第67話 閑話 背教するかつての麒麟児 前編
あれから数日後、私は東京の名の知れた都市にいた。
原田から示された力は本物だった。だが、その後の言葉が事実であるのか、判断はつかない。
……違うわね。それがたとえその場凌ぎの嘘だとしても私に無視することなんてできない。
賀茂の本家からは今も巫を何処よりも早く見つけ出すよう厳命が飛んできている。あの温厚なご当主さまがそんな無茶な命令を下すとはとても思えないが、その指令が取り消されることがないこと、ひっきりなしに経過報告を求められる事態からある程度の想像はつくわ。
きっと何か恐るべき事態が発生したのだ。大勢の目に陰陽師の業が触れたらどうなるか解っているはずなのに、それでも強行せよとのお達しなのだ。
秘すべき陰陽師の存在を、そしてその存続を優先する事以上の何かが起きている。そんな漠然とした予感がするのだ。
そんな未曾有の事態だというのに、私は責務を放り出して東京にいた。
人と待ち合わせをしているからだ。今日という日、18時に都内のとある駅のコンコース。
原田はここで待てば迎えが来る、そう言っていた。
私の他に待ち合わせをしている男女が数人周囲にいる。まさかこの中の誰かが迎えなの? あの時の原田の口ぶりだとやってくるのはあの少年の関係者だろうと見ているが、もう既にここで私を監視しているかも?
原田の強大な力を見知っている身としてはその関係者も同類である可能性は高い。
言いようのない恐怖が足元から湧き上がって来るのを自覚する。
あの少年に騙されたのではないかという疑念が今になって膨れ上がり、そしてそれを意思の力を振り絞って否定する。
原田が私を担ぐ必要なんてない。彼は一人でこの国全ての陰陽師を敵に回せる男だ。そんな奴が私一人をわざわざ騙して何の意味がある。
こうして陰陽師が1人、任務を放り出して東京に戻る程度の成果のためにあんな真似を、私を抱えて崖下の谷底に落ちる必要はない。
彼が欲しいのは裏切り者、忠実な情報提供者。
この恐ろしく狭い業界、縁故や血族で雁字搦めになった柵だらけの世界でも平然と親兄弟を裏切れる貪欲な執着、強い渇望を抱く者だ。
原田と直に会ったのは1度きりだが、あの邂逅で私の強い我欲を見切られてしまった。
そして調略を受けて転んだのが私、北里小夜子だ。
だから彼が私を騙すことはない。私を忠実な手駒にするためには、まず最初にこちらに靡くための餌を与えなくてはならないからだ。
そう、力だ。誰にも負けることのない圧倒的な力が欲しい。かつては神童、麒麟児と持て囃されながら本当は凡人でしかなかった自分を嘲笑う全ての者を見返す力が。
誰をがひれ伏す強大な力を私に与えるとあの信じられないほど美麗な少年、原田玲二は私を連れ出したあの洞窟ではっきりと口にしたのだ。
「貴方がサヨコ・キタザトですか?」
突然、声をかけられた。
気づけば私の前にとてつもない美貌を持つ黒髪の女がいる。
「い、いつの間に!」
これでも陰陽寮所属の術師として多くの実戦をこなしてきた自負がある。しかし、ここまで誰かに接近を許したことはなかった。いくら考え事をしていても、体が勝手に反応する。姿はおろか気配まで消す妖魔を相手にする私達は気配には人一倍敏感だというのに!
