第3話 女性搭乗者

 地下鉄の改札を出て、エスカレーターを延々と上り地上に上がると、とっぷりと日は暮れていた。地上の景色が赤提灯の鈍い明るさで煌々としている中、サラリーマ達が小さな雑居ビルへと吸い込まれていく。私もその中の一人に加わり、八重洲の雑居ビル一階の小さな居酒屋に入った。ここが今日の取材場所である。先客がまだ来ていないことを確認し、店員から案内された二人用のテーブルにつき、焼き鳥の盛り合わせを注文した。焼き鳥がテーブルに届くと、ほぼ同時にインタビューの対象者がやってきたので、私はビールを二杯注文した。

「どうぞ。こちらへ今日は来ていただいてありがとう。」

 対象者の女性は外套を脱ぎ、店員へ渡していた。女性は席に着くと店員が二杯のビールグラスを持ってきたので、私とその女性は静かにビールを飲み始めた。女性と私はテーブルの上の焼き鳥を黙々と食べた。次第に、私が頼んでおいた料理が持ってこられてきた。女性は時折、枝豆を手に取っては口に放り込んだりアボガドのサラダなんかも上手に取り分けて口にレタスと一緒に口に運んでいた。ビールの進みは私よりも早かった。

「第一回目の有人掘削計画の唯一の女性搭乗者であるあなたにお話しを聞く機会を持ててよかった。」

ビールと食事が進み、頃合いを見計らって私はそう切り出した。店内には女性と私の他にも数組の客がいたが、想像していたよりも皆静かに食事をしていたので会話が困難になることはなかった。注文した品がすべてサーブされたタイミングで私はこう切り出した。

暁烏博士への取材を行い、市川に数年ぶりに再会したあの日、瀬尾の席がある研究室には誰も学生がいなかったため私は再度、市川の研究室をノックし、市川から瀬尾のメールアドレスを教えてもらった。瀬尾は有人掘削計画の唯一の女性搭乗者であり、世間からの注目度も非常に高いため、今回の連載の目玉記事であり、十分な紙面を用意しており、入念な取材が必要であると私は考えていた。市川から教えてもらったそのメールアドレスを頼りに瀬尾への取材を取り付けたのは数日前の話である。八重洲のこの居酒屋は瀬尾からの指定された場所だった。瀬尾からのメールの最後には、私でよければいつでも取材に協力しますよと書かれていた。JMEA内では他に上司や同僚もいるため、個人として取材を受けていることを彼らに知られたくなかったのかもしれないと私は勘ぐった。

「他に食べたいものがあれば、言ってよ。追加で注文しますから。貴重なコメントを頂きたいので。」私はそう言い、何か記事になりそうなコメントを期待した。

目の前にいるのは一回り以上年の離れた大学院生であり、さらには第一線で活躍する研究者であり、さらには有人掘削計画の唯一の女性搭乗者である。私はどんな言葉で瀬尾に接したらよいのか決めかねており、私の言葉はぶれた。

「敬語じゃなくていいですよ。普通に話してもらって。」

私の思いを察したかのように瀬尾はニコリと笑ってそう言った。ありがとう。それじゃあ敬語はやめて普通に話すよというと瀬尾は軽く首を縦に振り、手にしていたジョッキを再びグビリとやり、焼き鳥を串から外した。

「こうやっておくと、食べやすいですよね。」そういって瀬尾は微笑んだ。黄色のワンピースが緩やかに揺れている。「ところで今日は何の話をすればいいんですか。」

瀬尾はとても協力的だった。それに世間的にその容姿端麗な様を取りざたされているのが鈍感な私にも認識できるほどに人を引き付ける魅力に溢れていた。しがない独身男性の一人である私としては居酒屋の一室という狭く半分閉ざされたような空間で瀬尾の魅力の影響を避けることはできず、用意していた質問がなかなか口に出てこなかった。

「有人掘削計画でマグマ溜りへエントリーした初めての女性研究者として、MCLR内での過ごし方や、その時の苦労、施設内での実験内容など、一般の方が読んで理解できるような内容で公表可能な範囲で構わないので話してもらっていいかな。あまり難しい話だと私も理解できませんので。。」

