第10章 アズサの才能

 村営ホテルのフロントで、黒メガネの主任が苦々しい顔をしている。


「えぇぇー!ニュージャージぃー?」


 主任の向かいに、すまなそうな顔でアズサとタカシが立っている。その後ろに、興味深そうな顔のエルデシュとアニューカが立っている。アズサがすまなそうに、


「えぇ、ニュージャージー。エルデシュ先生の資産を管理しているのがロンて人で、その人も世界的権威らしいんだけど、その人に電話してお金送ってもらわないといけないんですって」


 主任が苦々しい顔で応じる。


「その人がベル研究所にいて、それがアメリカのニュージャージーにあるのね?」


 アズサがとびきりの可愛い笑顔になって、うなづく。主任、ちょっと相好を崩す。


「でもさー、いくらかかんのよー。しかも、ニュージャージからお金到着しないと電話代金もらえないんだろー」


 アズサが主任を拝む。


「お願いします。お願いします。アレだったら、うちの父に前払いさせます」


 主任がエルデシュを苦々しく見る。


「だってさー、こんなみすぼらしいじーさんにさー」


 アズサが覚悟を決めたような顔になって、両手を下ろす。


「ここで電話させてくれないと、あとで主任が怒られますよ」


 主任が少しドギマギする。


「えっ?なんでボクが?」


 アズサが主任の方を向きながら、アズサの後ろに立っているエルデシュを指さす。差した位置がちょっとズレているので、エルデシュはアズサの差しているところに動く。


「このおじいちゃまはね、20世紀最高の数学的頭脳の一人なの。プリンストン研究所でアインシュタインとも机を並べて研究したの」


 主任が驚いてエルデシュを見る。


「ア、ア、アインシュタイン!」


 主任に見られて、エルデシュが小さく手を振る。アズサが続ける。


「プリンストン研究所はね、世界で最も優れた研究機関よ。原爆を作ったフォンノイマンやオッペンハイマーもいたのよ」


 主任がまた驚いて、またエルデシュを見る。エルデシュが主任に小さく手を振る。


「えぇー?このみすぼらしいじーさんがぁ?ほんとかい?」


 アズサ、エルデシュを見る。


「パスポート出して」


 エルデシュが素直に胸のポケットからパスポートを出してアズサに渡す。


「あのね、ハンガリーがね、このおじいちゃまの母国ハンガリーがね、このおじちゃまだけが使える特別なパスポートを出してるのよ。それがこれ!」


 アズサがパスポートを一枚めくって主任の目の前に掲げる。パスポートに貼ってあるエルデシュの写真が笑っている。


「よく読んでみて。これはね、戦争があっても革命が起こっても、このおじいちゃまがハンガリーに入国できるようにって、ハンガリー政府が特別に発行したパスポートなのよ。なぜだかわかる?」


 主任が首をふる。アズサの声が大きくなる。


「このおじいちゃまがハンガリーの財産だからよー!このおじいちゃまの頭脳は、ハンガリーが世界に誇る財産なのよー!」


 アズサの勢いに押されて、主任は何回もうなづく。


「わかる?エライのよ。すごーくエライ人なの。だから、いつ帰るかわかんないけど、帰る時は安曇村村長や松本市長を表敬訪問するわよ。安曇村や松本市が招待するわよ。きっと。その時「村営ホテルの主任にエライ目にあわされた」なーんて言われたら、主任困るでしょー!」


 主任、目を見開いて何回もうなづく。横に立っているタカシが小声でつぶやく。


「さすがだ。アズサ君、さすがだ」



 村営ホテルの小さな電話室でエルデシュが電話をしている。



 河童橋が夏の日差しに映えている。穂高岳も美しい。河童橋の見えるベンチに、アズサ、タカシ、エルデシュ、アニューカが横並びで座っている。エルデシュが話している。


「ロンからお金が届くまで2~3週間かかるみたいだから、それまでここにいるよ。ここは避暑にいい。ねぇ、アニューカ」


 アニューカが満面の笑みでうなづく。アズサが心配そうな顔になる。


「それは楽しそうでいいけど、部屋空いてるかなー。この時期、どこも満杯だし、村営ホテルの部屋も新しいアルバイトがきたらふさがっちゃうし、、、」



 村営ホテルのフロントで、黒メガネの主任が苦々しい顔をしている。


「えー!そりゃー、無理だよー」


 主任の向かいに、すまなそうな顔でアズサとタカシが立っている。その後ろに、興味深そうな顔のエルデシュとアニューカが立っている。アズサが可愛い顔をしてみる。主任が人差し指を左右に振る。