「人違いでしたか。失礼を」
「いえ、私が北里よ!」
音もなくくるりと背を向けた黒髪の女は慌てて口を開いた私に振り向いた。
唐突な登場に意識していなかったが、この女は日本人ではないように思える。日本語のアクセントがネイティブのそれではなかったし、その吸い込まれるような碧い瞳は異国情緒に溢れていた。
「貴女が?」
その碧い瞳が一瞬色を失った。その意味を言葉にせずとも理解し、全身が沸騰するような衝動に襲われた。
今まで幾度も感じた、他者からの失望の眼だ。
あれが神童と呼ばれた北里か。才能の輝きは消え果たか、哀れなものだ。
言われ慣れた言葉の刃が私の精神を絶え間なく抉り続ける。
荒れ狂う激情を必死で制御した私は何とか声を絞り出した。
「そっちこそ原田玲二の使いとやらが貴女?」
「ついてきなさい」
私の問いに応えず、女は簡潔に告げて先を歩き始めた。
「ちょっと! もう、なんなのよ」
女はそれから一度もこちらを振り返ることなく進み続けたが、その後ろ姿から感じ取れるものがある。
歩き方ひとつとっても、実力の底がまるで見えない。
わかっているのは粟立つような皮膚感覚が教える、恐るべき使い手であるということ。
そして周囲の誰もがこの飛び抜けた美貌の女にまるで注意を払っていないことだった。
術師としての道より芸能を強く勧められた(自慢にもならない。才能に乏しい術師は諦めろと暗に告げられたようなものだから)私には道行く者から視線を投げ掛かられるというのに、それ以上美しさを持つ黒髪の女に何故誰も注目しないのか。
恐らく何らかの術を使って他人の認識から外れているのだろう。
もちろんそんな術があるなんて初めて聞いた。これでも土御門伽耶様より手解きを頂いて古今東西の術には詳しいと自負していたのに。
目の前の黒髪の女があの超越した力を持つ原田玲二の関係者であることが確信出来た瞬間だった。
しばらく歩いて周囲の人通りも減ってきたころ、何故か道の路肩に停車している貴重なものを見て視線を縫い付けられた。
英国が誇る”世界最高の車”の異名を持つメーカーのファントムが道端に止められているのからだ。
当然ながら周囲の注目を集めているが、それはその車の希少さだけでなく、スーツを着こなした
黒髪の女が躊躇せず車に近づくと、ショーファーは恭しく頭を下げ、座席の扉を開けた。
「乗りなさい」
それだけ告げて彼女自身はその超高級車に乗り込んでしまった。
いったい何が起きているの? 混乱する思考を持て余しつつ、私も初めてのロールスロイスを堪能することにした。
「出しなさい」
私の座席の隣に座る黒髪の女は運転手にそれだけ告げて押し黙ってしまった。
これまでのやり取りともいえない話の中で理解したことがある。この女は上位者だ、その振る舞いや物言い全てが、他人に命令することにひどく慣れている。
今の運転手に対する命令も自然なものだった。年上に命令する気負いも傲慢さもない、普段から多くの者に指示することが当たり前なのだ。
それだけの立場にいる女が原田玲二の使い走りとして動いている。
私の中で言い知れない不安と期待が入り混じり始めた。
電気自動車も静かだけど、本当にエンジン音がほとんど聞こえない高級車のお陰で無言の静寂が続いてしまっている。
居たたまれない空気に我慢できず、私は隣の女に尋ねてしまった。
「貴女、あの男のなに?」
「質問の意図が不明瞭です。そしてそれに答える義務もありません」
にべもなかった。そしてまた始まる沈黙……そう思ったのだが、驚いたことに返答があった。
「玲二さんとは仲間のようなもの、広義ではそう捉えてよいかと」
「仲間ね。その力、尋常なものではないわ。その力があれば、私も……」
原田玲二から告げられた一言はこれまで積み上げてきたすべてのキャリアを放り出すに足るものだった。
罠かもしれないと疑いつつも、抗えずにここまで来てしまうほど
「その程度の狭い了見で恩寵を浴そうとは。玲二さんの判断に口を挟む気はありませんが、少しは相手を選んでほしいものです」
どうやら私の言葉は黒髪の女のお気に召すものではなかったらしい。一目で不機嫌さが解るほどに、凍り付く空気を周囲に発している。
「貴女は今回のことに反対なのね?」
「私は事の是非に関与する権限を持ち得てはいません。サヨコ・キタザトを案内するようにとだけ申し付けられているので」
それだけ言い放つと女はそれ以上口を開くことはなかった。
明確な拒絶の空気を発する女を前に、私も会話を続ける気はなくなった。
それからしばらく車は走り、本当に静かに停車した。窓の外を見るとここは住宅街の真ん中のようだ。まさか、ここが目的地だというの?