私がそう言うと瀬尾は長い髪を背中に回し、ポケットから出したヘアゴムで髪を一まとめにまとめた。髪をいじるのは瀬尾の癖なのかもしれないが、先ほども自らの長い髪をいじっていた。黄色いワンピースの襟と髪の毛の間にある剥き出しの首筋が見えて私はぞくりとしたが、その感情は何とか抑え込んだ。瀬尾の肌は白く、陶磁のようであり、ボーリングケージに守られているとはいえ、とても千二百℃を超えるマグマの中に潜った唯一の女性には見えない程、美しく艶やかだった。

「私がこのプロジェクトに関わり始めた時、すでにMCLPの概要は完成していました。全国で調査された火山の中からモデル火山が選定され最終決定となり、富士山頂にやぐらが建設している時、私は初めてその建築現場へ巡検に行き、ここを研究テーマとすることを決めました。そこはとても異様な光景でした。山頂は酸化して赤茶けた玄武岩だらけで、かつてのお鉢参りのルートでもある火口縁から見た大火口からは中心部に向かって巨大な梁が伸びており、全高百数十メートルのやぐらが立っていました。櫓には建造中の掘削船がまるで吊り上げられたマグロのように吊り下げられていました。それはとても奇妙な景色だったことを今もよく覚えています。あの時はその掘削船に私が乗るなんてことは想像すらできませんでした。当時あの巡検地には私達のような地球科学の学生と工学系の学生が合同で参加していました。分野は違えどその奇妙な景色に共に感動したことを覚えています。その後私は一研究者として計画に加わりました。それは幸せなことで私はとても運がよかったのだと思います。」と謙遜した。

「そんなことはないでしょう。それはあなたの実力のたまものでしょう。大学院生として選抜されたあなたは周囲の研究者達からそれだけの価値を見出されたのでしょう。」

私は即座にそう反応した。そんなことはありません、というようなそぶりで瀬尾は首を横に振った。

「暁烏博士とあなたは地球科学者としては唯一の搭乗者ですが暁烏博士とは長い付き合いなのですか。所属はJMEAの市川博士の学生という立場なのでしょうか。」

「私は市川研の所属ではなく、暁烏博士の直属です。私は学部生の頃からJMEAに出入りしていて、その繋がりで現在の暁烏研に所属し今に至ります。だから暁烏博士とは五年程の付き合いになりますね。」

ふと携帯電話の着信音が聞こえてきて目の前の瀬尾が失礼しますと言って席を立った。瀬尾は以外と話好きで、さらに立ち入った色々と興味深い話を聞けるかもしれないと十年近くの経験で得た私の記者としての直観がそう語っていた。瀬尾が席を空けている間、私は鞄にしのばせてきた文献を取り出し、瀬尾の共著論文を読み始めた。何か瀬尾という人間を読み解くための情報がその論文に書かれているのではないかとそう思ったのだ。

しばらくして瀬尾が帰って来て失礼しましたと小声で言うと席に着いたので、私は再び質問を続けた。

「有人掘削計画のボーリング時に地下に数㎞堀り進んだ所で想定していたよりも早くにマグマ溜まりに接触したということを巷の噂で聴いたことがあったのですが、そのことを知っていますか。搭乗者であるあなたは真実とともにあると私は思っていますので、大変無礼な質問かもしれないのだけれど。」

私は用意していた一番大きな球を投げた。公表されている共著論文にそのことは一つも記述されていない。瀬尾は串から取り外された焼き鳥のかけらを一口頬張り、すぐに答えを教えてくれた。

「それは事実ですよ。公表されていないのですがマグマは想定していたよりも浅所で噴出し、私達に驚きを与えましたが、適切な処置により設備の損害は最小限で押さえられました。ご存じの通り有人掘削計画は成功しマグマ溜り内での観察は想定していた通りに完遂できました。マグマ溜りでの知見は公表されている論文の通りです。成果はこれからも追加で公表される予定です。それと浅所噴出よりも危険な状況が発生したことがありました。それは少しお話しますと掘削船がマグマ溜りの上縁に到達した後、ボーリングケージの縁が剥がれ、数mの岩塊が掘削モジュール上に落下して来たことがありました。ケージ内の落石ですね。これはとても危険でした。他にもいくつか大きなアクシデントはありましたが、ご存じのとおり第一回目の突入計画は無事完遂され、従来推測することでしか得られなかったマグマ溜り内の現状を克明に描き出すことができたといっても過言ではないでしょう。地球全体に迫り来る危機が地球科学を進歩させたのかもしれません。」

