第4話 目前の出来事

 5th-modの採取窓の外には、地表に噴出した物的証拠から噴出前の溶融岩石の挙動を推定した研究者達の想像力では到底表現しきれないような事実が展開していた。二次元断面の結晶サイズ分布から真の三次元の結晶サイズ分布を推測するSaltykovの方法のような統計学的推測があるが、ここでは統計処理をせずともその場で結晶サイズを測定可能なのである。圧倒的な事実の前に統計学的な手法は空しい。

マグマ溜りの上縁に到達するまでの間、採取窓から見えるのは漆黒の岩石だけだった。漆黒の岩石は基本的には玄武岩なのだが溶岩流、火砕流、火山灰等の様々な形態の玄武岩質マグマの固結物が過去噴火の履歴として延々と続いた。ただしそれらは積年垂直方向の圧力により堆積時の数十%の厚みに圧縮されたものだった。比較的低温で低粘性の場所ではボーリング掘削したケージサンプルは船内にて観察できたが深度が増すにつれ、漆黒の玄武岩は赤みを帯びてきた。有人掘削船の4,5th-modには接触式温度計、圧力計などのセンサーが外部の極限環境に設置してあり、その測定値を見ると、外部温度計が八百度を超えていた。さらに高温になると、玄武岩は赤色から橙色になり、さらに岩石が静かにゆっくりと蠢いていることが認識できるようになってくる。動いているとは到底思えない岩石の塊を数分間じっと見ていると驚くことに火蠢いている。そんな中に私達はいる。考えると自身が燃え尽きてしまいそうだった。

マグマ溜まり上縁に到着するとマグマ中を有人掘削船が浮揚している感覚がより顕著になった。初めてマグマ溜りの中で細長い斜長石は湧き上がり、塊状のカンラン石は静かに沈降し底の見えぬマグマ溜まり下部へと降り注ぐ。緑の雪が生まれ、私達の足元を埋めるように降り積もる。採取窓から見ていると分厚い断熱壁の存在すら忘れ、自らが溶けた岩石中にたゆたうかのような錯覚に襲われる。

カンラン石と斜長石は同時期に晶出しており、熱力学的により安定化するため同時に結晶化し一つの塊となって、沈降していく。怪しく橙色に光るマグマの中で斜長石は可憐なZoning Structureを示し、私の心を癒した。過去の実験とカイネティクス理論から瞬きする間に結晶が成長することは自体を理解したつもりであったが、それが目の前で繰り広げられると得も言われぬ感情が私を支配した。採取窓から見える範囲にて10×10×10cmのマグマを冷却水で急冷し、十㎝角のソリッドレードルとしたものが最初に採取されたファーストレードルであり、それは5th-modに設置されたChemical CTスキャンにより結晶の種類や粒分布が調べられた。CTスキャン後にX線蛍光分析や観察用の薄片が作成されるなど、様々な情報が抽出された。ファーストレードルにはカンラン石5%と斜長石2%の斑晶と、磁鉄鉱、ガラス状物質、Ti酸化物が確認された。斑晶以外の部分は急冷時に発生したガラス状物質である。組成は紛れもない玄武岩質マグマだった。マグマ溜まり内に突入してからは極端に低粘性となりこれまで十mに一回の頻度でサンプル採取していたものを一m毎に一回の頻度で採取して分析することが可能となり、成分や各鉱物含有率の変化は連続して抽出することができた。稀に急激にその割合が変化することがあり、そういった急激な変化の原因を搭乗者間で議論することもあった。それらの原因はこれまでの研究成果によりわかっているより深部からの別組成のマグマの貫入による影響であることもあったし、これまで理解されている現象として説明することができないこともあった。ただ、そういった一過性の変化を除くと、マグマ溜りは垂直方向で連続した組成変化をしており、層状岩体という既存の考え方は理にかなっていた。

