第2話 形而下

 僕は一人の人間に生まれた。出生時点から自我があり、生まれてからのことはみんなはっきりと思い出せる。


 僕が生まれたのはある病院だった。母の胎内から生まれたときの景色は見ていないが、周りに何人もの人がいるのが感じ取れた。おめでとう、がんばったね、と僕か母に言われてるのかわからない言葉が聞こえた。声から考えると周りにいるのは女性ばかりだった。


「のぼる」と誰かが言った。それが僕の名前だ。


 僕の母は17歳の少女であった。母は少し茶色く染めたボブカットの髪をしていた。生前の自分と同年代であったからとても恥ずかしかった。僕には父親はいないみたいで母と祖父母が僕の世話をしてくれた。僕は無邪気なふりをして母によく抱きついた。母の体は柔らかく弾力があり若さが満ちていた。母はいつも僕の頭を撫でながら

「かわいいねー。」

と目を細めながら言った。夜中に目を覚ますと母が僕をじっと見ていることもしばしばだった。

 母は本当に僕のことを大切にしてくれていた。その年齢で出産することはとても大変だっただろう。母はとても強い女性だった。


 幼児を生きることは幼児でない世界を知っている者にとって非常に退屈だった。あるいて何処かに出かけることもできなければ、本も読めない、字も書けない、テレビも新聞もない。だから暇な時間があれば天井を見つめながら神を恨んだ。記憶を残したまま転生させた神を恨んだ。

 母がいかに強い女性であろうと、母がどんなに僕を大切にしてくれようと、やはりこの世界は僕にはやはりあっていない。僕は苦しみが嫌いなのだ。


 数少ない僕の楽しみが図鑑を読むことだった。僕が好きなのは魚の図鑑を読むことである。図鑑は図鑑なだけあって知らなかったことが色々書いてあった。例えば、僕は鮭が白身魚であることを知らなかった。わさびのおろし金が鮫の皮でできていることも知らなかった。ただ、そう思っても字が読めないふりをしなければならなかった。それは、自分勝手に他人を巻き込まないためだった。


 僕が1歳になって立てるようになった頃、母は高校に復学した。質問攻めにあって大変だったのよと祖父母に愚痴をこぼすのも聞いたが、母は本当に幸せそうだった。学校の勉強は休んでいる間も続けていてそこそこはできているようだ。また、学校側が母が同級生と進級できるように取り計らってくれたようだ。母は休日に僕を連れて外出してるときにしばしば同級生に会った。母は僕を紹介して、母の同級生は僕をよく観察した。母は少し恥ずかしそうにしていた。僕はジロジロと見られてすごく恥ずかしかったし、知らない人に抱っこされるのはすこし怖かった。


 母が学校に行っている間は祖父母が僕の面倒を見てくれた。彼らは「まだ50なのにおばあちゃんになってしまったわ」と言っていた。そうは言っても、孫は可愛いらしく、僕の面倒を甲斐甲斐しく見てくれた。僕のおむつを替えたり、離乳食を食べさせたり、絵本を読み聞かせてくれた。


 祖父母はたくさんの本を持っていた。棚にドストエフスキー全集であるとかカフカ全集であるとかトーマス・マンの魔の山であるとかがぎっしりと詰め込まれていた。僕はその中から数冊を抜き取って隠れて読んでいた。あるとき、僕が棚を物色していると祖母に見つかった。本を読んでいるときじゃなくてよかったと心底思う。本を読んでいるときは幼児の演技をしていないから怪しまれるか天才と担がれるかの2択であろう。幸いなことに祖母はただカラフルだから興味を持っただけだと考えたらしく、祖母は母に

「登くん天才かもしれないわよ、今日私の本棚で本を眺めてたもの。」

と嬉しそうに報告していた。しかし学校帰りで疲れ果ててた母は

「赤ちゃんなんだから何かが気になっただけだと思うわ。私、本をビリビリに破いちゃったんでしょう。あの子もするかもしれないわよ。」

と素っ気なく返しただけだった。


 僕は本棚が触れなくなってから退屈していた。しかし、ある日勉強をしている母の隣で遊んでいたら、母が

「登、おいで。」

と言ってきたので母のところへ行ったら、母は僕を抱き上げて膝の上に乗せた。

「赤ちゃんってあったかいわ。」

と言って抱きしめてきた。僕は母の胸が自分に当たってることが少々気になったが、授乳時を思い出すと平静を取り戻すことができた。

 母はそのまま勉強をしていた。母は数学が苦手なようで、

「定積分ってどうやるんだっけ?」

とか

「logってなんだ?」

とかいいながら教科書と格闘していた。僕は簡単に理解できるのでぜひとも教えてあげたかったのだが、時々教科書の該当部分のページをそれとなく開くだけに留めた。


 生前、僕は秀才だった。幼い頃から医師の父から勉強することを強いられていたからだ。小学校に入学する前から1日に3時間勉強をしていた。そのおかげで勉強に困ったことは一度もない。しかし、友だちと遊んだことはほとんどない。友達と遊ぶことなんて時間の無駄だと本気で信じていた。死の1週間前までは。

 

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