ている空気のせいだ。それか水族館自体になにか仕組みがあるのかもしれない。酸素ポンプだったり水槽に入れる塩だったり、そういう非日常なものが水族館にあふれているからしっとりとした水族館独特な雰囲気が出るのかもしれない。

 古い水族館だから、新しい水族館みたいに大きな展示はない。大水槽だとか水中トンネルみたいなものはない。それを造るほど金がないだろうし、造ったところで借金が出来て赤字になるだけ。多分、この水族館は都会にあるやつと比べて小規模だしそこまで維持費がかからない。地元愛のある人達が熱心に来るから生き残っているだけで、多分都会にこの水族館があったら三十年前には潰れていると思う。

 物心ついた時から変わっていないラインナップの水槽たちを今回も丁寧に見ていく。何も変化がないからもちろん家族間での会話なんてない。それが目的でもあるから良いんだけど、無いなら無いなりにすこし物足りない。ただ水槽の中で必死に動いている酸素ポンプくらいしか音がないからより寂しさが募る。ここで目的を持って動いているのは酸素ポンプだけなような気がする。それ以外は漠然とここしか来る場所がないから、みたいな人間たちだったり、ここしかいられない魚たちしかいない。

 一番初めに視界に入る水槽は目が飛び出たような体をした綺麗な墨色の出目金だった。申し訳程度に入っている海藻の横を通り過ぎ、悠々と泳ぐ出目金を見つめる。目だけ飛び出た素っ頓狂な形の金魚は自分たちが娯楽として扱われていることなんて知らないような馬鹿丸出しの表情で御洲を見ていた。

 水槽の端に隠れている藻が視界に入らないようにしながら御洲は魚影を追いかける。まるで影のような墨色の出目金たちは御洲の視線から逃れるように海藻の裏へ泳いでいった。

 母親たちは御洲を置いてさっさと奥へ進んでしまった。休憩スペースへ行くのだろう。そこが一番人が少なく自動販売機もある。軽食も売っているから過ごしやすいのだ。まるで監獄みたいだと御洲は昔から思っている。

 それだったら他の場所へ行けば良いのにと思いつつ、この家族はここしか知らないということを思い出す。家族サービスはいつもこの水族館で止まっている。何十年も更新されていない。多分、それはこの家族がはじめから何も変わっていないことを指している。子供が生まれても父親は変わらなかった。子供が成長しても母親は何も変わらなかった。長女が生まれても長男は何も変わらなかった。だからだ。多分ずっとこれからそれは続くのだろう。母親は長女を愛しすぎて、父親は長男を愛しすぎて。長男は、長女はは本当の家族の形を知らずに大人になる。もしかしたら親になるかもしれない。親になって、また生まれた子を、生涯の伴侶を傷つけるかもしれない。御洲はそれが嫌だった。自分が誰かを傷つけることが嫌だった。

 御洲はゆっくりと壁に埋められた水槽を見ていく。通路に人は家族を抜けば二人しか居ない。だから一つに対して必要以上に時間を使う事ができる。

 小さな水槽の中に収められた最小限の海藻に数匹の魚たち。そのどれもが悠々と、緩慢に動いているのを見ると、御洲は少し羨ましく思った。御洲が奪われてしまったものを持っているみたいで、嫉妬した。きっと御洲はこんなにも悠々と生きていけない。親の前でさえ悠々と生活できないのだから。

 進んでいくとこの水族館の中では一番大きい水槽が見えた。派手な色合いの魚がするりと水中を踊る。黄色と青の魚に真っ青な魚。多分食べられないだろう。というか食べたくない。

 水族館で魚が食べられるかどうかなんて考える人は少ないだろうな、と思いながら御洲は椅子に座る。御洲はこの椅子に座るのが好きだった。厚いクッションが自分の体を支えてくるのがとても安心感があったし、すこし暖かい気がしたのだ。多分、自分の体温が移ったのだろう。理由はなんとなく分かっている。だからといってそれで残念がったり納得することはなかった。暖かければ良かった。

 椅子に座ると中水槽がよく見える。暗い通路から明るい水槽を見ると、やけに没入感があった。水族館という名前がついているのも納得ができる。

 見慣れているからもう綺麗なんていう感想も沸かなくなっている。当たり前の光景のように思えてしまって特別感はない。幻想的だなとは思っていてもそれ以上はなにも思わない。感動も出来ない。

「退屈そうな顔してる」

 誰も居ないものだと思っていたから油断していた。御洲はゆっくりと視線を声の方へ向ける。驚けば動きが遅くなってしまうのは人間共通だろうと、ぼんやりと考えた。

 視線の先には暗闇に溶けてしまうそうな、儚げな表情をした少女が立っていた。少女は白いワンピースに白いサンダルを履いていた。水族館の暗闇と相まって、彼女の風貌はクラゲに似ているように感じた。

 少女は御洲の隣へ座る。それがあまりにも自然な動きだったから御洲は驚く時間すら与えてもらえず、呆然と彼女の一挙手一投足を見るしかなかった。彼少女はふわりと欠伸をした。