私達地球科学者達は採取したレードルと、作成した薄片等を5th-modの一角に置いていった。5th-modには作業ブースとサンプル保管用のブースに分かれており、作業ブースには光学顕微顕微鏡や、分析機器が置いてあった。より地下深部へ潜航するにつれ、採取したサンプル数は増え、5th-modは目に見えて煩雑になっていった。ソリッドレードルの採取以外にも、私達は採取窓を利用してマグマ温度や粘性、含水量などの直接測定をおこなった。それはすべて史上初めての測定だった。マグマ温度は採取窓から赤外温度計で概算温度を測定した後に、採取窓から直接マグマ溜り内に熱電対を差し出して、接触式温度計で測定をした。この実測温度がこれまで理論的に提案されてきた斜長石の含水量やオージャイトとピジョン輝石の平衡を仮定した輝石温度計などで算出されたマグマ温度の誤差の範囲内であることは驚きでもあった。直接測定に勝るものはないが私達地球科学者が構築した理論値は実態に近づいていたこともあったわけである。ただ粘性測定作業は煩雑であり、採取窓から鉄糸のついた鉄球をマグマ溜り内で落下させ、落下速度から粘性を算出するというものだった。組成、温度と同じく粘性も一m毎に測定したが、地球科学側で実際に作業をするメンバーは私と暁烏博士の二人しかいないためこれらの作業は膨大な労力を要した。他の搭乗者の三人はそれぞれボーリング技術者であり、彼らの任務はこの掘削船をより深くまで掘り進め、設備を壊すことなく、無事に地表に戻ってくるという重大な責務があるため、地球科学者である私達が専門の責務に取り組むのは当たり前のことだった。落下式の粘性測定で得られた数値は半年という地球科学的には短期間で想定していたよりも顕著な変化を示した。マグマ粘性はメルトの成分と含水量、そして斑晶量により決まると推測されており、高シリコン含有量で斑晶量が多ければ高粘性、含水量が多ければ低粘性となる。マグマ溜り上部縁に到達するまでは地下の温度勾配に合わせて、粘性は漸減し、上縁にて急激に粘性が低下した。マグマ溜りに到達すると深部へ向かうにつれ、粘性は確実に漸増し斑晶量は明らかに増えそれは採取窓からの肉眼でも確認できるものだった。それは一m毎のソリッドレードルに含まれる鉱物含有比からも明らかだった。カンラン石の顕著な増加、斜長石の減少、そして上部マグマ溜りでは存在しなかった単斜輝石の出現と漸増。

概して既存の論理とin situの『いま』目前にある真実に悲劇的な程の差異が認められなかったことは地球科学者として誇らしいことだったと私は思っている。MCLPはまさに自然科学の理論と地質学者の集めた地球表層の膨大なエビデンスから得られた推論の答え合わせを行っているようなものだなと私は地下数十㎞の閉ざされた世界でぼんやりと思ったことを覚えている。同乗者の暁烏博士もそう思っていたかもしれない。一方、マグマ中の含水量は想定値とin situの実績値で大きなズレがあった。富士火山のマグマには想定していたよりも数十倍の水分が含まれており、それはマグマ溜りが閉鎖系ではなく、開放系であることを意味していた。ただこんなにちまちまとした見積もりを吹き飛ばす程に、掘削船の採取窓からの景色は私を愕然とさせた。蠢く流体と固体の競演。


          *

MCLSは高温、高圧、高硬度の超苛酷環境下の掘削であり、最も負荷が高い1st-modのドリリングモジュールは定期的に整備されていた。私達はその整備作業を横目で見ていたが、何も手伝うことのできない作業であった。整備時は掘削船自体が深部へ移動することはなくその場でとどまっており、掘削担当の三人が設備に付きっ切りになり、徹夜で作業に明け暮れていた。掘削しなければ新しいサンプルを採取することはできないため、私は小さな居室のデスクにて収集したデータを整理したり、5th-modの作業スペースで顕微鏡での岩石組織観察をして時間を過ごした。それは過酷な分析作業の間の束の間の休息時間だった。掘削時には寝食を除くと休憩時間はほとんどなかったがこの時間だけは私自身のために使用できる唯一の時間だったと言ってもよいだろう。私はその時間を顕微鏡観察やEPMAでの組成分析に費やした。それは私のこよなく愛する作業だったからである。

