第5話 第三の男
四谷にある大日本石油の本社の打ち合わせスペースに私は来ていた。一階のロビーは吹き抜けで高い天井には小さなダウンライトが複数と中央にアールヌーボーの古く黒ずんだ電飾が設置されている。客をもてなすのではなく、作業現場が優先されるのだというこの会社からの意識を感じながら、私はエントランス脇にあるパーティションに区切られたミーティングスペースで吉田を待っていた。ミーティングスペースは三十席ほどあり、数人が小さな声でなにやら商談をしていた。エントランスから中央に設置されたエレベーターに人々が吸い込まれ、上昇していく中、一人静かに下ってくる男性がいた。クールビズというには寒すぎるのにノーネクタイで萎びたビジネススーツを着たサラリーマンが私の目の前に立った。
「初めまして。大日本石油の吉田です。今日は宜しくお願いします。」
目の前の吉田という男がニコリとして、両手で丁寧に名刺を手渡してきた。私も慌てて胸ポケットの名刺入れから、一枚名刺を取り出した。
「こちらこそ。本日はよろしくお願いします。」
吉田は白髪はないものの、その容姿からは五十代過ぎだろうと私は想像した。名刺のやり取りで吉田が企業の技術者であることを感じさせた。それは企業の技術者特有の独特の感じで、自らの所作や風貌にその企業風土のしみついた匂いを感じた。私の所属する新聞社の匂いとは明らかに異なり、それは訓練された兵隊のような格式を吉田のたたずまいに感じた。国の研究者からは自由で独立していながらも、教育者としての一面を感じる一方、企業の技術者からは企業の利益に結び付き束縛されているが守られている人間としての一面を感じた。束縛され従い企業に利益をもたらしてくれる限り企業は守ることを約束する。ただ個人での成果はすべて企業に帰属するという契約なのだ。具体的にその空気観が何に由来するものなのかわからなかいがそういうものなのだ。ただ、吉田の纏っている空気観は企業の研究者のそれとも微妙に異なる気がした。吉田からにじみ出るものは、企業のそれとは微妙に異なり、企業に属しながらも、自らの力で切り開いてきたような自信なのではないだろうかと私は思った。
「騒がしいところですいません。他に打ち合わせスペースが空いていなくて、そこのミーティングスペースにお入りください。」
「まったく問題ありません。お忙しいところ、取材を受けて頂きありがとうございます。」
私が勧められた席に座ると、吉田は向かいの席についた。吉田はMCLPの搭乗者の一人であり、大日本石油のボーリング技術者だった。吉田の研究成果や企業でのキャリアについては事前に調査済みだった。吉田は地方国立大学で堆積学を研究し、大学を四年間で卒業後、日本のオイルメジャーである大日本石油に就職している。入社後は研究所やJMEAへの出向を経て、大日本石油のボーリング部門の最高責任者として勤め上げたのち、MCPLへの参加し、搭乗者五人の内、唯一の民間人として選出された。
「ご存じかもしれませんが私はMCPLの掘削技術を担当していました。MCLP搭乗者の他の研究者の方達とは違い、私は一エンジニアです。泥水を蓄えて地下を掘り進むボーリングの如しです。」
吉田はそういって自分を卑下したような笑みを見せたがその苦笑いに相反して誇らしい顔をしているように私には見えた。
「そんなことはないでしょう。紛れもなく吉田さんはボーリング技術者のエリートでしょう。入社後は様々な研究施設へ出向しておられますし、発表された研究成果も多い。素晴らしい実績を背負って、MCPLに選出されてのだと私は思っていますし、世間もそう認識しているでしょう。私のような一記者が偉そうに話すことではありませんが。」
それを聞いて吉田は恥ずかしそうに笑った。
「これまでに、他の搭乗者の方達にも同じ質問をしているのですが、MCPLへ参加し、掘削船に搭乗することになった経緯を教えてもらえませんか。」
私は用意していた一つ目の質問をぶつけた。
「私は大日本石油で掘削の現場で三十年近く働いてきました。私の経歴については事前に調べてもらっているようでご存じかもしれませんがJMEAへの出向時に暁烏博士と何度か議論することがあり、そのことが縁でプロジェクトへの参加を要請頂くことができましたのではないかと思っています。それ以外に大した理由はないと思いますよ。先生に直接聞いた方がよいかもしれませんね。」
