明けの烏

くーくー

第1話

 鮮やかな浅葱色の空が茜色に焼かれ濃藍へと暗く変わりゆくそのたまゆらを、人は大禍時と呼ぶ。

 下町浅草の外れにある小さな鍛冶場に、目が眩むような強烈な入日の残り火と共にふらりと落とし差し姿の浪人が現れたのもちょうどその時分であった。

「ちょいと邪魔するぜ、十三代海平甚五郎の鍛冶場っつーのはここでいいのかい?」

「は、はぁ……確かにここは甚五郎の鍛冶場に違いありゃしねぇんですが、爺さ、いえ親方はちっと前に腰を悪くしまして、養生していやす」

「ほう、そうか、そりゃ残念だ。お前さんはここの徒弟かい?そういや爺様とか言ってたな、そんじゃお孫さんかい?」

「はぁ、甚五郎の元で刀鍛冶を学んでおりやす」

「ほぉそうかそうか、まだ前髪の童だってのに偉ぇもんだな」

「いえ、そんなことねぇです……」

 ぺらぺらとよく口の回る浪人に矢継ぎ早に言葉を発せられて、祖父の留守を守る銀はすっかり委縮してしまっていた。そんな銀の様子に気付いたのかいないのか、浪人はぐるりと狭い鍛冶場を見回して、鍛錬を終えたばかりの一本の脇差を手に取りじっくりと眺める。

「ほう、こりゃあいい脇差だ。下手に気取ったところのねぇ、剛毅だねぇ、俺ぁこういうのが好みなんだよ、このとこの刀鍛冶は見目ばっかし気にしてなぁ、切れ味が悪そうなのに高ぇんだ。俺ぁ床の間のお飾りの色気づいた刀じゃなくてな、腰に力が漲るような無骨な実利の強ぇ太刀が欲しいんだよ。だもんで、あちこち聞いて回ってなぁ、甚五郎の刀について知ったんだよ。こんな安寧の世にあって戦で身を立てることも出来ず腰の物はお飾りだと揶揄もされる。けどなぁ、こりゃ武士の芯なんだよ、決して折れちゃぁいけねぇ矜持なんだ」

 浪人の熱弁を聞きながら、銀は己の胸に熱いものがこみあげてくるのを感じていた。

 銀の家世は代々刀鍛冶であり、元暦の時代から刀を打ち続け源平合戦でもその太刀が活躍したと伝えられている。切れ味が実に鋭く斬られたものがそのことに気付かないほど瞬時のうちに頭身が切り離され、その刀身には一かけらの肉片も一滴の血滴もまとわせはしない。無垢の鬼神といわれたそれは名刀として後世にもその名を轟かせ芝居の演目になるような有名武将のとまではいかないが勇猛果敢な武者たちの太刀を打ち続け、歴代の甚五郎が数多の豪族や大名から地領に来てお抱えになってくれと請われたが断り、地元の相模に留まり続けていた。しかし、先々代の甚五郎が無類の刀狂いとして知られた時の公方に是非にと請われ意気揚々と江戸に乗り込んできたまでは良かったのだが、後ろ盾になってくれるはずであった肝心の公方が時を置かずして薨御し、太平の世が長く続いているという時勢柄もあり武家の間では見目麗しい美しい刀が重宝され、飾りもなく当世風の洒落た波紋を工夫するわけでもない戦向きの無骨な太刀は忌避される憂き目にあってしまった、

 相模から同行した徒弟たちは一人減り二人減りと減り続け、その厳しい中で銀の父であり十四代目になりはずだった茂一が流行り病に倒れ、銀がまだ言葉も覚えないうちに産後の肥立ちが悪く寝込んでいた女房の後を追うようにして長屋の隅でひっそりと亡くなった。

 そして、今となっては残るのは祖父の十三代甚五郎こと与平と孫の銀のただ二人きりとなってしまったのだ。

 そうなっても与平は戦場で役に立つ刀を打ち続けたいと、流行りの刀を打とうとはしなかった。そんな祖父の背中を見て育った銀は自らが十四代になるのだ甚五郎の太刀の灯を消してはならないと奮い立ち、祖父の元で刀鍛冶の修練を積み続けた。

 そんな自分たちの気持ちを、目の前のこの浪人が語らずも汲み取ってくれたように感じられて、銀の胸は熱くなったのだ。

「いや、しかしこんな脇差が打てるなら太刀もめっぽういいモンに違いねぇ、養生してるなら仕方ねぇが、うーむ惜しいことしたなぁ」

 いかにも残念そうなその口ぶりに銀の唇は震える。浪人がじっと見つめているその脇差は祖父ではなく自分が鍛錬したものだったからだ。気分を悪くさせてしまうかもしれないと躊躇はしたが、ここまで褒めてくれる、真のこもった言葉を告げられてこのまま黙っている訳にもいかないとぐっとこぶしを握り締め、掠れた声を絞り出した。

