独り

 瑠永は十時頃に目が覚め、電子レンジの上にある五枚切りのパンの一枚を小さい皿に乗せた。冷蔵庫からチョコシロップを出し、牛乳をコップに注いだ後、満遍なく食パンにかける。食卓の椅子に座らず、キッチンで立ち食いをしてそのまま食器を洗った。自分が出す音以外は何もなくて、つまらなかった。

(慣れたけど、ね…)

 それでも朝起きれば『おはよう』って言ってくれる母親とか、『気をつけて行くんだよ』って送り出してくれる父親を望んでしまう。瑠永が諦めた、諦めたと思いたいものだ。

(いまからそんなことされても逆に無理なんだけどさ、気色悪い)

 一人で家にいるのもつまらない、と氷点下の中、瑠永は外に出た。

 四五十分歩けば神社、それだけ市電に揺られたら街に出られる。瑠永は迷うことなく街に出ることにした。

 コートを着て、マフラーをしてワンショルダーバッグには水筒を入れて。停留所に向かった。瑠永が市電を待っている間、ヒュゥゥゥ…と何度も鳴った。そんな寒さでコートを着ているのは見渡す限り瑠永だけ。ほとんどの人がフードつきのダウンを着ていて、本来ならばそのぐらいの格好をするはずだよね、と羨んだ。

 西四丁目で降りてそのへんの店をぐだぐだ歩き見る。何かを買えるような所持金はない。百均でなら買えるものはあるが、わざわざ街に出てまで百均で買い物とはなんか、違うような気がした。

 たとえ買わなくとも見るだけでも充分楽しめる。『大通』と呼ばれるところなら一人で歩いても問題ない。しかし『すすきの』エリアは『中学生以下は絶対ひとりでは行くな』と再三再四言われている。ニュースでも『夜の街、すすきの』や『眠らぬ街、すすきの』とも呼ばれている。瑠永は風の噂ですすきののことを『北海道の歌舞伎町』と呼んでいる人もいると聞いたことがあった。

 東京の情報はほとんど持っていない。大都会・魔境としか認識していない。そんな東京の中でも歌舞伎町はヤベェとこ、と聞いたことがある。それはテレビだったか、学校だったか。そんなところと同等扱いを受けているすすきのに警戒心を抱かずにはいられなかった。

 服屋、本屋、地下デパを歩くだけで五時間が過ぎていた。時計を見ると四時半近くになっていて、天井から見える外の景色も少しずつ暗くなっていく。

(帰るかぁ…今日なに食べよう)

 母親が家を出る前にリビングに置いて行った五百円玉。それは『今日の分の食費ね』を意味する。千円札が置かれていたら『二日帰らないから』、樋口が置かれていたら『十日は帰りません』。父親はしょっちゅう出張に行くため、顔を合わせることすら少ない。

(ドーナツ食べるか…)

 そういえば新商品が出てたよね、と地上に出る前にドーナツ屋に寄って「ガトーショコラひとつください」と購入した。

 人波に呑まれそうになりながら地上へと続く階段を登り、踏み外しそうになりながら地上に出た。

(階段上る如きで息が上がるなんてね…)

 帰りの電車はすごく混んでいた。運転手が「次の電車をご利用ください」と言うほどに。少しして瑠永に異変が起きる。

(逃げたい、逃げたい!ここから出して…。いや、だ…。)

 自力では抑えられそうにない情緒不安定に襲われた。

(たすけてっ…!)

 しかし当然のことながら瑠永を助けてくれる人も、異変に気づく人もいない。最寄りに着くまでずっと泣きそうな情緒と闘わなくてはいけない。

 やっとの思いで最寄りまでつき、カードリーダーに触れて降りる。玄関前についても電気はついていなかった。荷物を下ろして、上着を脱いで手を洗って。少し早いけど、どうせ帰ってこないからと瑠永はさっき買ってきたドーナツを食べた。

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