瀬尾はやはり想像通りに饒舌に語ってくれた。私は記事にするべき内容を十分に得ることができたと安心し、こんな質問を投げかけた。

「有人掘削船には五人で乗っていたわけですよね。三か月間搭乗していて唯一の女性搭乗者として船内での生活は大変だったのではないですか。」私はにやりと含みを持った表情をして見せたが、瀬尾は笑顔を変えることなく答えた。

「皆さんが想像しているよりも、MCPLの内部は窮屈ではないんです。3rd,4th,5th-mod はサービスモジュールとも呼ばれていて、3rd-modには六つの個室があります。個室は二畳程度でとても狭いのですが小さめの固定ベッドと個人の所有物を保管するための棚が備え付けられています。さらに3rd-modの共有スペースには調理テーブルやトイレ、トレッドミル、シャワースペースがあります。3rd-modの中央部には円筒状の酸素発生装置が設置されています。掘削船には潤沢に潤沢な水が存在します。ボーリング時は設備を急激に冷却しながら地下へ潜っていくため地上から大量の冷却水が連続的に供給され続けており、搭乗者達はその冷却水を浄化し飲料水や生活用水として利用しています。高温では水分がすぐに蒸発してしまうと思うかもしれませんが、マグマ溜まり程の高圧下では水は水蒸気とも水とも異なる超臨界流体となり、それを冷却することで水を得ています。私達が到達したのはそんな高温高圧環境です。5th-modは実験棟でその場で採取した岩石を切断するためのダイヤモンドカッターや、薄片を観察するための光学顕微鏡、X線分析装置、赤外温度計などの様々な分析機器が設置されています。」

「初めて聞くような話を聞くことができてありがとう。くだらないことなんだけど、掘削船の中で唯一の女性として、なにか嫌な思いをしたようなことはなかった?」

私の質問に対し少しむっとしたような表情を見せたような気がしたが瀬尾は淡々と、皆紳士でしたので不愉快な思いをすることはありませんでしたよとつぶやいた。

「下世話な質問で申し訳ない。この発言は忘れて下さい。」

「搭乗者は暁烏博士、機械設備のエキスパートの方達が二人、オイルメジャー企業の技術者である吉田さん、そして私の五人です。三か月間掘削船に搭乗しましたが、特に嫌な思いを感じたことはなかったですね。小さいながらも個室もあったので、プライベート空間を確保することもできました。掘削船内の作業は交代制ですので五人全員で食事をすることはありませんでしたがほとんど誰かとコミュニケーションを取っていたので孤独になることもありませんでした。小さな円形の土間で囲炉裏を囲んでいるような感覚でしたよ。」

再び瀬尾が饒舌に話したので、へそを曲げられずに私はほっと胸をなでおろした。居酒屋の一室で暖気がこもっていたせいもあるかもしれないが、瀬尾はやや酔っ払った様子で頬は赤く上気し、汗ばんだ額には眉上に揃えられた前髪が少し張り付いていた。瀬尾はその汗ばんだ額をそっと花柄のハンカチで拭った。首元のブラウスのボタンが一つ外れてその先に何かが見えたような気がしたが、私の見間違いだっただろう。瀬尾は私のことを無学な一新聞記者として見下しているのかもしれないし、決してそんな感情を持っているわけではないのかもしれないが、それは本人に直接問いたださなければ決して知ることのできないことなのである。ただ私にはそんな野暮な糾弾をするつもりはなかった。私のことを魅力的な新聞記者として認識したからこそ饒舌に話してくれたのかもしれないとそんな馬鹿なことを私は上の空で考えていた。魅力的な女性を前にして舞い上がっているわけではない。私もこの数杯のビールと焼酎で少し酔っているのだろう。ただ悪い気分ではなかった。