「あの、その脇差は甚五郎の打ったものじゃねぇんです。俺、この俺が鍛錬したもので……」

 銀の言葉に浪人は目をカッと見開く。その瞳には爛々と燃えるような火が灯っていて、それが怒りによるものなのか何なのか分からずに気圧された銀は、数歩後ずさりへなへなと柱に寄り掛かる。

「そうか!お前さんはやっぱり大したヤツじゃねぇか。ちんまい童扱いしたのが面目ねぇくれぇだ」

 しかし、浪人から掛けられた言葉は、予想だにしないものであった。

「なぁ、お前さんの腕を見込んで頼みてぇことがある。あぁこりゃしまったまだ名乗ってもいなかったな、某梅木寿左衛門と申す。それでな、お前某の太刀を打ってくれねぇか」

 先刻までの俺ではなく某さといかにも武士らしく自らを呼称した浪人は、じりじりと距離を詰めて銀へとにじり寄って来た。後ろに下がろうにも最早背後には壁しかなく逃げ場のなくなった銀は、思わずこっくりとその頼みに頷いてしまった。

「そうか、承知してくれるか!忝い!実に忝い!」

 望みを引き受けられてもその瞳の熱は一向に収まる様子はなく、まるでその炎に焼かれてしまうような感覚に襲われ、銀の頬はカッカと熱くなり、他方緊迫感のせいであろうか背筋はひやりと冷たくなった。

「でも、俺はまだ太刀は一人でちゃんと打ったことがねぇ、だからお代はいらねぇ」

 御贔屓の旗本のご隠居さんにたまに脇差を卸すくらいで、家計は火の車だ。本来こんなことを引き受けている場合ではない。しかし、まだ一人前ではない自分が金をとるわけにはいかない。それが銀の刀鍛冶としての矜持なのだ。

「そうか、そりゃ有難ぇ、実は出世払いにしてもらえねぇかとはなっから頼むつもりだったんだ」

 梅木は銀の矜持を台無しにするようにガハガハと大口を開けて笑い、照れくさそうに鼻を何度も擦る。

 その様子がまるで悪戯が見つかった時の童のように見え、銀のいつの間にか張っていた肩肘からはすっと力が抜けて、共にくすくすと笑いだした。

「ははは、そうやって笑っていると愛嬌満点だなぁ、じゃあ邪魔したな、十日後のこの時分にまた来らぁ」

 夕嵐のような梅木はひょいと右手を上げると、来た時のように飄然とした様子でふらりと銀の前から去っていった。

「全く風変りなお武家さんだったなぁ」

 浪人とは思えぬようなこざっぱりとした様相で香の香りまでふわりと身にまとい、色白で役者のようなうりざね顔の優男、まるで当代きっての人気役者清十郎の姿絵から抜け出してきたような見目の良さでありながら、がらっぱちな職人の様な粗野な物言いと図々しさ。

 とっぷりと日が暮れた道をくすくすと思い出し笑いをしながら銀が祖父の与平と暮らす長屋に帰ると、寝ているはずの与平はお勝手で夕餉の支度をしていた。

「爺様、ちゃんと寝床で養生していなけりゃダメじゃねぇか」

 駆け寄る銀に、与平は今炊きあがったばかりの大根の煮つけをひょいと差し出した。

「おう銀坊帰ったか、ぐずぐず寝てばっかりじゃ反って体が悪くならぁ、さぁ疲れたろ。こんなもんしかねぇが、たーんと食えや」

 元来働き者の与平のことだ。長屋でじっとしてばかりいるのは性に合わないのであろう。それ以上何か言う気にもならず大根の煮つけと麦飯のつましい食卓を与平と囲んだ。

「そういや、今日は誰か客は来たか?」

「いや……誰も来てねぇ」

 与平に不意に問われ、銀は思わずあの浪人、梅木のことを隠してしまった。

 甚五郎の刀、そして自分の脇差を褒めてもらったことを言えば喜んでくれるかもしれない。しかし、まだ修行中の身で勝手に太刀の依頼を引き受けてしまったことを口にするのが憚られたのだ。

「あのよぉ、俺また太刀を打ってみてぇんだ。爺様の腰が良くなったら、ちっと見て見てくれねぇか」

 そんな自身の戸惑いを隠すように放った言葉に、与平は目を細めて伸ばした箸を止めてうんうんと頷く。

「そおかぁ、爺ちゃんが鍛錬を手伝ってやろう」

「いや、今度ぁ俺が一人で打ってみてぇんだ。だからなちょいちょい仔細を見てくれよ」

 金にならぬから与平の手を煩わせたくないというだけではない、自分一人の手で梅木の腰に差す新しい太刀を打ってみたい。良い太刀だと言わせてみたい。銀の胸の奥には、めらめらとした強い欲求が燃え出していた。


