嘘つきおねえちゃん

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

嘘つきおねえちゃん

 ガラス窓から入ってきたすきま風が薄い布団をすり抜けてくる。寒い。私が寒いということは、隣で寝ているお姉ちゃんもきっと寒い。もぞもぞ動いて、掛け布団の半分をお姉ちゃんの布団に被せて身を寄せる。


「……あったかいね」


 お姉ちゃんが言った。


「手、繋いでもいい?」


 私が言うと、お姉ちゃんは何も言わずに私の手を握った。あたたかい。家族のぬくもり。たった一人の家族のぬくもり。ゆっくりと、意識が枕の底にうずもれていく。まどろみの中で私とお姉ちゃんとが混ざり合う。私がお姉ちゃんで、お姉ちゃんが私になった。


 一日の終わり、この時間がいちばん好きだった。


※ ※ ※


「おはよ、アンちゃん」


 先に起きていたお姉ちゃんは、もう高校の制服に着替えて朝ご飯のトーストまで用意してくれていた。


「はやく食べないと遅刻だよ」


 ヘアゴムで左右のおさげをまとめながらお姉ちゃんが言った。


「うん」


 熱で溶けたマーガリンのいい匂いがした。トーストを食む私を見て、お姉ちゃんが微笑んだ。


「アンちゃんの長い髪、サラサラでいいなぁ。ほら、私くせっ毛だから」


 と、少しカールしたおさげを持ち上げた。お姉ちゃんの髪、かわいいのにな、と思った。


※ ※ ※


「鍵しめた?」


「うん」


 おんぼろのアパートを出てふたりで学校へ向かう。おんぼろなんて言ったけど、住むところがあるだけでありがたい。幼い頃に火事で両親と家を失った私たちに、貸家業を営むおじさんが最低限の生活費と共に与えてくれた住まい。おじさんは親族里親になるのを拒否したけれど、おじさんにはおじさんの生活があるのだし、私もお姉ちゃん以外の人を家族だとは思えなかったから、それで十分幸せだった。


「また帰りね」


「うん」


 校舎に入り、階段の前でお姉ちゃんと別れた。二年生の私は二階、三年生のお姉ちゃんは三階の教室だ。学校が終わればまた会える。わかっていても、ふたりを分かつその階段が憎らしかった。


※ ※ ※


 移動教室で廊下を歩いていると、お姉ちゃんの教室の前を通った。さりげなく中を覗くと、ちょうど廊下側の窓ぎわにお姉ちゃんが座っていた。放課後以外に会うことなんて滅多になかったから胸が踊った。


「おねえ……」


 声をかけようとすると、同じタイミングで誰かに呼ばれたらしく、お姉ちゃんは教室の奥に行ってしまった。つい目で追いかける。お姉ちゃんが知らない女生徒と話しながら笑っていた。誰だろう。仲、いいのかな。頭の中がざわざわとうるさかった。


※ ※ ※


「手」


「うん」


 今日も布団の中でお姉ちゃんを独り占めする。握った手があたたかい。少しだけ冷たい私の手にお姉ちゃんのぬくもりが伝わってきて、お互いに交換した体温が溶け合い、眠くなる頃おなじになる。やがて意識がまどろみの奥へと消えていく。


「…………………………」


 …………。


 ………………。


 ……気持ち悪い。


 異物。私とお姉ちゃんの世界に混ざり込んだ不純物。それを感じ取って目が覚めた。いつの間にか手は離れていた。お姉ちゃんの方を見る。静かに寝息を立てていた。窓の外はまだくらく、遠くを走るバイクの音だけがかすかに聞こえていた。長い夜だった。


※ ※ ※


「また帰りね」


「うん」


 階段の前でお姉ちゃんと別れて、午前の授業をうわのそらで過ごした。昼休みになると、私はお弁当を置いたまま教室を出た。三階へと続く階段を睨みつけ、震える足で踏み出した。


 三年生のふりをして廊下を歩き、お姉ちゃんの教室をこっそり覗き込む。お姉ちゃんは数名の女生徒と机を合わせ、談笑しながらお弁当を食べていた。嫌な気持ち。でも、あいつらじゃない。怪しまれないよう、教室の前には留まらずに廊下を何往復かしていると、お昼を食べ終えたお姉ちゃんたちが合わせた机を解散させ、残りわずかな昼休みを各々で過ごしているのが見えた。その時、誰かがお姉ちゃんに話しかけるのが見えた。校則を無視した派手な金髪の……男。