「ありがとうございます。これまで実施していた油田開発の今回の掘削業務とは圧倒的にその深さが違います。それに掘削対象の岩石が堆積岩から火成岩に変わっています。MCLSでは岩石の違いや掘削深度の違いについて苦労した点はありますか。」私は用意していた二つ目の質問をぶつけた。
「MCLPも結局は油田の掘削と同じですよ。ただ、深さの規模が桁違いです。深さに伴い、ボーリングを取り巻く環境つまりは温度と圧力が激化しますが、掘削方法は基本的には同じです。泥水で冷やしながら、地下を掘り進み、その泥水を使って、削り取った泥を地上まで輸送する。その仕組みは変えようがないのです。ボーリングケージや先端のドリルの材質や形状はまったくの別物ですが。材料開発や機材の設計はまた別の担当者がいて、私はその一ユーザーにすぎないのですけどね。」
吉田の物言いはあくまでも謙虚だった。私は吉田の態度に好感を持った。
少し前までミーティングスペースの傍をスーツを着たサラリーマンが続けざまに通り過ぎていったが、出社時間のピークを過ぎたのか今はもう人の気配はせず、私達の会話だけがエントランスの高い天井に響いている。ふと横目に見ると最初は気が付かなかったが入口に警備員の老人が一人立っており、ちらちらとこちらの方を見ている。ミーティングスペースの閉鎖時間が近づいているのかもしれない。
「MCPLの中ではボーリング担当の技術者として、計画にも参加しましたが、実は元々は搭乗者の暁烏博士らと同じ理学部出身なのですよ。大学では堆積学を学んでいました。」
「もちろんそのことは存じております。学歴、職歴を拝見させていただいておりますので。」
吉田は顎をこすりながら、それはありがとうございますと言って笑った。
「この会社に入社してからずっとボーリングの技術屋としてやってきました。最初のうちはボーリング現場で一作業者として働き、様々な場所で穴を掘り続けました。住宅基礎のための地盤調査から、高層ビル建設ための地盤改良の事前調査、都心での温泉掘削、原発候補地の地質調査、そして海上油田の掘削。場所が変われば掘り方は変わりますが、その度に発見がありました。そんなもんです。それが新しいボーリング法の知見につながり、MPCLまで連れてきてくれたのかもしれない。何より掘ることは面白い。」
「すばらしいことだと思います。私も突き詰められればよかった。どれもこれも中途半端なまま、これまでの人生を送ってきてしまった気がします。都度何か、誰かのせいにして諦めてしまった。すみません。私の話です。」
唐突な私の話に吉田はふっと苦笑いを見せ、自分の話をつづけた。
「私が学生だったころ、同級生や先輩達は皆、素直に研究に取り組んでいるように見えました。よいか悪いかどうかはわかりませんが、皆目先のものに夢中になっていた。ただ私にとってそれは掛け値なしに面白かったのです。今の学生を見ていると、研究者を目指している場合も、企業へ就職を目指している場合も、はたまた公務員を目指している場合も、皆同じかもしれませんが、特に研究者は研究者であると同時に政治家でなければいけない。工学系はなおのこと、自然科学の世界でも例にもれず喫緊な成果が求められ、効率的な研究が求めら、それにこたえられた人間がわずかなばかりに存在する席を得る。過去研究をしたいという人間は研究をすることができたが、現在研究をしたい人間はざらにいる。その中で成果を上げた人間だけが生き残る。それは今も昔も同じですが、私には研究の世界には政治家が多すぎるように思えるのです。ただそれは私の個人的な意見です。研究費は削られ、すぐには仕事に就きたくないという学生は増えている。それは根源的な無職の研究者の増加を招いているのかもしれません。論文として現出したもののみでしか人間は評価されない。ただ、そこに付加価値を追加できる人間はいる。生き残るためのすべを求め続けている人間だけが生き残れる。当たり前と言えば当たり前のことかもしれません。それは研究だけではなく、一般の企業でも同じですし、広義には野生動物の弱肉強食の世界と変わらないので、筋は通っているのですが、私には腑に落ちないことも多い世界です。」
吉田は少しきつい口調でそんなことを言った。企業で働く吉田がなぜそんなにも強く研究の世界で生き延びることの厳しさや批判的な意見を主張しているのか理解できなかった。ただ吉田も企業や研究者とのやり取りの中、厳しい人生を生き延びてきたのだろうと私は思った。そんな吉田の話を聞きながら、私は自分が学生だったことのことに思いを馳せた。
*