         *

私がぼんやりとした妄想に耽った一瞬にちょっとした会話の空白が生まれ、ほろ酔い加減の瀬尾が再びその艶やかな口火を切った。

「さっき、ボーリング時に大きな問題はなかったと言ったのですが、ちょっと嘘をつきました。」

後ろ毛が張り付いた瀬尾のうなじに見惚れていた私は急に頭がひんやりとしたのを感じた。

「掘削計画でトラブルがあったのですか。」

「実は事前に想定していたマグマ溜りの冷却計算の見積もりが外れて、搭乗者がマグマ溜り内に閉じ込められそうになったことがありました。その時点でボーリング深さはすでに地下約二十㎞まで到達していました。マグマ溜りに近づくにつれ岩盤の粘性は低くなり、垂直に掘っていたつもりが斜めに掘削してしまっていたのです。これはある程度事前に想定しており、その水平方向のズレを制御するためのジャイロ設備が掘削船に設置されており、ある程度の調整はできていたのですが想定よりも、大きくボーリングの軸がずれてしまいました。」

「そのような問題が起きていたことも、ボーリング方向を制御するための装置があったことも初耳でした。」

その驚くべき事実に先ほどまでの酔いは一瞬で冷めた。

「公表されている情報ではありませんから初耳だと思います。あれは地下二十㎞位まで掘り進んだ時でした。深い哺乳瓶の底にあるわずかに入ったミルクを目指して、細いストローを使って潜って行った蟻がストローの先端からミルクの中へ飛び込みミルクをたらふく飲んだ後に吸い口へ戻ろうとすると、降りてきたストローの先端を見失ったかのような感覚でした。さらに哺乳瓶のストローがミルクの厚い膜で目詰まりを起こし、元の場所まで戻れなくなったようなものです。」

私はその例え話に不思議な納得感を得ていたが、念のため瀬尾にその内容を確認した。

「ストローが詰まったというのはどういうことですか。ボーリングケージが詰まったのですか。」

「ご想像して頂いている通りです。マグマ溜りに到達することが今回のミッションです。到達後に水平方向にズレが発生しケージングパスから掘削船が外れました。その数日間でケージング端の冷却が想定よりも早まり、マグマの粘性が極端に高くなったのです。そして元のケージングパスに戻ってきたとしても、その中にはもう入れなくなってしまったということです。地下二十㎞に生き埋めか、それとも耐熱壁が耐え切れずに搭乗者もろとも溶融し、一瞬にして炭素と酸素に分解されるかという状況になりました。ただこのことは記事にはしないでください。JMEA内でもこの事は一部の人間しか知らないことなのです。」

 そう言って瀬尾は私の目をじっと見つめた。極めて予想精度が高くなり一般人からの信頼を勝ち取った天気予報でさえ外れることは多々ある。マグマ溜りの冷却の見積もりは天気よりもさらにファクターが多い複雑系で予想することはさらに難しかったのだろう。 暁烏博士の言ったようにIn situのマグマ溜り観察なんて二十年前には考えられなかったことで、今回のような隠れたトラブルはやはり起こっていたのだ。先ほどまでの冷め切った体が再び上気していくのがわかった。

「この情報の取扱いについては再度ご相談させて頂きたい。一新聞記者として私だけの心に留めておくには望外な事実ですので。」

瀬尾は私の話を俯いて聞いていたようだが開示可否の反応は示さなかった。瀬尾は手鞄の中身を確認する仕草をして、それではそろそろ帰りの電車の時間もありますのでと言って席を立とうとした。

「最後に一つ質問させてください。瀬尾さんの研究実績が優秀だったというのは紛れもない事実であることはわかっているのですが、あなたがMCPLの搭乗者に選ばれた最大の理由は何だとあなた自身はお考えですか。」

研究成果以外の理由はないと思います、ただ、私は運がよかったのかもしれませんと瀬尾はそっけなく答えた。瀬尾の手にはすでに薄黄色の長財布が握られている。

「ありがとう。今日はとても興味深い話を聞くことができました。今日の取材内容をまとめた記事の発表方法は追ってご相談させてください。」

瀬尾が居酒屋を去ってからしばらく呆然と同じ席に座ってテーブルの上の枝豆をつまんでいたが、私は大スクープと一抹の疑問を抱えて自宅へ戻ることにした。八重洲の夜は深い。ブックセンターにでもよって帰ろうかなと、ぼんやりと頭の片隅に思いを忍ばせながら、二人分の会計を済ませた。

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