 異物。


 直感でわかった。こいつがお姉ちゃんの心に無断で入り込んだ不純物だ。苦しい。吐きそうになる。チャイムが鳴った。急いで自分の教室に戻った。もう、お弁当を食べている時間も食欲もなかった。


※ ※ ※


「アンちゃん、大丈夫?」


 翌朝、お弁当の支度をしながらお姉ちゃんが私の顔を見て言った。


「……ちょっと、ダメかも」


 嘘。わざと辛そうにしているだけ。でも、寝不足の顔は本当に調子が悪そうに見えたと思う。


「昨日もお弁当残してたもんね……。今日は休みなよ」


「うん」


 心配そうなお姉ちゃん。罪悪感が胸の底に重く沈殿する。パジャマのままお姉ちゃんを玄関で見送ると、私はおじさんが買ってくれた型落ちのスマホを手に取った。"花井 勇者郎ゆうじろう"──調べたあの男の名前で検索する。すぐにSNSのアカウントが見つかった。特定しやすい名前で助かる。


「……………………」


 カラオケ、プール、クラブ、テーマパーク。アップされていた写真はどれも女連れだった。それもすべて別人。丈の短いスカートを穿いた女の腰に手を回し、白い歯を見せてピースサインを作っていた。鼓動が早くなる。彼女なのか友人なのかは知らない。そんなことどうだっていい。とにかく、この男をお姉ちゃんに近づけるわけにはいかない。つま先から熱を帯びた何かが身体を駆け上がってくるのを感じた。


※ ※ ※


「ただいま。アンちゃん、気分はどう?」


 お姉ちゃんの帰宅する時間に合わせて布団に潜っていた私は、「うん、だいぶよくなった」と嘘をついた。また胸の底に黒いものが溜まった。


「今日はお雑炊にするね。あと、スポーツドリンク買ってきたから冷蔵庫に入れとく」


「うん、ありがと」


 お姉ちゃんは普段と変わらず優しかった。その変わらなさが怖かった。その夜、怖さを心に秘めたままお姉ちゃんの手を繋いだ。


 夢を見た。


 夢の中で、透明な水面に私とお姉ちゃんの笑顔が映っていた。そこに一滴の黒い雫が落ちた。雫が跳ねると波紋が広がった。波紋は波打ち、二人の顔を歪めながら暗く染めていく……。


 大きく息を吸い込んで目を覚ますと、視界は闇に覆われていた。外から鳥の鳴く声が聞こえた。目が少しずつ慣れてきて、ぼんやりと部屋の輪郭を映し出す。朝はもう近いはずなのに、世界はまだこんなにも昏い。冬の夜は嫌いだ。


 ──広がる黒い波紋。


 お姉ちゃんの心に私以外の不純な色が広がっていくかのように思えた。頭まで布団に潜り、無理やりもう一度眠った。手は繋がなかった。


 ……………………。


 数年ぶりに昔の夢を見た。


 燃える家の中で、私は必死でお姉ちゃんの手を握っていた。


※ ※ ※


「また帰りね」


「……あのね、私、今日は用事があるから、お姉ちゃん先に帰っててくれる?」


「そうなの? うん、いいよ」


 階段の前でお姉ちゃんと別れた私は、教室へ向かう前にスマホを開いた。昨日、匿名で作ったばかりのSNSのアカウントが表示されていた。


※ ※ ※


 放課後、人気のない校舎裏に花井勇者郎はいた。辺りをキョロキョロと見回しているけれど、いつまで経っても彼の待ち人は来ない。当然だ。私が呼び出したのだから。校舎の影に隠れて様子を伺う。


 ……あいつがお姉ちゃんをたぶらかしている。


 そう思うと身体がまた熱を帯びた。許せない。許せない。許せない。熱が体中の血管を駆け巡る。鞄の中に潜ませたナイフに手を伸ばす。あいつさえいなくなれば、また私とお姉ちゃんは元通りになる。また安心して手を繋げるようになる。鞄の中でナイフの柄を掴んで、はじめて手が震えていることに気が付いた。喉の奥が乾き、つばを呑んだ。震えは止まらなかった。どうやっても、手が鞄から外に出なかった。これを、これをあいつに刺すだけでいい。それだけ、たったそれだけですべてが良くなるのに、その程度のことがこんなに難しいなんて。地面に落ちた涙が土の色を暗くした。私は自分の弱さが情けなかった。せめて花井を睨んだ。許せない。許さない。動かない体の代わりに、恨み、呪い、殺意を強く熱く視線に乗せて送り出した。精一杯の抵抗。届け、届け、あの男へ……!