作業スペースの顕微鏡で単斜輝石のセクターゾーニングの観察を終えて一息つきながら私は採取窓の外を眺めた。掘削深度が同じであればソリッドレードルの採取は必要ない。昨日ソリッドレードルを採取後、掘削船はその深度を変えていない。見える景色は変わらないだろうと私は思っていた。掘削窓からの視野は直径三十㎝で、そこだけが船外の情報を得ることができる唯一の場所であった。ふとその掘削窓から外部を覗くと、得も言われぬ奇妙な感覚があった。この違和感はなんだろうかと考えると、昨日採取窓の上端にいたカンラン石の集団が下端に移動していた。これこそが結晶分化プロセスであり、物質の移動が目の前で繰り広げられている様に私は静かに感動した。特に論文にして発表するわけでも暁烏博士に報告するわけでもなくこの事実を私は心の片隅に留めておくことにした。

目の前の事実は想定していたものだったが、感動的な事実だった。温度、粘性、含水量、成分といった基礎データの分析と合わせて、それらのデータを初期条件として物質移動と熱伝導のシミュレーションが暁烏博士主体で実施された。それらの議論は5th-mod内のミーティングスペースで議論されることもあれば、私自身は3rd-modの居住スペースの個人PCで解析することもあった。in situで得られたデータをもとに、熱伝導、物質移動、拡散、結晶核形成、結晶核成長といった物理化学の既存の理論を数理モデルに落とし込み、リアルなマグマ溜りのダイナミクスを再現するのである。

結晶沈降はストークスの式に従い、結晶成長速度、核発生速度は過冷却の程度に依存する。垂直方向のマグマ特性の変化は局所的な多様性を除くと、数㎞範囲での層状の体系的な変化が見出され、深部に向かうにつれて上部には存在しなかった単斜輝石が現れ、より下部に向かうにつれて単斜輝石が増加していった。レードルサンプルおよび実測温度から測定されたマグマのメルト密度、カンラン石の密度、斜長石の密度を比較すると、カンラン石が沈降し、斜長石が浮上しているから見ても明らかだった。ストークスの式によれば、カンラン石は一日で十m沈降、斜長石は一日で二m浮上、単斜輝石は一日で四m沈降すると計算された。

この有人掘削によりで膨大なデータとこれまでの推測の是非を問う観察結果を得ることができたのは非常に有益だった。それは先のカンラン石の沈降だけではなく、メルトの移動すらもin situにて確認されたこともそこには含まれる。ソリッドレードルによる全岩化学組成分析によりマグマ溜りの上部と下部近近傍に二つの分化した層が検出され、組成CTスキャンによる上部境界層で形成された単斜輝石とカンラン石、斜長石が岩床の下部まで沈降し、単斜輝石の沈降と上部への残渣メルトの移動までも確認された。これは沈降した結晶のオーバーグロースにより、軽い分化したメルトが生み出され、上昇していることを示唆した。それは前回のカンラン石の沈降を目の当たりにした時と同様に私達にとって偶然の発見であった。それを発見した時のことはよく覚えている。

その時私はいつもと同じように採取窓を無心で眺めていた。手にはブラックコーヒーが入ったコーヒーカップを持ち、苦いコーヒーをすすっていた。採取窓の外には周りのマグマに比べ、やや明るく光っている幅五十㎜ほどの構造物が見つかった。なんだろうと私は思い、数分程見続けていると、その明るく光っている筋部をメルトが移動する様子が見え、まさにそれが上昇する残渣メルトだと私は直観した。その後もそういった残渣メルトの通り道を私は数回観察した。それはまさに私達が固結後の岩石から想定していた物質移動の現場だった。

地上に戻った後に私達は観察結果をいくつかの論文として公表した。富士直下のマグマ溜りでは上部境界層で形成された鉱物の沈降と下部境界層への堆積、そして組成対流による境界層分化よるその場での組成対流が起きていた。そしてこれらの分化は天井部の効率的な熱損失および結晶の分離を引き起こした不安定な上部境界層により引き起こされたのだろうという内容だった。半年という潜航期間はマグマ溜りの熱的、物質的な変化をとらえるにはあまりにも短いとの第三者からの指摘はあったが、それでもこの現場での現象が紛れもない事実であり、それを詳細に記録することは掘削船に搭乗した私達地球科学者の責務であると思っていた。事実に勝る推論はない。

この玄武岩質メルトのマグマ溜りが完全に固結し、斑レイ岩となる前に私達はこの狭く魅力的な地下宮殿から細い綱を手繰って地表へ戻らなければならなかった。

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