第3章 上司タカシ

 と、まぁ、アズサはそんな道のりを越えて、上高地バスセンターにたどりついた。

 ボンネットバスが上高地バスセンターに止まる。ドアが開いて、アズサとマイコが降りてくる。どんどんお客さんが降りてきて、マイコがお見送りをしている。みんな降りたところで、アズサがマイコに声をかける。


「マイコさん、ジローさん、いろいろありがとうございました。助かりました」


 ジローが運転席から声をあげる。


「なんか困ったことあったら言いなよー。俺たち上高地専門で、毎日往復してるから」


 アズサが黙礼する。マイコが指さす。


「あ、いたいた。あれがタカシくん」


 マイコがタカシに手を振る。タカシがボンヤリと近づいてくる。「安曇村村営ホテル」と記されたノボリを持っている。マイコがアズサの手を引いてタカシに近づく。


「はい。タカシくん。この娘がお待ちかねのアズサちゃんよ。やさしくしてあげてね」


 マイコが好意に満ちた笑顔を向けると、タカシはボンヤリと目だけを向ける。アズサは、18歳とは思えない堂に入った愛想笑いを浮かべながら、一礼する。


「はじめまして。アズサです。よろしくお引き回しください」


 タカシが目をパチクリさせる。


「お、お、お引き回し??」



 晴れた日の、上高地バスセンターから河童橋に向かう時に見える穂高岳は、今も昔もうつくしい。雄大で清澄な穂高岳が迫ってくる。アズサは、思い描いた穂高岳を眼前にして、感嘆のあまり思ったことを口に出した。


「いやぁー、美しいねー」


 タカシは、ボンヤリと歩きながら、興味なさそうに「うん」とだけ、うなづいた。アズサの鼻の下が少し伸びた。ひとっつも話は盛り上がらない。


 いるよね。こーゆー男。なんだろうね?


 ま、タカシの場合は、話したくないわけじゃなくて、アズサに圧倒されてるんだ。


 日本で一番頭の良い女子大出た、英語のできる才媛が来るっていうから、みんなで想像したところ、あんまりしっとりしてない、「ぎひひひ」って笑うような女の子だろうと思ってたら、アズサみないたソツのないいい女があらわれて、しかもアズサは、当時の日本人女性としては珍しくオッパイも大きいし、そんな娘を前にすると、当時の男性は固まっちゃう人が多かったんだわ。


『男はつらいよ』って映画あるでしょ?昭和の国民的映画シリーズ。主人公の車寅次郎が、美しいマドンナに惚れては、カッコつけたり、ドジったりして、失恋するってのがおなじみの流れなんだけど、あの車寅次郎って、当時の男性のデフォルメなんだよ。いや、ほんとに。


 たぶん、教育がね、イビツだったからじゃないかな。だって戦前は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」とか言って、小学校の2年以降は男女でクラスわけてたくらいで、学生時代であっても、男と女は気軽に話すなんてことはなかったから、昭和42年になっても、その名残があったわけさ。


 いまいち信じられない?


 じゃ、もう一つ。『明日があるさ』っていう曲があるでしょ?昭和38年に発売された、坂本九が歌った名曲。作詞は青島幸男、作曲・編曲は中村八大。


 あれさ、「高度成長期の明るさで、今の暗い日本を照らそう」みたいな文脈で2000年頃にリバイバルブームが起こったから忘れられがちだけど、ほんとはシャイな若者の恋愛の歌なのね。


 好きな女の子になかなか声をかけられず、なかなか電話もかけられず、当時は家の電話ね、そしてやっとデートしてもなかなか「好きです」と言えない若者が、「明日があるさ」ってエクスキューズしてる歌なわけ。


 つまり、当時の男性っては、みんなそんな感じで、女性と気軽に話せないのがスタンダードだったんだ。


 そんなわけで、アズサとタカシは、会話も盛り上がらずに歩いて、河童橋を渡って梓川の対岸に行き、川沿いに並んでいる数件の宿の一件「安曇野村村営ホテル(以下、村営ホテル)」に入った。

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