 太刀の折り返し鍛錬をしながら、銀はほぉっと熱い息を吐きだす。まだ冷えた風も残る暮春ではあるが、火花散るこの場所にはそんな涼しさは毛頭ない。頭に巻いた手拭いでぐいと汗をぬぐった後、銀は近くの湯屋へと出向く。

 明け六つを過ぎたばかりの女湯には家事で忙しい女たちの姿はなく、止め湯として開放されている。

 人っ子一人いないがらりとした板場で銀は小袖を脱ぎ捨て、胸に巻いたさらしをするすると解いてゆく。すると中からはささやかに盛り上がった丘とはいえぬほどの小さなふくらみが二つ現れる。

 銀は男の童などではなく、数えで十六になる娘であった。

 物心がつき刀鍛冶になると決めてから、銀は娘らしい格好を一度もしたことがなかった。与平もそんな孫娘の気持ちを汲み、銀をお銀ではなく銀や銀坊と呼ぶ。

 童の頃はそんな二人に周囲も何も口を挟まなかったが、銀が年頃になると昔の徒弟筋から縁談の話が持ち込まれるようにもなった。与平は銀に告げずに断っていたが、銀自身もこのまま無理を通すことはままならぬことに薄々気づいてはいた。

 そう遠くないうちに形式上の跡取りとして適当な婿を取り十四代甚五郎の名もその者が継ぐことになるのであろう。しかし、実質上の親方は自分でありたい。そんな気持ちもあって銀は梅木の太刀を何としても一人で仕上げたかった。それをやり遂げれば刀鍛冶としての自分をしっかりと見つけられる。これから何があろうとも自分の芯は揺らぐことが無いのだとそう思えたのだ。

「うむ、力強い、良い鍛錬ができるようになったな」

 ニ三度様子を見に来た与平にも褒めてもらい、銀は梅木に出来上がった太刀を見せるのが日に日に楽しみに思えてくる。

「三日のちか」

 梅木が来ると約束した日を呟きながらざっと汗にまみれた肌を流し糠袋で汚れを落としてから、熱い湯船にゆっくりと体を沈める。「ほぉっ」と吐息が漏れ、しばしの安息の時間、誰にも邪魔されぬ憩いのひと時を過ごすはずであった銀の背後から、何やら人の気配が漂ってくる。

「おう、先客がいたか、邪魔するぜ」

 もうもうとした湯気のすき間から細身でありながら引き締まった体つきがちらりちらりと見え隠れし、そしてその上の顔はといえば件の浪人、つい先刻まで銀が頭に思い浮かべていた梅木であった。

 取り乱した銀はくるりと背を向けたが、そのひと時の間に梅木はしっかりと銀の顔を見てしまったようで「おう奇遇だな、お前さん先だっての鍛冶場の坊じゃねぇか」などと声を掛けつつざぶりと銀のすぐ横に浸かってしまった。

「この時間は女も野暮な同心もいねぇから、広々していいよな」

 気安く話しかけてくる梅木は、湯船から出た肌を見ても、銀を男と思い込んでいる。

 当たり前だ。一人で大槌をふるい続けてすっかり筋張ってしまった手と同じで薄くしかし鍛錬の固い肉をまとったこの背中には娘らしいやわらかさなど微塵もないのだから。銀は思わず口から漏れそうになる吐息をぐっと呑み込んだ。

「そういやぁ、お前さんの名を聞いていなかったなぁ」

 そんな銀の悶々とした心持ちなど知りようのない梅木は、無言の銀の背にまたしても言葉を投げつけてくる。

「ぎ、銀」

 湯気にしみ出すかすれ声。

「そうか、銀の字か。良い名じゃねぇか、銀印の太刀、いいモンができそうだ」

 かすれ声にも、一向に会話にならないことも気にも留めず、梅木は肩までどっぷりと湯につかり、自らの身の上を一方的に語りだす。

「某はなぁ今はしがない浪人に身を落としてはいるが、こう見えて先々代の公方様の元で老中を務めていた梅木孝三郎の嫡流であるさる旗本の子なのだ。しかしこのご時世お前は学問で身をたてろと言われたのだがどうにもそっちは不得手でなぁ、押し込まれた学問所を三日で飛び出してそっから風来坊の渡り鳥さ。でも武芸にはちっと覚えがあるんだぜ、家名の力を借りず自力で立身出世しようと方々の道場で腕試しをしておってだな」

