第9章 エルデシュの正体

 目白のアズサの家の黒電話の前におとーさんが立って電話している。


「おー、元気でやってるかー。そーか、そーか。おかーさんさんから言付け聞いてな、うん、調べてもらったよ。その先生な、ポール・エルデシュっていうお名前だそうだよ。確かに世界的権威だ。湯川秀樹先生も在籍したプリンストン研究所でアインシュタインと机を並べたこともあるそうだよ」


 村営ホテルの小さな電話室で、アズサが仰天している。


「あ、あ、あ、アインシュタイ~ン!!」


 目白のアズサの家の黒電話の前におとーさんが立って電話している。


「いい機会だから、その先生に色々話を聞くんだぞ。いつも言ってるけどな、どんな分野でもエライ人ってのはエラくなった理由があるんだから、迷惑にならない範囲でなるべく話を聞くんだぞ。それがおまえの人生の財産になるからな」



 村営ホテルの上にキレイに月が出ている。ホテルも従業員寮も月に照らされている。寮の1階の一番ハジの窓から、エルデシュとアニューカが月を見ている。


 次の朝は晴れた。河童橋から穂高岳がよく見えて美しい。


 アズサが寮のベッドで気持ち良さそうに寝ている。ドンドン、ドンドンとドアを叩く音がする。何回も何回も続く。アズサが目をあける。めんどくさそうに起き上がってドアをあけると、タカシが立っている。


「アズサくん、ごめん。ちょっとお願いがあるんだ」


 アズサが半開きの目で言う。


「なんですか?今日、あたし、午後番だから10時まで寝る予定なんですけど。楽しく。スヤスヤと」


 タカシ、満面の笑み。


「今日、休みにしといたよ」


 アズサ、髪をポリポリかく。


「誰が?」


 タカシ、満面の笑み。


「ボクが。アルバイト長のボクが、アズサ君のシフトを変えといた」


 アズサ、髪をポリポリかく。


「なんで?」


 タカシ、満面の笑み。


「今日、付き合って。エルデシュ先生と話しなきゃいけないから」


 アズサが大きなアクビをする。


「なんで、あたしが付き合わなきゃいけないの?」


 タカシ、満面の笑み。


「だって、先生にはアニューカがいるからさ。ボクにも援軍がいないと」


 アズサ、髪をポリポリかきながらタカシを見ている。タカシ、満面の笑みで拝み出す。


「お礼はするよ。カレー以外に。だから、頼む。頼むよ」


 アズサ、少し考えてニヤリと笑う。


「じゃ、本ちょーだい」


 タカシ、拝みながら、


「何の本?」


 アズサ、ニヤニヤしながら、


「あなたの本。サイン入りで」


 タカシ、拝みながら固まる。


「うーん、そーれはちょっとー、恥ずかしいなぁー」


 アズサ、髪をポリポリかいて、アクビをしながら部屋の中に戻ろうとする。タカシが袖を持って引き留める。


「わかった。わかった。あげる。あげる。でも、手元にないんだ。送ってもらうから、ちょっと時間ちょうだい」


 アズサがニヤッと笑う。



 朝靄に包まれた上高地バスセンター。新島々や薮原や木曽福島から続々とバスが到着して、どんどん人が降りてくる。みんな、バスセンターの食堂の前を通り過ぎる。

 食堂の一番奥のテーブルに、アズサ、タカシ、エルデシュ、アニューカが座っている。みんなモーニングを食べている。エルデシュがパンを食べながら外を眺める。


「ずいぶん朝から混むんだねー」


 アズサもパンを食べている。


「お昼にかけて、もっと混むよ。夏だけで40万人も来るんだって」


 エルデシュが驚く。


「へー。こんな人がいる避暑地、はじめて見たよ」


 エルデシュがアニューカにハンガリー語で話しかける。二人が興味深そうに食堂の外を通り過ぎる人々をながめている。タカシが急に話し出す。


「父が急に亡くなりまして、、、」


 エルデシュとアニューカがタカシに目を移す。タカシが続ける。


「それで、大学を続けるのが困難になりました」


 エルデシュが答える。


「そうか、そうか。ボクに相談してくれればよかったのに、、、」



 そこへ、シゲルがノッシノッシとやってきた。


「タカシくん」


 タカシが驚く。


「あ、シゲルさん、どうしたんですか?滑落かなんかあったんですか?」


 シゲルが首を振る。


「あのさ、そこのお二人はバスが到着する前に河童橋あたりを散歩してなかったかな?」


 アズサが答える。


「歩いてましたよ。朝食前のお散歩で」


 シゲルが苦笑する。タカシが立ち上がって席を譲る。シゲルは苦笑しながら、一礼して譲られた席に座る。


「いやさ、さっきさ、連絡があったのさ。バスの到着前に見知らぬ外国人の男女が河童橋を歩いてたって。心中者じゃないかって」


 アズサが笑いながら通訳すると、エルデシュとアニューカが声を出して笑う。シゲルも笑う。


「いや、心中者ってなるとさ、オレが話を聞いて説得することになってるのさ。だから探しに来たんだけど、、、」


 タカシが恐縮している。


「すいません。この方、ボクの先生でポール・エルデシュ博士です。そちらはお母さんのアニューカです。ハンガリー語で「お母さん」ていう意味です」


 シゲルが笑いながら二人に手をあげて挨拶する。エルデシュとアニューカも笑って手をあげて挨拶する。シゲルがタカシに尋ねる。


「タカシ君の先生て、何の先生?そいれば、タカシ君て何やってたの?」


 アズサが身を乗り出して、秘密を教えるように、


「それがシゲルさん、エルデシュ博士は数論の世界的権威なんですって」


 シゲルがポカンとする。


「スーロン?何それ?」


 アズサが悲しそうな顔をする。


「わかんないの。アタシたちみたいな普通の者どもにはわかんないの。しかも、タカシさん、その世界的権威と本を出してるんですって。16歳の時に!16歳よ!」


 シゲル、止まる。エルデシュとアニューカがコーヒーをすする。シゲル、大きく息を吐く。


「あー、ビックリした。あんまりビックリして息が止まっちゃったよ」


 アズサが笑う。


「でしょ?でしょ?タカシさんが天才だなんてねー」


 タカシ、照れる。シゲル、ビックリした顔でタカシを見ている。


「いやー、なんか色々聞きたいとこだけど、何聞いたらいいのかわかんないよぉ」


 向こうからシゲル呼ぶ声がする。


「あ。森村巡査が呼んでる。じゃ、失礼するけど、すごいなー。タカシ君天才だったのかぁ。だーからいつもボーッとしてるんだなぁ」


 首を振りながらシゲルが去って行く。

 みんなコーヒーを一口飲む。

 タカシが話題を再開する。


「手紙はお出ししたんです。ハンガリーの方に」


 エルデシュが「しまった」という顔をする。


「あー、それはすまなかった。ハンガリーは引き払ったんだ。政情が不安定だから。ベル研究所のロンのところに連絡先変えたんだよ」


 タカシが続ける。


「それで、どうしたらいいかわからなくなって、とりあえず静かな山の中でも行ってお金でも貯めようと思いまして、、、」


 エルデシュとアニューカがうなづく。


「数学はしていたの?」


 タカシがうなづく。


「あとで証明を見てください」


 エルデシュが明るい顔でうなづく。


「それは、よかった。数学を続けているなら、あとは何とかなるよ。ボクが何とかするべきだよね?アニューカ?」


 アニューカが深くうなづく。

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