大学時代は総じて何かとても楽しい時代だった。十数年近く昔なので、時代のせいなのか、自分のせいなのかわからない。第一に私は現在の大学生がどのような生活を送っているのか、何を楽しいと思っているのかを知らない。実は大学生活を楽しむということすら時代遅れなのかもしれないのだが十数年経った現在でも地方国立大学で過ごした学生時代の記憶が脳裏に色濃く残っているのである。
なぜ私が地球科学に進学したのか明確な記憶はない。ただ均質化した中学校、高校という集合体、それはまさに結晶化した鉱物のような四角四面の人間の集まりであったが、その共同生活において私は結晶化の過程で規則正しく結晶に取り込まれず、溶液中に取り残された希土類元素のように緊密化した集合体から吐き出されたような存在だった。それは周りの影響でそのようになっていっただけではなく、自発的に吐き出されていった側面もあるだろうと今になっては冷静に考えることができる。私は緊密で均一な集合体から密度の低い方へ低い方へと吐き出され、その勢いのまま、濃度差を利用してより遠くへ遠くへと拡散していった。緊密に押し込められた敷地内では人間は秩序通りに整然と配置されている。だが私は集団を離れ、広大な空間を自由にランダムウォークし、孤独な確立の世界へと突き進んでいったのだということを大学入学時に夢想したこともよく覚えている。
大学で初めて市川を認識したのは私が大学院一年になった夏だった。市川は学部三年生で卒業研究のための研究室を検討しているところで、その当時の教授と廊下で話をしている姿を頻繁に見たのである。廊下で熱心に教授と会話をしている女性がいるなというのが私の市川に対する第一印象だった。ぱっと見た感じ、整った顔をしていて後ろに縛った長い黒髪と薄い化粧の影のある顔立ちであったが、嬉々として教授に質問をしていた姿を私はよく覚えている。
思い返してみると初めての会話や見てくれで、自らがその他人と馬が合うか合わないかを明確に分断してしまうという私の性格が、中学、高校生活での息苦しさを生み出していたのだろうと、今になって冷静に考えるとそう思える。そして大学時代は同級生や周りの友人に恵まれたのだろうと、今思い返すとそんな気がする。大学には馬の合う友人が数人いた。それだけいれば私には十分だった。それまで馬が合う人なんて一人もいなかったのだから。数人の仲間がいれば、人間なんて生きていけることを理解したのもこの時期だ。この気づきは私に勇気を与えたのだと思う。
初めて市川と会話をしたのは市川を初めて認識した大学院一年生の時で、私が教授の補助員としてとして岩石組織実習の手伝いをしている時だった。岩石観察は岩石を切断して作ったチップをプレパラートに貼り付け、0.5mm程に薄くした後、それを光学顕微鏡で観察するという授業だった。鉱物は偏光を通すと顕微鏡のごとく様々な色彩に変化するため顕微鏡の台座を回転させ、その色彩、模様を確かめながら鉱物の鑑定を行う。鉱物の鑑定が岩石組織観察の第一歩であり、基礎である。私はこの万華鏡のように変化する火成岩薄片の観察がなによりも好きだった。その時、好きで楽しいだけではそれは仕事にはならないのだと教えてくれたのは皮肉にも市川であった。
*
「視野の中心の鉱物は何でしょうか。」
手を挙げて質問してきたのは学部三年生の市川だった。それまで市川とは話したこともなければ、同級生から市川の話題を聞いたこともなかった。話しかけられて初めて私はしっかりと市川の顔を正面から見たのである。岩石観察室の座り心地の悪いミツバチの木箱のような椅子に座り、顕微鏡をのぞいていた市川が手を挙げていたので私は後ろに立ち、どうしましたかと声をかけると、市川はぴったりと目元を押し付けていた顕微鏡から顔を離し、後ろに立った私の顔を下から睨みつけるように見上げていた。市川の眼光に私が驚いたことに気が付かれないようにそ知らぬふりをしていた。市川がどのような意図でそんな顔をしていたのかわからないが、私には少なくともそのように見えたのである。そして市川は冒頭の質問をしてきたのである。市川が顕微鏡から自身の体を横にずらしたので、私は中腰で市川の顕微鏡をのぞきこんだ。目元に僅かなぬくもりが残っていた。鏡下の中央にはオレンジ色の鉱物が見えた。
「視野の中央にいるコロッとした鉱物はカンラン石だね。偏光板なしでは茶色、偏光を入れるとオレンジから緑色に見えるはずだよ。これは北海道の幌満に露出している日本で最も新鮮なカンラン岩の岩石組織だね。風化していないカンラン石はなかなか見られないんだ。僕の好きな岩石の一つなんだよ。」