「ダメダメダメ。可愛い顔してもダメ。可愛いけど、いくらアズサ君の頼みでも、これは無理」


 アズサとタカシとエルデシュとアニューカがみんな悲しい顔になる。それを見て主任も困る。


「うーん、あ、あのさ、松本電鉄さんがさ、夏の間二部屋おさえてるんだよ。運転手さんとバスガイドさん用に。それ譲ってもらえるように頼んでみれば?」


 みんなの顔がパッと明るくなった。



 バスセンターの食堂で、ジローがカレーを食べながら言う。


「えー!そりゃ、俺たちじゃどーにもできないなー」


 ジローの横に座ってカレーを食べているマイコも同意する。


「そーねー。力にはなりたいけど、総務の話なのかなー?」


 二人の向かいにエルデシュとアニューカが座り、その後ろにアズサとタカシが立っている。みんな一斉に悲しそうな顔をする。ジローがそれを見て言葉をしぼりだす。


「うーん、社長に頼んでみれば?俺たちも口添えするから。さっき釜トンネルのあっちで作業してたから、もうすぐ昼メシ食いにここに来るよ」


 マイコが同意する。


「ジローさん、それいい案。話も早いし」


 アズサが質問する。


「なんで松電さんの社長さんが釜トンネルの向こうで作業してるの?」


 マイコが不思議そうに答える。


「なんでって、当たり前でしょ。忙しいからよ。道の点検とか整備とか。毎日こーんなにお客さん来るんだもん。夏はいつも松電社員総出なのよ。社長も専務も部長も。松電本社は、夏の間空っぽよ」


 ジローが食堂の入口を見て手をあげる。


「あー、来た来た、しゃちょー!しゃちょー!」



 松電社長が座って腕組みをして考えている。松電社長の前に食堂のおばちゃんがカレーを置く。よこに座っているジローが言う。


「しゃちょー、一肌脱いであげてよ。せっかく世界的な人が上高地に来てるんだからさ」


 社長が「うーん」とうなる。向かいに立っているアズサが、横に立ってカレーを食べているマイコに話かける。


「ジローさんて、ちょっとトッポイの?社長さんに向かって気安くない?」


 マイコが笑う。


「トッポくないわよ。エライのよ。だってジローさん「山の運転手」だもん」


 アズサがつぶやく。


「山の運転手?」


 マイコがうなづく。


「松電には「町の運転手」と「山の運転手」がいてね、「山の運転手」は運転技能が特別高い人だけがなれるの。だから社長が直接面接して決定するの」


 アズサが驚く。


「へー。ジローさん、エライんだー」


 マイコがうなづく。


「それに、ジローさんは満州の戦車部隊で、社長は満州の自動車部隊だったから、気が合うみたい」


 社長がまた「うーん」とうなってから話出す。


「やっぱダメだ。申し訳ないけど。ジローさん、会社はさ、あんたたち山の運転手やバスガイドのご苦労をねぎらうために部屋を用意してるわけよ。だからさ、オレはうんとは言えないよ。世界的な人が上高地に来ていただいてうれしいけどさ、だけどさ、オレはジローさん達を大事にする義務があるじゃない。それが社長の役目でしょ?」


 沈黙が流れる。アズサがエルデシュとアニューカに翻訳して伝えている。すると、ジローの後ろに立っているタカシが急に声を上げる。


「この前の戦争で悪の枢軸国から文明が救われたのは、そちらにお座りのエルデシュ博士の予想がキッカケだったんです」


 みんな、同じように「え?」という顔をしてタカシを見る。タカシは続ける。


「大西洋でナチスドイツのUボートが華々しく活躍し、米国から欧州に送られる重要な物資がことごとく沈められていました。沈められた船舶は3千隻を上回ると言われています」


 みんな、同じように「なにが?」という顔をしてタカシを見る。タカシは続ける。


「それを止めたのは、ナチスドイツの暗号機「エニグマ」を解読できたからです。エニグマ解読に不可欠な糸口を提供したのはウィリアム・トゥッテという英国の数学者で、彼が公に才能を認められたのは、この」


 と言って、タカシはエルデシュを手のひらで指す。


「このエルデシュ博士の予想の誤りを証明した研究でした」


 みんな、同じように「なに言ってんの?」という顔をしてエルデシュを見る。エルデシュはみんなに小さく手を振る。



 小梨平キャンプ場の中をアズサとタカシが歩いている。アズサが笑っている。


「でもさ、効かなかったねー。あなたの演説」


 タカシが苦笑する。


「効かなかったかな?」


 アズサが笑顔で言う。


「うん。ひとっつも。「予想の誤りを証明した」なんて何だかよくわかんないし、、、」


 タカシが苦笑する。


「ははは。アズサくんのマネをしてみたんだけど、イマイチだったかな。ま、いいよ。ボクが部屋明け渡してキャンプ場で寝れば、一件落着」


 小梨平食堂の前に来た。タカシが食堂のドアをあけて挨拶する。


「ミドリさん、すいません、お世話になります」


 30代くらいの女性が出てきて、ブスッと向こうを指さす。


「あそこの裏の明神方向のはじっこでキャンプしてね。この忙しい時期、お客さんたくさん来るから、邪魔にならないように」


 タカシが明るく「ありがとうございまーす」と言って、出てくる。アズサが心配する。


「だいじょぶなの?ずいぶん愛想のない人だったけど、、、」


 タカシが笑う。


「そうかな?ミドリさんはお客さんには明るく笑顔で人気あるんだけど、普段はあんな感じなんだよ」



 安曇野村村営ホテルの上にキレイに月が出ている。ホテルも従業員寮も月に照らされている。寮の1階の一番ハジの窓から、エルデシュとアニューカが月を見ている。

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