第2章 上高地への道
当時の上高地への道は、今とは比べ物にならないスゴイ道でね、まずバスがさ、ボンネットバスなの。見たことある?日本では昭和59年頃に運行されなくなったんだけど、非力で、乗り心地の悪い、むかーしのバスね。
バスにはバスガイドが乗ってる。一番前に立って、マイクで車内に向けて話してる。当時バスガイドは、新しい仕事で人気が高かった。特に、当時女性にはあまりちゃんとした仕事がなかったんだ。男尊女卑が色濃く残る世界だったから。だから、特に新しい仕事のバスガイドは人気が高くて、どこでも応募が多かった。そして松本市の妙齢の女性たちから選抜されたんだろうね、このバスに乗ってるバスガイドも背の高いスラッとしていて格好がいい。
バスガイドが話終わり、バスの一番前の良い席に座って拍手を送っているアズサの横に座る。
「お嬢さんは、どちらから?」
「東京の目白です」
バスガイドが少し微笑みながらアズサを見据える。
「そう。都会の人なのね。上高地は初めて?」
見据えられるので、アズサは作り笑いを浮かべる。
「えぇ」
バスガイドが微笑んだまま、少し低い声になる。
「この先、東京では味わえない大変な道になるけど、気をしっかり持ってね」
「きっ、気を!?」
アズサは言った途端、バスがボコボコ、たいそう揺れ始めた。バスガイドは、微笑みを崩さない。
「いま、丸太を敷いた上を走ってるの」
マイコは「うげ」という顔になる。
「ま、まるた!?」
そう。丸太。当時は観光地でも道が舗装されてないのが普通だったから。
舗装されてない道ってのは、大雨や雪解けの時、土が流されちゃってすごいデコボコになるんだ。だから、上高地に向かう最寄り駅「新島々」から、所々丸太が敷いてあった。
ボンネットバスは、深いV字峡の崖の途中に引っかかったように作られている道を進んでいく。
バスの中で、アズサが窓枠につかまって、おびえたように、前方から見える、はるか下に見える梓川を見ているので、バスガイドが笑う。
「だいじょーぶよ。そんなになんなくても。これでも国のダム工事のおかげで2車線になったよの。それに、わが松電バスの上高地線は死亡事故起こしたことないから」
アズサがおびえたように尋ねる。
「あ、あの川に落ちたことないの?」
バスガイドが笑いながら言う。
「ないわよー。お客さん乗せないで落ちたことはあるらしいけど」
アズサが一層強く窓枠にしがみつく。バスガイドがケラケラ笑う。
新島々駅から1時間ほど走ると「奈川渡」っていう分岐路に出るんだけど、ここから上高地に向かう道が、一段とスゴイ道だった。そもそも観光用の道路じゃなくて、水力発電の資材を運ぶための道だから、質実剛健なわけよ。ガツガツ、タックルしてくるラグビー部みたいな道。
今はもう奈川渡一帯はダムになっちゃったから、何もかも立派になったんだけど、当時は、川のほとりにバスが一台やっと通れるようなハイキングコースみたいなのがあって、しかも両側に崖が切り立ってた。聞いただけで、なかなかスリル満点の道でしょ?