私がそう説明すると市川は首を縦に振り、謝礼の素振りを見せるとこう言い切った。この時のことは昨日のことのようによく覚えている。市川のすべてを表していると言っても過言ではない。
「ありがとうございます。鏡下の鉱物がカンラン石なのはわかりました。ただ好きとか嫌いとか、そういう感情は鉱物同定には必要ないのではないでしょうか。事実が正しければそれでよいと思います。」
市川の人間性の一旦を垣間見たのはその時が初めてで私はこの日二度驚いてしまった。影のある伏し目勝ちで孤独な顔立ちの整った女性という外見だけから想像した私の履かない妄想は打ち砕かれ、クールな合理主義者という市川の本質が明確になった。その時は非常に驚いたが、特に腹が立つことはなく、そういう人間も世の中にはいるものだなという程度だった。
その後も市川と話すタイミングはあったが、最初に感じた印象が覆るようなことはなかった。市川はやはりクールで、クレバーで完璧だった。それは実習や試験というわかりやすい結果だけではなく、生き方そのものについてもそうなのではないかと思わせるほどに。いつしか私は市川の姿を目で追っていた。今思うとそれは恋心とかいうものではなく、ある意味では市川に傾倒していたのかもしれない。
修士二年生で私が博士課程への進学を逡巡していた時、学部四年生の市川が私のいる研究室に所属することとなった。そこではフィールドワークをメインとし、過去の火成活動を再構築することを目的にした研究をしていた。私は山岳地域のマグマ溜りの分化過程を大学から数十㎞はなれた場所にある火山を対象に調査していた。市川もまた火山のフィールドワークをベースにして、火成活動史を紐解くための研究に取り組むこととなった。学部四年生の市川と修士二年の私。同じ研究室に所属して研究に取り組み、より近いところで接し、市川の完璧無比な姿が私の網膜に鮮明に焼き付いた。所属してからわかったことだが市川は学部三年生の時からここに所属したいと教授に相談していたようで、その時からすでにフィールドワークを独自で行っていたことがわかった。そのため、学部四年生になった時には、すでに対象火山の露頭からの岩石採取と薄片作成は完了しており、薄片を観察する段階だった。それを聞いて時、特に私は驚かなかった。市川ならそんなこともありうるだろうと思ったのだ。岩石組織実習にて、用意してある薄片以外のサンプルを観察していたことがあり、誰の薄片なのだろうと思ったことを私はそこで思い出した。ああ、そういうことか、あの時見ていた薄片は市川が自分で作成した薄片だったのだと、私はその時初めて理解したのである。
群れず、媚びず、そして目的を達成するまでは諦めない。自分で設定した目標のため、効率的に合理的に、だけど一匹狼のように一人で。私には市川の研究への取り組みかたはそんなふうに見えた。それでも市川から研究のことで相談されることは度々あった。野外調査のこと、地形図の読み方、薄片の作り方。研究室に所属してから、市川は頻繁に私の居室である院生研究室に顔を出しては用意してきたと思われる大量の質問を投げかけてきた。次第に国内、海外問わずマグマ関連の論文について質問をされるようになり、度々私を慌てさせた。
研究室の定期報告会では研究室の学生が集まり、教授に毎月進捗を報告しているのだが、市川だけが人並み外れて進んでいることをその都度そこに参加していた私を含めた学生は感じていた。当時私は修士論文の追加の野外調査のため、自分のフィールドを言葉通りにはいずり回り、サンプルを採取したり、露頭のスケッチをしたりしていた。
過去のマグマ溜りでの現象の痕跡を残している深成岩体であるプルトンの縁を歩き回り、岩体の急冷縁部を探し続けていた。当時私は急冷縁、急冷縁と呟きながらフィールドを歩き回るのと並行して、修士論文の執筆と参考文献の読み込みを行っていた。学部四年生には四年研という部屋が一室用意されており、学生達は皆そこで卒業論文を執筆していた。私は何度か四年研に顔を出したことがあった。もちろん先輩風を吹かせたかったのだ。皆ワイワイと楽しそうに作業していたが、市川は部屋の隅で黙々とノートパソコンのキーボードを叩いていた。私がじっと市川の顔を眺めていることに気が付くと、ちらりとこちらを見て軽く会釈すると再びパソコンの画面へと顔を戻した。市川は完璧、クールで、おそらく私は女性としても、友人としても、苦手なタイプだったのだと思う。ただ不思議と市川のことは嫌いにならず、私は市川の一連の行動に好感を持つことの方が多かった。