 確かに旗本の息子であることはあるのだが、三男どころか五男坊の冷や飯ぐらいであり、ぶらぶらと江戸のあちらこちらで放蕩のかぎりをつくし勘当されたということはあえて言わず、梅木はふんふんと鼻息も荒く自分の武芸自慢を延々とし続ける。

「まぁ、銀の字の太刀を使って今に手柄を立ててどこぞに仕官するからな、そうなれば出世払いであのボロの鍛冶場をでーんと立派に作り変えてやるから」

 無料で太刀を作ってくれる鍛冶場をボロ扱いし、言いたいことを散々まくしたてた梅木が白い体を真っ赤に染めてふらふらと湯船から上がった時、朦朧とした銀は今にも卒倒する寸前だったが、板場から梅木の姿が消えるまで辛抱し湯につかり続けて茹で上がったタコのようになってしばらく力が入らずその日の鍛錬は子の刻まで終わらず、心配した与平がわざわざ迎えに来る羽目になった。


 湯屋で出くわしてから四日のち、約束の日から一日遅れて梅木がちらりと顔を出してから二日後、作業は大詰めを迎え残すは研ぎだけになり、銀が初めて一人で手掛けた太刀がいよいよ完成に近づいた暮れ六つ時、与平が息せき切って鍛冶場へと飛び込んできた。

「おい、銀や、銀坊、先刻ご隠居さんの遣いが長屋に来て初勝魚をいただいたんだが、まずいことに辛子を切らしちまっててな。ひとっ走りして喜多さんのところで借りてきてくれねぇか」

 喜多さん喜多蔵というのは与平の古くからの友垣で、本所で笛の師匠をしている。辛子ぐらい長屋のご近所さんに借りればいいものだが、そうすると折角の勝魚を他の住人に分けなければならなくなってしまう。

 普段の与平はそんなあたじけない男ではないのだが、こと好物の勝魚となると途端に偏狭な爺になってしまうのだ。

「あい分かったよ、喜多さんのとこだね、そんじゃちょっくら行ってくらぁ」

「おう、急いでくれな」

 そわそわして勝魚を口に入れるのを楽しみにしている与平の浮かれた様子に苦笑しながら銀は明るい満月が照らす道を本所へと歩き始めた。

 早足で歩を進めいよいよ隅田川へと差し掛かった時、銀の目の隅に柳の様な姿がふとよぎった。

 あの細くしなやかな立ち姿は、梅木に違いない。

 銀は思わずその影をつかず離れず追いかけ始めた。後ほんの一町ほどで喜多蔵の長屋だというのに、もうすっかり辛子のことも勝魚のことも頭から抜け落ちてしまったのだ。

 梅木は帯刀していない右の腰の帯に穴開き銭がじゃらりと通された毘沙門天の根付を括り付け、慣れた調子で川沿いをゆっくりと歩き夜鳴き蕎麦屋へと入って行った。

 何のことはない、蕎麦を食べに来ただけだというのに、銀は梅木の知られざる一面を知ったような気がして少しうれしくなり、帰路につく間も頬が緩みっぱなしで帰りが遅いことや辛子を忘れたことで与平にがみがみと叱咤されても右の耳から左の耳へ全て筒抜けになってしまい、ふわふわとした気持ちのまま数日を過ごした。

 それからの銀は川の側で梅木を待ち、その様子をひっそりと見つめることがすっかり癖になってしまった。

 ちょうど与平が長屋のおかみさんに頼まれて漬物石を持ち上げようとしたところ腰を余計に痛めてしまい、ご隠居さんの計らいで房総へと養生に行ったこともその行動に拍車をかけたのだ。