バスがその分岐路で止まっている。アズサがしげしげと回りを見渡している。
「こ、これは、鎌倉で見た「切り通し」そのまま。鎌倉時代に作られたという」
バスガイドが笑う。
「ははは。それ知らないけど、鎌倉時代に作られた感じではあるわね」
アズサが真顔で尋ねる。
「こ、ここを通って行くのですか?」
バスガイドが微笑む。
「そうです。行くのです。気をしっかり持つのです」
ボンネットバスがゆっくり走り始める。揺れる。ものすごく揺れる。バスが落とす石が、すぐ横に流れている梓川に落ちる。
アズサが窓枠につかまりながら川を凝視している。
「これは、道を走ってるというより、川を走ってるような。。。」
そんな道を、慎重に慎重に進んでいく。
ボンネットバスが川のほとりに止まっている。向こう側に、もう一台ボンネットバスが正対して止まっている。道幅は、バス1台ちょっと分。バス車内で心配そうな顔のアズサ。
「行き違えるの?」
バスガイドが軽く答える。
「違えないよ」
アズサ、ビックリして息をのむ。バスガイドが悪そうに微笑む。
「ま、見てなよ。東京の人にはスリル満点だから」
向こう側のボンネットバスがバックを始めて、ちょっとした凹みのようなところに入る。アズサがビックリする。
「え?あれで待避したってこと?」
バスガイドが悪そうに微笑む。
「そだよ。お楽しみはこれからよ」
アズサの乗っているボンネットバスが少しずつ少しずつ進んで、すれ違いを始める。あちらのバスとこちらのバスの間がものすごく近く、あちらのバスに乗っている乗客の恐怖の表情がありありと見える。
窓枠に力強くつかまっているアズサが一段と恐怖の表情になる。「コトコトコト」という音がして、そのうち「カラカラカラ」という音がしてきた。
「おねーさん、おねーさん、なに?あの音?なに?」
バスガイドも少し恐怖を覚えているのか、前方を凝視しながら流し目でアズサを見る。
「うしろの車輪が宙に浮いてるの」
アズサは目を寄せて小さく叫ぶ。
「でぇー」
「カラカラカラ」という音が続いている。
当時、新島々から上高地まで2時間半以上もかかった。そんな長い道中だったから、途中の沢登で一回休憩があった。
沢渡の休憩所に、上を向いてアズサが座っている。グロッキーの様子。バスガイドが瓶のコーラを持ってやってくる。
「あれ?だいぶこたえた?」
アズサが黙ってうなづいてコーラを引ったくり、グビグビ飲む。バスガイドが笑う。
「でも、エライよー。こんな山奥まで。女一人旅で」
アズサがコーラをグビグビ飲んで、「ふぅー」という顔をする。
「うぅん、旅じゃないの。アルバイトに来たの。げふ」
バスガイド、アズサを指さす。
「あぁー、あなたが村営ホテルの新しいアルバイトの子。このまえタカシくんが言ってたわ。日本で一番頭のいい女子大の英語の出来る才媛がくるんだって」
アズサ、照れる。
「才媛だなんて」
バスガイドがしげしげとアズサを見ている。
「でも、みんなで想像してた人物像とずいぶん違うわー」
アズサ、照れる。
「どんな人物像?」
バスガイド、やっぱりしげしげとアズサを見ている。
「メガネかけててね、化粧っ気なくて、髪が長くて後ろで束ねてるの。ひとっつも当たってないね。ははは」
アズサ、愛想笑い。バスガイド、まだしげしげと眺めている。
「あたしマイコ。よろしくね。あなたアズサさんでしょ?」
そこに、バスの運転手のジローが通りがかる。マイコが声をかける。
「あ、ジローさん、この人、この人よ、ほら、このまえ話してた村営ホテルにアルバイトに来る才媛」
ジロー、ビックリしながらしげしげとアズサを見る。
「あぁー、タカシ君が言ってた人?なんだ、ずいぶん美人なんだな」
アズサ、満面の笑み。
「そんなー、おじさまこそ『男と女』のジャン・ルイ・トラティニャンみたいでしたよ」
ジローがキョトンとしてマイコを見る。
「誰だ?それ?」
マイコが笑う。
「ステキなドライバーってことよ」
アズサが満面の笑みで尋ねる。
「おじさま、お疲れでしょ?運転大変だったから。コーラお飲みになる?」
ジローの運転するボンネットバスが、釜トンネルの手前で止まっている。運転席でジローが瓶のコーラを飲んでいる。
「いやー、不思議な味だなぁ。若いもんはよく飲んでるけど、これ美味いの?アズサちゃん?」
一番前の席にマイコと並んで座っているアズサが答える。
「うーん、美味しいっていうか、なんだろうな、また欲しくなるっていか」
前方を注視していたマイコが声をあげる。
「あ、ジローさん、行けるって」
ジローが前を見てボンネットバスを発進し、釜トンネルに入っていく。マイコが立ち上がってマイクで話し始める。
「ただいま、前進してよいとの合図がありましたので、釜トンネルを通り抜けます。このトンネルは、上高地への最後の関門であります。このすぐ先に思いのほか急峻な坂が待っており、8月のハイシーズンになりますと、力の無い乗用車が坂を登れなくなって渋滞を引き起こすこともシバシバです」
そう。今は自家用車は進入禁止だけど、当時は上高地バスセンターの横の駐車場まで入っていけた。
アズサが外を見ると「勾配15%」と記した看板が見える。ボンネットバスがすごい音を立てて進んでいる。
数分して釜トンネルの出口が見える。光が湧き出るようにボンネットバスを包むと、全面の展望が上高地に変わる。アズサが感嘆する。
「うわー、別世界だぁ。キレイだなぁ」
マイコが同意する。
「ほんとねー。あたしなんか毎日来てるのに、毎日キレイだと思うもんねー」
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