第1章 昭和42年の夏

 昭和42年の7月、東京の目白には、まだ江戸の名残のような古い小さな家がたくさん並んでいる。高い建物がポツポツと建っているが、空は広く、朝焼けがよく見える。


 朝焼けが、真新しい木造二階建ての家があたっている。大きくはないが、たたずまいが良い。玄関に大きなリュックを背負った18歳の女の子アズサが立っている。


「もういいよー。おかーさまー、遅れちゃうよー」


 アズサの目の前、小上がりを上がったところに、黒い浴衣で黒ぶちメガネをかけたおとーさんが腕を組んで立っている。


「もうちょっとだから、せっかくかーさんが作ってるんだから」


 アズサがふくれる。おとーさんはあきれたように言う。


「まったく、おまえ、上高地って、そんな遠くまで行くことないじゃないか。英語できるんだから、どこか大使館でも世話してやるのに」


 アズサがふくれながら答える。


「やよ。おとう様に紹介なんかしてもらったら、あっちに気をつかって、こっちに気をつかって大変よ。あちら様も気をつかうわよ。それにさ、出来たばっかりの、あたしと同じ名前の最新特急に乗らなきゃ。あれ乗ろうと思って受験がんばったんだからー」


 家の奥から小走りにおかーさんが出てくる。風呂敷で包んだお弁当箱をアズサに渡す。


「はい。気をつけてね」


 アズサが風呂敷をひったくるように受け取り、駆け出す。


「いってきまーす」


 おとーさんとおかーさんは玄関の外に出て見送る。おとーさんが大きな声を出す。


「週に一度は電話するんだぞー」


 アズサ、駆けながら右手をあげて、3軒ほど先の角を曲がって見えなくなる。


「今年はみんなで軽井沢に行けないのかー。しかし、なんでカワイイ一人娘があんなオテンバに育っちゃったのかなぁ」


 おかーさんが笑う。


「あら、いーじゃないですか。健康だし、勉強できるし、カワイイし、オッパイも大きいし、、、」


 おとーさんも笑う。


「まーなー。かーさんのおかげでよい娘に育ったけど、もうちょっとおしとやかになー」


 おかーさんが少しビックリ。


「あら。おとーさん、おしとやかな女キライじゃない?」


 おとーさんが苦笑


「まーなー。でも、オテンバな嫁もらうと娘もオテンバになるんだなぁ」

 おかーさんが笑っておとーさんの腕を組む。




 新宿駅のホームの丸時計が7時54分を指している。


 大きなリュックを背負って風呂敷を抱えたアズサが階段を駆け下りてきて、ホームに止まっている電車をしげしげとながめる。前年の冬に開通した特急あずさの赤と肌色の車体が誇らしげに停車している。2両分しげしげとながめていると、発車のベルが鳴ったので、あわててドアに飛び込む。




 松本駅ホームの丸時計が12時03分を指している。特急あずさ号が止まってドアが開き、大きなリュックを背負ったアズサが降りてくる。ホームに降りたアズサはリュックを下ろして、駅の向こうの遠ーくに見える北アルプスの雄大な山々にしばし見とれる。




 橙色の小さな松本鉄道上高地線の電車が新島々駅に到着する。ドアが開いて、アズサが大きなリュックを背負って降りてくる。


 新島々駅の改札を出ると、バスターミナルがある。窓口を見ると、メガネをかけた太ったおじさんがいる。


「いまダムの道路工事してるんでしょ?上高地までどのくらいで行くかな?」


 太ったおじさんは少しぼんやりと答える。


「うーん、2時間半はかかっかなー。沢渡で休憩するし」


 アズサが窓口の上にかかっている時刻表と自分の腕時計を見比べる。


「じゃ、13時40分に乗って、16時過ぎに到着?」


 太ったおじさんも自分の腕時計と時刻表を確認する。


「ま、そんなもんかな。時刻表の予定だと15時54分到着」


 アズサがお金を渡す。


「ずいぶんかかるのねー。座れるかな?」


 太ったおじさんが半券を渡しながら答える。


「座れるよ。定員制だから。あれ?」


「え?」


「おじょうちゃんは、ずーいぶん、かわい子ちゃんなんだなぁ」


 アズサ、満面の笑み。


「やだなー、おじさんだって、大きな電鉄会社の部長さんに見えますよ」


 二人で大きな声で笑い合う。


「よし。じゃ、ちょっといい席にしてあげる」


 太ったおじさんがアズサに渡した乗車券を引き取って、別の乗車券を渡す。


「はい。良い席にしといたから」


 アズサ、満面の笑みで答える。

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