 梅木が川沿いに出かけていくのはただ蕎麦を食べるためではないことに銀が気付いたのは、通い始めて三日後のことだ。

 梅木はお決まりのかけそばを食べた後、手持ちの徳利からぐびりと酒を呑み、少し離れた竹藪へとふらふらと歩いてゆく。

 それから夜鷹と落ち合い、竹藪の奥で何やら遊んだ後に四半刻ほど過ぎると乱れた衿元を直しながら出てきて、夜鷹には一瞥もくれずにその場を立ち去る。

 相手の夜鷹は都度都度違い、竹藪はいつも同じではあるのだが、ある一人の相手の時だけは、その両方が違っていた。

「さーさんすっかり待たせちゃったわね。ちょっと得意さんに絡まれちゃってね、あの狸旦那ったらひつっこいのよぉ」

「何だ、俺がビシッと言ってやろうか?」

「いやーねぇ、刃傷沙汰は御免よ」

 いつもより心なしかきっちりとして、酒も飲まず蕎麦も食わずに梅木が待ち合わせる相手、それは銀にとってもどこか見覚えのある娘であった。

「あれは、女義太夫……」

 笛の他に三味線も教えている喜多蔵に連れられて、開き小屋に一度だけ見に行ったことがある。

 その時長唄を唄っていたのがあの娘だ。

 連れだって川沿いを歩く梅木と女義太夫は楽しそうに顔を見合わせて語らい、微笑み合いながらどこぞへと向かってゆく。そのたどり着いた先は、出会い茶屋だった。

 世事に疎い銀であってもその場所が何をする場所なのかは何となく知っている。梅木が夜鷹と竹藪で行っていること、それを女義太夫とここでするのだ。

 けれど、それはいつもとはまるで違う様相で、普段なら後ろを一度も振り返らずにさっさとその場を立ち去る梅木が、腰に手を添えながら微笑んで女義太夫を見つめながら店を出てあろうことか大通りまで付き添って共に歩いてゆく。小雨が降れば女義太夫が濡れないようにと傘を持ち、茶屋に滞在する時間ですら一刻という考えられないほどの長さだ。

梅木の着物から漂っていた浪人らしからぬ香の香りは、この女義太夫からの移り香だったのかもしれない。それほどまでに二人は人目もはばからずぴったりと寄り添っていた。そんな睦まじい姿を陰から眺めるたびに、銀の胸はぎりぎりと鈍く痛む。

 女義太夫も銀も男装という面では違いはないではないか。けれど、女義太夫の羽織姿はその華奢な体躯を際立たせ、薄化粧はなめらかな柔肌をより際立だせ、口を開くたびにうっすらとした紅がパッと花開くようで人々の目を奪う。

 むしろ色香や艶めかしさ、娘らしさを引き立てているのだ。

 それに比べてこの自分ときたらどうだろう、鍛冶場に時たま来る客人はもちろんのこと、おそらく銀が娘であることを承知しているはずの長屋の住人ですら「おー銀坊大きくなったなぁそろそろ前髪をおろす頃合いか、まだ童みてぇなぷくっと可愛い面してっけど、月代そりゃあ男っぷりがあがるぞ。早くいい嫁さん貰って爺様を楽隠居させてやれよ」などとまるで銀が根っからの男であるかのような言葉を吐く。それがまたふざけて言っているわけでもなく、心からの言葉である用なのだ。

「それでも、あのほそっこい指じゃあ三味線が弾けても太刀なんか打てやしねぇに違いねぇ」

 銀は自分にしかできないこと、女義太夫には逆立ちしてもできっこないであろう大事なことを思い出し、夜更けに鍛冶場に舞い戻った。

 太刀はもうほとんど完成しているが、十日目に様子を見に来て以来梅木は一度もここを訪れてはいない。

 銀が見ていない時も女義太夫と逢引きでもしているのだろうか、いやそうではない、まだ太刀が出来上がっていないと思っているからだろう。

 もやもやする気持ちを振り払うように、銀は頼まれていない脇差づくりに取り掛かった。

 忘れもしないあの湯屋での時、梅木は由緒ある家柄の出だと言っていた。ならば仕官など直ぐに決まることだろう。そうしたら、脇差もどうせ入用になる。

 思いがけない脇差まで用意されていて喜ぶであろう梅木の姿を思い浮かべつつ脇差の鍛錬に精を出したが銀の気持ちは一向に晴れず、ついふらふらといつもの梅木が通う夜鳴き蕎麦屋の近くまで来てしまった。

 子の刻も過ぎ、夜鳴き蕎麦屋はとっくに店じまいをしている。自分は一体何をしているのだろうか、いらだち紛れに川に小石を投げ入れようとしていたその時、銀は信じられない光景を目にした。