こういったタイプの人間が研究者となり、活躍していくのだろうなという思いが私の中でふつふつと生じていた。私は修士論文を、市川は卒業論文を執筆していた。市川は研究室ではこれまで取り組んでこなかったマグマ物性の数値計算、シミュレーションまで独学で構築していた。それは学部四年生とは思えないような知識、洞察力、実行力だった。結局市川が学部四年生で書き上げた卒業論文をほとんど教授の修正無しで修了し、卒業論文発表会では異彩を放った。市川は卒業論文にわずかな手直しを加えた内容で修士一年の時に国内雑誌に投稿し、リジェクトされずに掲載されるという快挙を成し遂げた。その間に市川は国内、海外を問わず様々な学会報告を経験していた。
一方、私は博士課程への進学をあきらめた。もしかしたら、市川の影響があったのかもしれないが、自分自身の中で研究者として生きていくための自信が得られなかったのが一番の理由である。ただそれを気が付かせてくれたのは市川だったというだけである。修士論文を書き上げるまで就職活動をしてこなかった私は一年間の浪人生活を送り、かろうじて現在の新聞社に職を得た。就職活動が終わったのは次の年の五月頃で、その後の十か月は何もやることがなく、私は修士論文を雑誌に投稿するための準備のため、その一年弱を費やした。その一年間は自分を納得させるための期間だった。自信がなくなっただけなのに、マグマ研究をあきらめ、地球科学をあきらめ、自分はこんな学問を捨てたんだと、捨てられてのではなく、自分から捨てたんだと自らに言い聞かせる期間だった。そして就職した新聞社の中で、社会の苦しみの中で、ただ生き延びることだけを考えて生きてきた。頑なに踏みとどまっていれば、生きていけるのだと息巻いて十数年働いてきた。今回マグマ溜り研究所の取材をして、努力した先に好きになったと思った学問が実は私にとって唯一無二の学問だったのではないか、あの沸騰した頭で取り組んだ三年間の研究人生はなにものにも替え難かったと十数年たって初めて気が付いた気がした。
市川の大活躍を横目に見ながら、私は静かに大学を去った。最後に大学を去る際、居室の書類整理をしていると市川が一度声をかけてきたことがある。
「ご就職と論文掲載おめでとうございます。これまで色々と教えて頂きありがとうございました。これからも新しい職場でがんばってください。」
薄片を製作している途中なのだろう、市川は研磨粉で黒く汚れた白衣を着ていた。後ろに一本に縛りまとめた黒髪は艶やかでやはりきれいだった。
「ありがとう。君もがんばってくれ。もうすでに十分に活躍しているが、まだまだ上を目指して。僕は研究の道から外れるが、遠くから応援しているよ。」
私は応援半分、悔しさ半分の気持ちでそんなことを言った。
「まだまだ頑張ります。突き進みます。」
市川はそう言って微笑み、私の両手を握ってきた。クールな市川には珍しく、熱の篭った反応だなと思い、うれしかった。手の平には研磨粉が付いていて、少しざらりとした。まだ百二十番手くらいだなと私はそう思った。
*
そういえば、吉田はこんなことも言っていた。
「市川さんはとても優秀な人間ですね。ただ、瀬尾さんは政治家みたいな方かもしれないですね。MCPLで一緒に働いていましたがそんな印象があります。あくまで私の主観ですが。暁烏博士はとても優秀ですがいいようにやられていますね。」
それはどういう意味でしょうかと食いつくと、吉田は珍しくへらへらと苦笑いをして、私が言ったことは忘れてください、あくまで主観的な意見ですので、と付け加えた。アポイントメントを取っていた一時間の打ち合わせ時間が終わると、次の会議がありますのでと言って、吉田は会議室を出ていった。
*
地下深く潜っていった先に何があったと思う?地球にとってほんの表層の薄皮にすぎない百㎞程度の火山の地下に有人で潜っていった。それは人類初めての試み。ゆで卵の殻の一部に穴をあけ柔らかい卵白に手を突っ込み、黄身の柔肌を掴んだかどうかという、そんな試み。結局そこには何があったのだろう。搭乗者五人は何を見たのだろう。
―何があったんですかねえ。さあねえ。薄皮とその下の真皮を剥いでみたら真っ赤な血肉が見えたんだろうかね―
帰り道の電車に揺られながら、私は脳裏で誰かが交わしたかもしれない会話の応酬を妄想した。曖昧な言葉でお茶を濁した吉田、本当は何を言いたかったのだろう。
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