第1話 形而上
人は死んだら無に帰すと思っていた。意識が雲散霧消して残るのはただの肉体だと思っていた。ただそれは違ったらしい。僕は死後の世界にいた。
そこは淡く光る白い床が無限に広がった場所だった。空はどこまでも黒く、低く垂れ込めていた。そして、触れられない雨が降っていた。そこには温度や湿度という概念がまるごと欠落していた。さらに言えば嗅覚もなかった。僕の心臓はやはりその動きを止めていた。
「………」
声は出なかった。温度を失った空気が口を通って外に出ただけだった。
僕は歩いた。怖かったからだ。これから永遠に、この寒々しい空間にいるのは耐えられなかった。一人は慣れていたはずだが、今は一人が耐えられなかった。僕の体はいくら歩いても疲れることはなかった。そこには誰もいなかった。そして僕の乾いた足音がするだけだった。
僕は歩くのをやめて考え事を始めた。もう考えるだけ無駄なことは分かっていたが、考えて気を紛らわせない訳にはいかなかった。まず僕は16歳の頃に付き合っていた恋人のことを考えた。
彼女はよく本を読み、僕にその本の内容を心底楽しそうに語った。僕はそんな彼女の目が好きだった。深い茶色でその中心にある瞳はいつも幸せそうに僕を映していた。不器用で気が変わりやすい人だったがそこも彼女の好きなところだった。16歳の夏休みに彼女と寝た。その時のことは全然覚えていないが、事後に裸で抱き合っているときに彼女が和歌を教えてくれたのを覚えている。その年の冬に我々は別れた。僕が別れを告げたとき彼女は「私と寝たからもうどうでもよくなったんでしょう。」と言って泣いた。僕は否定しようと思ったけどやめた。
僕は次に、母親について考えた。母は僕が生まれて間もなく死んだ。なぜ死んだかは知らない。僕は母について覚えていないが、家の仏壇にはいつも真っ直ぐな目をして僕を抱いている母がいた。そして父は母の遺骨をいつまでも墓に納めずに仏壇においていた。僕は父がしばしば母の遺骨の前で泣きながら酒を飲んでいるのを知っている。ただ僕は愛を知らない。父は僕にそれを教えなかった。
僕にとって意味のある記憶はそれだけだった。僕を苦しめてきた記憶はもう思い出せない。彼女の記憶も次第に薄れるだろう。死んでしまった僕は時間軸のある一点で静止した存在である。ただ風化して砂になって泥になるのを待つ川底の石に過ぎない。
どれほど時間が経っただろうか。不意に座っていた僕の目の前に
『私は神だ』
『神とはメタファーだ。お前が生きていた世界の形而上の虚構だ。』
(神は人型をしてないのか。)
『神は虚構だ。世界の分からないことを説明する仮説に過ぎない。ゆえにどんな形でもいられるのだ。』
僕の考えていることが読めるようだ。そうならば話は早い。
(ここはどこなんだ?)
『死後の世界だ。』
(僕はずっとこのままなのか)
『望めば。』
(ほかに選択肢はあるのか)
『ある。』
(それは何なのか)
『地獄、天国、転生、だ。』
(それは選べるのか)
『選べない。』
(ならばあなたが決めるのか)
『ちがう、くじだ。』
(くじ?)
『くじだ。昔は私が決めていたが最近の人間は我儘なやつが多くて、そんな奴らに付き合うのが面倒なのだ。しかも、最近の人間は大抵が罪人だ。地獄のキャパがたりない。』
そう言って神は僕の前に3つの
『どれか選べ。地獄、天国、転生が一つずつだ。』
(3分の2で当たりか。)
『早くしろ。』
(
僕は一番左の
『このお前から見て左端のやつだな、それではもう一度チャンスをやろう。』
(もう一度チャンスとはどういうことだ?)
『教えてやる、この一番右のは天国だ。』
神は一番右の
『さあ、2つになった。どちらかを選べ。』
僕は迷いなく選択を変えた。
『それでいいんだな』
(ああ…)
『おめでとう、転生だ。』
僕は眼の前が真っ暗になるのを感じた。なぜまたあの生き地獄を味わわなければならないのだろうか。僕がこれからどんな命になろうと、生きる苦しみは変わらない。
(なあ、変えることはできないのか?)
『できない』
(そこのところをどうにか。)
『無理だ』
(じゃあどんなやつに生まれ変われるか選べるのか)
『少しは』
(カゲロウはできるか)
『無理だ、人間だったものは人間にしかなれない』
僕は絶望した。それは電流が胃を消し炭にし、神経を
『オプションはもういいのか』
(いい)
『私の厚意で前世の記憶保持、男にしておいた。』
(前世の記憶は消してくれ)
僕は焦って言った。
『もう遅い、ゆっくり転生を待つがいい』
僕は長い間、頭を抱えて座り込んでいた。僕は絶望でもう何も見えなかった。目が潰れ、脳が爆発し、血管が弾けるような苦しみがそこにあるだけだった。血反吐を吐きそうなくらい苦しく、痛いのに血は一切出なかった。声も、涙も出なかった。ただ、頭の中で、殺戮が行われているみたいに頭痛がし、全身から叫び声がした。
その時は不意に来た。僕は物に憑かれたように立ち上がった。床の発光は強く、波のように強弱した。四方八方から光が放たれ、僕の身を焼いた。そしてその光はだんだん強くなる。体を動かすことは瞬きでさえできない。そしてその光が最高潮に達したとき、僕を黒い痛みが貫き僕の体は分子一つ一つに至るまで散ってそれぞれが光の粒となって消えた。
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