 梅木が夜鷹と連れ立って、川沿いをふらふらと千鳥歩きしているのだ。

 あぁ、こんな時分にも竹藪に行くのか、今宵は月が隠れているというのに。

 吐息を漏らしつつ、やはり銀は吸い寄せられるようにしてその後をついて行ってしまう。

 けれど、その行き先はいつもの竹藪ではなかった。

 鼻を摘まむような臭いにおいの漂う濁った細いくねくねとしたどぶ川、その横で梅木と夜鷹は何やら会話をしているようだ。

 川べりの茂みに隠れてこっそりと様子を伺い、耳をそばだててみるがぽつりぽつりとしかその声は聞こえてこない。

 ぽつりぽつりとした雨だれに首をすくめて二人を見ると、夜鷹は少し背伸びをして梅木の首にゆるりと腕を回しながらひょいとつま先立ちをして自分の雨笠を被せた。

「こうして近くで見ると、あんた肌が白くて鼻筋も通って役者みたいな男前ずらねー」

「ほう、そのお国訛りは甲斐からかい?」

 ぽつぽつとそんな言葉が聞こえた後、夜鷹は急に暴れ出した。

「違うずら、あたいは吉原に…‥」

「吉原の遊女がそんな物言いするわけあるめぇ、関所やぶりは重罪だなぁ。お上も許しちゃくんねぇよ」

 徳利片手にふらふらとしかしその腕は迷いなくシュッと振り下ろされ、断末魔の叫びをあげる間もなく夜鷹の喉笛は掻き切られた。

「あぁ、やっぱしこんななまくらじゃあなぁ、ずいぶんと斬れ味がわりぃな」

 だらりと力を失った夜鷹の体をどぶ川の中へ蹴り飛ばして、ぽかりぽかりと浮き沈みするその上に先刻の雨笠を放り投げると、梅木は血に染まった刀身をぺろりと嘗めてにやりと笑みを見せた。

薄墨色の雨雲のすき間から見える朧月がぼんやりと照らす白い顔、その唇は血の紅で赤く染められている。カッと見開かれた両の目は、まるで月の光のように黄金色の光を放っている。

銀はその姿から一時も目を離すことが出来なかった。身震いするのは恐れなのか、はたまたその妖艶な美しさに見惚れたか。

朧月夜に影はない、薄墨の夜霧の中にその背が呑みこまれ吸い込まれるようにぼおっと消えてゆくのを銀は息をのんで見つめ続けた。一息も漏らさず。

はたして、あれは誠の現のことであったのであろうか?

壮絶、そうとしか言い表せないその光景は、銀の胸から二度と離れることはなかった。

  

 あぁ、あぁ、あの強い光を放つ目でじいっと見つめられたなら、一体どんな心持ちになることだろう。自分はどうなってしまうのだろう。

 恐ろしい凄惨な出来事を目の当たりにしたはずなのに、銀の胸を占めていたのは惨めにどぶ川に流されたあの夜鷹のことではなく、この世のものとは思われないほどの艶やかな美しさを振りまいていた梅木のあの姿だけであった。すっかりその美しさに魅入られてしまったのだ。

 あれ以来隅田川の川べりへは一度も行かず、梅木がどこで何をしているのかは知ることができなくなった。しかし、銀が見たいと焦がれているのは、女義太夫と楽し気にじゃれ合う陽気な梅木ではない、遊び終わった夜鷹を素っ気なくあしらう梅木でもない。

 あの強い光、壮絶な美しさをふたたび見たいと請い願っているのだ。

 それに胸を占められつつも、梅木に渡すことにした脇差の鍛錬も忘れず続けてはいた。

 梅木の望む実利の刀、なまくらではない刀を振るったとき、梅木の美しさがどこまでの物になるのか、そう思い描くと以前以上の力が両の腕に漲っているのもありありと感じ取ることが出来る。

 そうしていよいよ脇差が仕上がった時、まるでそのことを知っていたかのように梅木はまたふらりと銀の前に現れた。

 初めてのあの時のように、強い入り日をその身にまとって。

「おう銀の字、久方ぶりだなぁ、面倒な仕事を請け負っちまったりしてな、他にも野暮用なんかでここんとこちょいと忙しくしてたんだよ」

「いや、時間が出来たからこっちも良かったんだ。これ」

 銀が差し出した脇差に、梅木は目を丸くして驚く。

「太刀……はどうしたい?」

「このすっとこどっこい、辺りをちゃんと見やがれ、そっちもちゃんとあらぁ、だが仕官したらこれもいるんだろ。お武家さんは二本差しするもんだもんな。要らねぇならそこらにうっちゃっちまってもいいけどな」

 むすっとした表情で銀が顎で指した方向には、待ちかねた太刀の姿もある。

「おお、おお、こりゃ立派ないい太刀だなぁ、どんなにかいい切れ味だろう、もちろんこっちの脇差もだ。一人でここまでの物を作り上げるたぁてぇしたもんだ、しかもよ、それをぽーんとくれちまうなんて銀の字は粋だねぇ、いなせだねぇ、気風がいいや」

「あたぼうよ」

 思っていたような反応が得られなかった銀は先に太刀を渡せばよかったと後悔し始めていたが、梅木は太刀ではなく脇差の方をスッと古い太刀の横に差し入れご満悦の表情を浮かべた。

「ははは、俺がどこぞに仕官したら腰のモンはどっちも銀の字の作かぁ、こりゃあ獅子奮迅の活躍をして名刀工銀の字の名も広めてやらなくっちゃなぁ。大太刀でもしょってよっ、合戦はどこだ、どこだって探し回んなきゃいけねぇや」