「私が命じられているのはここに貴方を連れてくることだけです。ご苦労でした、戻って結構です」
最後の言葉は運転手に向けたもので、全てを心得ている彼は一礼してロールスロイスを静かに操って去っていった。
「こんな住宅地に何があるというの?」
「すぐにわかります」
漠然とした不安を口にした私を簡潔に切り捨てた女は、さっさと歩きだす。そして
住宅街に紛れるようにあった一軒の喫茶店の扉を開いた。
「こんな場所に……」
これが隠れ家的店舗というやつだろうか。スタバやスターリーズばかり使っている私には少し新鮮だった。
「中でお待ちです。くれぐれも粗相のないように。たとえ赦されたとしても、不敬は私が絶対に許容しません」
私への侮蔑以外ほとんど感情を見せなかった女が初めて明確な威圧を見せたのが、最後の一言だった。何もする気はないが、もし非礼を働こうものならまずこの女が真っ先に襲い掛かってくる、そんな確信めいた予感があった。
「私がここに来た目的を貴方も知ってるなら、その心配は無意味だと解るはず」
私は藁をも縋る思いでここに来ている。もし望みのものを与えてくれるなら世界の全てを敵に回しても構わない、それくらいの覚悟は決めている。
その店は昭和レトロ、とでも表現すればいいのか今では滅多にみられない古いタイプの喫茶店で店内は薄暗く、ランプの灯りが雰囲気を醸し出している。
店内に客はいない……いや、見える限りでは奥のスツール席に女性(美しすぎるので女性だろう。黒髪の女と全く同格の美貌を有する麗人に見える)が一人だけいた。
あの赤髪の女の存在感は黒髪の女以上だ。これからの事に無関係だとはとても思えない。
弦楽器のクラシックが流れるそう広くはない店内には奥の方にテーブル席があるようだ。
仕切りでここからは見えないが、なるほど。あの赤髪の女は
その奥に向かって進む黒髪の女の後を追う私にスツールに座る赤髪の女から声が掛かった。
「ユウナ、その女が例の?」
「ええ、そのようです」
黒髪の女はユウナという名前らしい。赤髪の女からそう問われたユウナは頷いて答えたが、その顔からは何の感情も伺うことはできない。
そのとき、奥の4人掛けテーブルの奥から私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「あんたが北里さんか?」
その姿を見たとき私は目を疑った。
その男は特に目立つ容姿をしている訳ではない。中肉中背、美貌の二人に囲まれると平凡な顔は一層周囲に埋没してしまうだろう。
だが、私たちはこの顔を忘れることなんてできない。
何故なら今現在、御堂葵や原田玲二以上に陰陽師界隈で話題を浚っている人物だからだ。
私もあの冗談のような光景は何度も食い入るように見た。監視カメラは不明瞭な映像ながら、荒唐無稽な現実を映し出していた。
間違いない。この男だ。
いや齢は原田とそう大差なく見えるが、それがより現実味を失わせている。
無意識に私は喉を鳴らした。
ここは異界だ。いつ入り込んだのか全く気付けなかったが、世界と隔絶したかのような異質さを生み出しており、もちろん私を見ている少年がこの場全ての支配者だ。
そして私の直感はそう外れてないように思える。自分を案内してきた黒髪の女は少年の横の控えるように立ち、赤髪の麗人もその反対側に控えた。
何処から見ても主人と従僕の立ち位置だ。
「ご質問に答えなさい」
これまでとは次元の違う冷厳な声音が私を叩いた。不敬は許さないと先ほど告げた言葉は紛れもない事実であるとその声が雄弁に教えている。
「え、ええ。私が北里小夜子よ。貴方が原田玲二が言う”扉を開く者”?」
目の前の少年が発する異様な気配に圧倒されている私は思わず弾かれるように答えたが、その答えは女二人の気に障ったらしい。
濃密な殺気が私に襲い掛かり、気を張っていたのにそれだけで失神しそうになった。
「ははは、なるほど。上手いこと言うな玲二、言い得て妙だ」
少年は朗らかに笑い、場の空気が少しだけ和らいだ。その笑い声に二人の殺気が鳴りを潜めたからだ。主の気分で従者の態度が変わる、つまり目の前の少年の機嫌を損ねたら私は一瞬で殺される。それがこの場のただ一つの真理らしい。
「まあ立ち話もなんだ、座りなよ。なんか食うか? 知り合いの話によるとこんな外観なのに店主が手ずから焙じた焙じ茶が評判だそうだ。それと豆大福が鉄板の組み合わせと聞いたな」
高圧的な女二人と違い、少年は友好的に声をかけ対面のソファーを勧めてくれた。
彼なりにこの場の硬い空気を解そうとしてくれているのかもしれない。
しかし、絶対に油断することなんてできない。
芦屋の広大な倉庫街を一瞬にして消し飛ばした超常の力を持つ男が目の前にいるのだから。
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