「せっかくの水族館なのに退屈そう」

「……こんな場所のどこが面白いのよ」

 思わず御洲は言い返していた。少女はその言葉を無視して、また欠伸をした。その姿は御洲よりも退屈そうに見えた。

「面白い以外にもなにかあるんじゃない? 綺麗だとかそういう感情」

「まるで私がそう思ってないみたい」

「現にそうでしょ」

 少女はそう断定した。御洲の意見なんて最初から必要ないようだった。

「だって楽しそうな顔じゃなかった。たまに見惚れてそういう無表情になる人もいるけど、あなたはそういう風に見えなかった。あなたからは何も感じなかったもの」

 大体合っていた。だから尚更、御洲は肯定出来なかった。図星だったからこそ、それが恥ずかしいもののように思えた。

「なんだよそれ」

 結局、導き出されたのは結末をあやふやにする言葉。御洲は相手を傷つけるような言葉をあまり投げつけたことがない。それだから、いつもあやふやな結末をもたらす言葉を扱う。それが御洲にとって都合がいいから。

「私がそう思っただけだから、気にしなくてもあなたにはなにも影響はない。一個人の意見」

「口に出して誰かに聞かれた時点でそれは影響出てるんだよ」

「あなた、面倒なことを言うのね。嫌われない? そういうの」

 あんたのほうが嫌われそうだよ。そう続けようとした喉をどうにか殺す。クツリと喉から音が鳴った。

「……まあ、少しは見惚れなさい。この海の美しさに。海は何でも包んでくれる。誰かの歓喜、誰かの死、誰かの骨。その全てをね」

「そんな万能なものじゃ……」

「海なんてその95%しか分かってないのよ? そういう万能なものがあったって良いじゃない。宇宙より遠い場所よ。海は」

 少女の言葉には熱が入っていた。少女の上体は熱を発散させるようにゆらゆらと揺れている。

「だったらここより生きやすいかな」

「さあ。それは魚たちに聞かなきゃ。でも少なからず魚たちは人間より孤独よ。きっとね」

「孤独?」

 御洲のこぼした言葉は水槽の光にやられてしまって散っていく。

「孤独。だって魚たちは人間みたいに同類を愛せないわ。好きだとか嫌いだとか、エゴを持てないのよ。でも人間はそのエゴを持てる」

 人間の尺度で魚を測る目の前の少女が面白可笑しく感じて思わず笑ってしまう。少女はそれに気分を害した様子もなくまた話し始めた。

「子供を育てるのだって子孫を残すことしか考えてない。まあ、人間だって根本にはあるかもしれないけど、ぶっちゃけ子孫を残すことよりももっと他の大義があるわけじゃない。エゴがあるわけじゃない。だから魚は孤独なのよ。親からの本当の愛情を知らない。本能というものしか無いの。それ以外の物が存在していないもの

それは人間から見たら淋しいかもしれない。でもその淋しさが私は好きなの。魚を愛していけるの。だって滑稽じゃない」

 宗教的とも言える言葉だった。多分この人の中では全ての辻褄が合っていることなんだろうと感じた。誰かに理解されなくとも、その人個人が理解できていれば良いものなのだ。それが彼女の中での絶対的な原則なのだ。

「人でも愛されない人はいるよ」

 例えば御洲の家族だったり。まだ、御洲の家族はマシな方なんだろうと思う。ただ、片親から愛されていないだけなのだから。まだ、兄から愛されていないだけなんだから。母親から愛されているかはわからないけど、愛されていると感じたい。そう思い込みたい。愛されている。きっと。

「でも愛せる。人間には愛すという素晴らしい能力があるわ。魚にもあるかもしれないけれど、人間にはまだわからないわ」

「愛せたらいいの?」

「愛せたらいいのよ。愛されなくても良いのよ。なにか一つ、誰か一人、愛せたら」

 案外人生幸せって思えるから。

 実体験なのだろうと思った。少女の場合はそれが魚だっただけなのだ。少女の言葉にはそう思わせる絶対的な力があった。御洲は椅子から立ち上がって少女を見据える。少女は感情の読めない表情で御洲を見つめ返す。

「……また会える?」

「もちろん。私はクラゲみたいに溶けないから。ここに来れば、いつでも会えるわよ」

 少女はそう言い笑う。その笑みがやけに人間臭くて御洲はやっと親近感を得る。魚のことを話している彼女だけでは御洲のなかで何処か機械じみている部分があるように感じられていたから。多分、魚のことは好きなんだろうけど、好き以外のいろんな感情を負って来たのだろうと感じていたから。それを押し殺していたから、機械じみているように感じられていた。

「ありがと。んじゃあまた会いに来るね」

 御洲は家族が待っているであろう休憩スペースへ向かう。

 御洲は漠然と思った。私は父親を、母親を愛せてないのだと。多分それは正解で間違っている。私は人間として親が嫌いだ。でも子としては親を愛している。一応育ててもらえているから。衣食住を提供してもらえているから。案外、それだけでもいい。子供は無条件に親を愛すが、一個人としては無条件には愛せないのだ。

 帰りの車の中、窓越しの反射した親を見ながら御洲は思った。多分今なら親のあの表情を違和感なく受け入れられるかもしれない、と。

 帰りの車内でみた自分の肌はちゃんと薄い橙色をしていた。

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愛せなくても愛されなくても 宵町いつか @itsuka6012

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