第7章 ポール・エルデシュが上高地に来たら

 昭和42年の夏休みが始まった。

 昼時の上高地バスセンターには、「ここは新宿駅か?」ってほどのたくさんの人がいる。リュックを背負った男だけのグループ、夏服を着た男女のグループ、老人の夫婦、孫数人を連れた大家族等々たくさんの種類の人で賑わっている。


 それを、バスセンターの食堂から、ナオミとバイト仲間の青年2人が座って見ている。ナオミが言う。


「やっぱ、夏休みに入ると混むねー。これから大変だ」


 青年が嘆く。


「忙しくなるんなら、もうちょっとメシうまくなんないのかなー」


「ほんとだよなー。バスセンターの食堂の方が全然ウマいって、どーゆーことだよ」


 ナオミがふと外を見ると、アズサがバスセンターに立っている。村営ホテルのノボリを持っている。


「あ、アズサちゃんだ」


 青年も見る。


「あの娘、バイト同士の話にあんま入ってこないよね」


「イカしてるよな。こんな山の中に、あんなイカした子がいるとは思わなかった」


 ナオミが言う。


「そうよ。アズサちゃんはあんた達みたいなジャガイモの相手はしないの」


 青年二人が笑う。



 ノボリを持って立っているアズサの前に、松本電鉄バスが止まる。ドアが開いてマイコが降りてくる。運転席からジローが手を振っている。アズサは満面の笑みで手を振り返す。マイコのうしろから、たくさんのお客さんが降りてきて、全て見送ったあと、マイコが言う。


「いやー、夏休みは忙しいねー。しかも釜トンネルにさー、まーた自家用車止まっちゃってて、大変よー」


 アズサがビックリする。


「えー!、まーた止まってるのー?どーりでイギリスからの団体さん来ないわけだ」

 マイコが尋ねる。


「いつ到着の予定?」


「12時半」


 マイコが自分の腕時計を見る。


「もう30分くらいかかるかも」


「はぁー。あと30分立ってるのかー。どーしようかな。一度帰ろうかな」


「食事まだでしょ?一緒に食事しようよ」



 バスセンターの食堂にアズサとジローが並んで座っている。その向かいにマイコが座っている。3人の前に水が置いてある。アズサが目を細めてマイコを見る。


「マイコさん、タカシさん情報を仕入れましたよ」


 マイコが興味深そうに言う。


「なになに?教えて教えて」


 アズサが満足げに言う。


「タカシさん、難しぃーことが専門なんだって。普通の人にはよくわかんない難しいこと」


 ウェイトレスがカツカレーを3つ持ってくる。マイコが受けとりながらアズサに言う。


「具体的には何よ?」


 アズサがカツカレーを受けとりながら苦笑する。


「わかんない」


 マイコが笑う。


「なによ、その、足の小指がかゆくてしょーがないけど、かけないようなビミョーに不快な答えは」


 ジローがカレーを食べながら同意する。


「うまいこと言うね。オレもかゆい」


 急にマイコの隣にコーヒーカップを持ったタカシが座る。


「やー、みなさん、ごきげんよう」


 3人ビックリする。マイコの頬が少し赤くなる。アズサが目を細めてニヤニヤしながら言う。


「あー、タカシすわーん、いまタカシすわんの話してたとこなんれすよー」


 タカシが興味なさげに別の話題を尋ねる。


「バス、遅れてるの?」


 マイコが楽しそうに答える。


「あたしたち40分くらい遅れた。釜トンネルの中で、まーた自家用車止まっちゃったの」


 タカシがうなづく。


「だーから、ぼくのフランスからの団体さんもなかなか来ないんだなー」


 アズサがスプーンを振りながら尋ねる。


「タカシさん、タカシさん、難しい専門ってなに?マイコさんが知りたいんだって」


 タカシがマイコを見る。マイコ、スプーンを振ってドギマギする。


「な、な、なによ、もー、アズサったら、、、」


 タカシが真横からマイコを睨んでいる。マイコはなんだかドギマギしている。アズサとジローが目を細めてニヤニヤ見ている。タカシがマイコの耳元でささやくように言う。


「数論」


 アズサとマイコとジローが同時に首を少しかしげる。そのままタカシを見て10秒くらい止まる。タカシ苦笑。


「そうなんだ。みんなポカンとするんだ。だからあんまり言わないんだ。説明するのも難しいし」


 気を取り直したようにマイコが尋ねる。


「アズサ、スーロンって知ってるの?」


 アズサがキッパリと言う。


「知らない」


 ジローが胸をなでおろす。


「よかった。日本で一番頭良い女子大に行ってる人が知らないんだから、オレが知らないのも当然だな」


 タカシを外を見る。


「あ!ユニオンジャックつけたバスきた。アズサくんの団体さんじゃない?」


 アズサが心からブーたれる。


「えぇぇー。まーたカツカレー食べられなーい。せっかくのカツカレー」


 マイコが笑う。


「今度あたしがオゴッたげるから、さぁ仕事、仕事」


 アズサが立ち上がって、少し涙目でマイコに近づいてくる。


「ほんとよ。食べさせてよ。あたし、がんばってタカシさんの情報収集するから」


 タカシが苦笑する。


「タカシさんも聞いてるんだけど、、、」


 アズサがカツカレーを見ながら外に出て行く。



 食堂から、マイコとジローとタカシがカツカレーを食べながらバスセンターでイギリスからの団体を迎えるアズサを見ている。バスから降りてくる一人一人にアズサが挨拶をしている。


 最後に、メガネをかけて頭がモジャモジャのおじさんが、太った目鼻立ちのととのったおばあさんの手を引いて降りてきた。その人を見て、バスセンターの食堂にいるタカシが急に立ち上がって、小走りに走り出る。マイコとジローがビックリしながらタカシを見送る。


 食堂から、マイコとジローがカツカレーを食べながらバスセンターを見ている。


 メガネをかけて頭がモジャモジャのおじさんがアズサに訛った英語で尋ねている。


「ここにタカシュがいるはずなんだが、知らないかね?」


 アズサが答えに困る。


「タカシュ?」


 食堂から走り出てきたタカシが叫ぶ。


「エルディシュ先生!」


 アズサはビックリしてタカシを見る。エルディシュもタカシを見てほほえむ。


「タカシュ、きみはこんな山の中で何をしているんだ?」

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