 見たかった、焦がれ焦がれたあの顔ではない、けれどこの無邪気としか言いようのない、出会ったときの陽気な梅木の嬉しそうな顔もまた銀の胸をほころばせるには十分だった。

「あぁ、合戦だか何だか知らねぇがよ、こっからどーんと活躍してくんな、ここに次から次へと引切り無しに客が来てお屋敷をたてられるくれぇにな」

「ははっ、そりゃいいな、俺もだだっぴれぇ屋敷に住みてぇもんだ」

 ケタケタと笑い合っていると、あの昏い朧月夜が嘘のように思えてくる。

 しかし、新しい太刀の刀身をまじまじと見つめる梅木のその目の奥には、やはりあの日の強い光の残り火がほんのわずかにではあるが燻って見え隠れしているのだ。

 

 それからの銀は何かを振り払うかの如く、梅木がちらりと口にした大太刀づくりに精を出し始めた。

 乱世の世ならいざ知らず、三尺ほどもあるそれは武士が常日頃帯刀するには長すぎて持て余してしまう。

 しかし、打たずにいられなかったのだ。大太刀をふるうような合戦がこの太平の世でありよう筈もないというのに。

 それでも日中の間は一人で打つには大物過ぎる大太刀に一心不乱に取り組んで、他のことを考えずにいられて銀は楽な気持ちでいられた。しかし、鍛冶場の中に入り日が差し込むと梅木のあの強い目の光が胸をよぎらずにはいられない。

 いてもたってもいられなくなった銀は、母が逝ってから仕舞いっぱなしになっていた鏡箱を取り出し絵鏡に自分の顔を映す。

 銀火花で焼けた赤い顔、なよやかさなど微塵もない。その赤い肌に古い白粉をぱたぱたとはたく、赤みが目立たなくなり絵鏡の中の薄い唇の端がほんの少しだけ上に上がる。

 そして今度は小さな貝殻に入った、母が奮発したのであろうほとんど使われていない小町紅に指先を伸ばす。紅差し指などと呼ばれてはいるが紅をつけるためになぞ使ったことのなかった赤く焼け節くれだったその指赤く焼け節くれだった指先は心もとなくふるふると揺れながら初めての赤を口元に散らす。

 すっかり年頃の娘らしい顔になった銀は汗ばんだ小袖もパッと脱ぎ捨て、耳の裏から手や足の爪の間まで少しも漏らさぬように隅々まで綺麗に拭いてからこれも母のものであった薄絹を羽織り、顔が分からぬようにかつてご隠居から貰った真新しい花柄の手拭いで髪と顔を隠し、そのままふらふらとあの川べりへと歩いて行った。

 どぶ川での一件があったせいか、いつもなら夜鳴き蕎麦屋の近くで幾人もたむろしている夜鷹は一人もいない。

 銀がきょろきょろと辺りを見回していると、聞き覚えのある低くくぐもった少し甘みのある声が生暖かい息の共に耳の入り口をくすぐった。

「なぁ、あんた、誰かいい人と逢引きかい」

 梅木の声だ。

 銀がぶるぶると首を振ると、梅木は銀の腰にそっと手を当ててそのまま竹藪の方へとその身をいざなった。

 竹に押し付けられた銀の首筋に、先刻より熱く熱のこもった息が吹きかかりその少しざらついてはいるがふわりとやわらかな唇がすっすっとなぞってゆく。

 あぁあぁ、熱い……首から中までじっくりと焼かれているよう。

 銀は崩れ落ちそうになる腰にぐっと力をこめ、こぶしを握り締める。しかし、その体はふるふると小刻みに震えている。

「お前さん、素人か、悪ぃな、俺ぁおぼこ娘はどうにも好みじゃねぇんだ。他当たってくんな」

 手拭いの陰からちらりとのぞく赤い紅、少しはみ出したそれを指先で拭うとぽんぽんとその頭をやさしく叩いて、梅木はひょいと手をあげて銀に背を向けて去ってしまった。

 へなへなとその場に崩れ落ち、まだ熱のこもる首筋にそっと指を這わせる。今日はいつものかけそばではなく花巻蕎麦でも食べたようで、しんなりと濡れた海苔のかけらが梅木の唇から移りぺたりと銀の肌に張り付いていた。その海苔の上にぎっと手を強く当てながら、銀は手拭いの端を噛み締めて獣のように咽びあげた。

 夜鷹としても相手にされなかった、童のように優しく見つめられ、手も出してもらえなかった。あの目で見つめてもらえるなら、いっそ斬られてもいいとさえ思っていたのに。

 銀は自分の胸の奥に燻っていた真の欲にやっと気が付いた。

 それでも梅木は、娘としての自分にこれっぽっちも用なんかありゃしないのだ。

 それならばと大太刀を打っても打っても、もう心はちっとも晴れてはくれない。

 銀はまだ日が高いうちから鍛冶場を抜け出し開き小屋へと向かうと、行きがけに出店で買った黒い袖頭巾を被り、出番が終わり贔屓の客と共に出かけて行く女義太夫の後をそっとつけた。

 女義太夫はでっぷりと肥え狸のようにぽーんと腹の出た裕福そうな旦那と共に縁台で稲荷ずしを食べ、茶を啜り、きゃぁきゃぁと嬌声なんぞをあげている。

 そして、別れ際に旦那から身八つ口に突っ込まれた小判を大事そうに抱えながら川べりへと向かっていく。

 あぁ、ダメだ。このままあの人に会わせてしまってはいけねぇ。

 女義太夫の足がどぶ川のほとりへと差し掛かった時、銀は背後から女義太夫にとびかかり、知らず知らず袂の中に入れて持ち出していた与平の小刀でざくりとその喉元を刺した。

「あがぁぁぴひぃ」

 声にならない音が穴のあいた喉からぴゅるぴゅると漏れる、銀はその顔も見ぬままにあの日の梅木のようにもうぴくりとも動かなくなった体をどぶ川へとけり込もうとしたが力が足りず、そのまま放置して逃げ帰ってしまった。

 女義太夫は消えた。それでも銀の胸は重苦しく雲で覆われたまま。

 ついにはやむに已まれぬ事情でもあるのだろう、どぶ川の辻斬りに恐れをなしつつもぽつりぽつりと川べりに戻って来た夜鷹に銭をちらつかせては見境もなく誘い出し、その首を刺すようになった。丹念に磨き上げた大太刀をそのままに、鍛冶場へと向かうことも無く夜更けにふらりと寝床をはい出て夜鷹を待つ。

 梅木がかつてこれらの女たちと遊んだか遊んでいないか、そんなことはもうどうでもよい。

 川べりにいる女なら、いずれは声を掛けるか掛けられるかして梅木と出会いあの目で見つめられることがあるやもしれないのだ。

 もう誰にも梅木に見つめられて欲しくはなかった。斬って欲しくもなかった。

 あの背筋が凍るほどのぞっとするような燃え盛る瞳の美しい顔を、誰にも見せたくはないのだ。 

 血染みの黒頭巾の辻斬りのうわさは瞬く間に江戸中にとどろき懸賞首となったが、銀はそのことを全く知らぬままその夜もふらふらと川べりへと向かった。

「あぁ、今日は誰もいねぇ、いや向こうに座り込んだ女が」

 銀は気分が悪そうにしゃがみこむ女の上に小刀を振り上げたが、急にすっくと立ち上がった女に腕を掴まれ、ひるんだすきにねじ伏せられてしまった。

 その女にしてはずいぶんと大きな立ち姿、長い影の上にすっくと立っているのは薄絹を羽織った梅木であった。

「おめぇが俺の二番煎じの辻斬りか、小刀たぁシケた不埒な野郎だがまぁこの際役にたて、俺の刀鍛冶がなぁ、こんないいモン打ってやがったんだ。ふらりと行ってこれを見つけた時ぁ胸が躍ったってもんだぜ、あぁこれで俺の道も開けたってモンよ」

 藪に隠されていた大太刀、振り下ろされたその刀身に月の光がきらりと差す、しかしその輝きよりも銀の目を眩く奪ったのは、梅木のあの目だった。

 あの日よりももっとずっと強く輝き、力を持ったあの光……

「あぁこりゃぁ鋭い斬れ味、めっぽういい大太刀だなぁ」

 満足げなその口元のゆがんだ笑み、どうやら銀は既に斬られているようだった。しかし痛みは微塵も感じなかった。自身の打った刀が先祖の名刀の域に近づいたからなのか、念願のあの目に見つめられたからか、はたまた俺の刀鍛冶といった梅木の言葉による奇妙な高揚感のせいなのか。そのわけを銀にはついぞ計り知ることができなかった。

「じゃぁな、ちょっくら番屋に行ってくらぁ、そっから動くんじゃねぇぞ、ま、無理だろうがな」

 銀の手からぽろりと零れた小刀で赤く染まった帯を止め刺し、遠ざかってゆく梅木の背姿を銀はもう見ることが出来ない。

 高く高く遠い空の上、ぽっかり顔を出した明けの明星、眩いばかりのその金色に鴉は手を伸ばすこともせず、昏い地べたを這いずりまわる。





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明けの烏 くーくー @mimimi0120

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