「あっ!?」


 花井が驚いた顔で声を上げた。視線が足元に落ちる。赤い。赤い炎のゆらめきが彼のつま先から脛のあたりまでを覆っていた。


「あっ、あっ……」


 花井が困惑の声を上げている間に炎は彼の身体を駆け上がり、瞬く間に頭のてっぺんまでを覆い尽くした。炎は輝きを増し、赤から白い閃光へと変わったかと思うと一瞬で消失した。あとには何もなかった。肉の一片、骨のひと欠片も残らず、ただそこにあった靴の形そのままに土が黒く焼け焦げているだけだった。私はナイフごと鞄を落とし、その光景に目を見開いた。


 寒気がした。


 私の身体からはすっかり熱が引いていた。


※ ※ ※


 人が消えた。跡形もなく燃え尽きた。理由も理屈もわからない。わかるはずもない。けれど、そう願ったのは私だ。私が望んだ通りにあいつはこの世からいなくなった。テレビを点けてもこのことは報道されていなかった。死体が見つからない以上、ひとりの高校生の失踪なんてちょっとした家出と見分けがつかないのだから当然だ。


 お姉ちゃんは、遅れて帰宅した私の様子がおかしいことに気付いてすいぶん心配してくれた。理由を話さない私をただ優しく抱きしめてくれた。その夜は、お姉ちゃんから手を握ってくれた。


 ……夢。透明な水面に私とお姉ちゃんだけが映っていた。静かだ。他の誰にも邪魔されない、ふたりの安寧の時間が戻ってきた。風が吹いて水面にわずかな波が立ち、揺れたお姉ちゃんの顔が少し悲しそうに見えた。水底に小さな赤い光が見えた。光は徐々に明るさを増し、赤から白い閃光へと変わっていった。


※ ※ ※


 冬が終わった。


 お姉ちゃんは春から大学生になる。このアパートから通える大学なんて無かったから、もうすぐ私たちは別々に暮らすことになる。


 ふたりの最後の夜、私たちは薄い布団を重ね合って手を繋いだ。


「アンちゃん、ひとりで大丈夫?」


「うん」


 大丈夫じゃない。


 「何かあったらすぐに電話してね。いつでも話聞くからね」


「うん」


 嫌だ。ずっと一緒にいてほしい。


「アンちゃん」


「うん」


「おやすみ」


「……おやすみ、お姉ちゃん」


 夢を見た。


 ふたりが映る水面に鮮やかな虹色が広がっていく。新しい生活、新しい出会い、新しい人生。お姉ちゃんの明るい未来への期待の色。大人になって、お姉ちゃんは自由になる。これからはどんな色だって自由に選べるんだ。赤、青、黄、緑……様々な色が入れ替わりながら水面を美しく輝かせる。そのまばゆさが影を作り、私の顔を隠した。……私はどこにいるんだろう。お姉ちゃんには私が見えているのかな。これから、一日のどのくらいの時間、私のことを想ってくれるのかな。私はずっとお姉ちゃんのことばかり考えているのに。嫌だよ。お姉ちゃんの中から私を消さないで。ねえ、忘れないでよ。お願いだから私の手を離さないで。ねえ、お願い……。ねえ、お姉ちゃん……!


「起きて! 起きてアンちゃん!」


 肩を揺さぶられ、咳き込みながら目を覚ますと、熱気を含んだ空気が鼻から入り込んで猛烈な痛みを感じた。燃えていた。真っ赤な炎に囲まれていた。あの時と同じ景色だった。


「はやく! 外へ!」


 お姉ちゃんに繋いだ手を引っ張られ、引きずられるようにして黒煙と炎に包まれた部屋を飛び出した。滑り落ちるように階段を降り、アパートから離れた場所で固い土に膝をついた。振り返ると、既にすべての部屋に火が回っていた。この光景を見るのは二度目だった。


 ……………………。


 ……水面の底に閉じ込めていた赤い光の記憶。


 ああ、そうか。


 あの時も私が……。


「違うよ!」


 お姉ちゃんが叫んで私を抱きしめた。……あたたかい。まだ冷たい夜の風からお姉ちゃんが守ってくれている。


「アンちゃんは何もしてない! 私がやったの!」


 お姉ちゃんは泣いていた。


「私ね、本当はわかってたの。ずっと……ずっと、アンちゃんが私のこと見てたって。そんなの手を繋いだらわかるよ。たった一人の妹だもの……」


 お姉ちゃんが私を強く抱きしめた。


「それなのに私……! 自分のことばっかり考えて……アンちゃんのこと……。心配だったよね……。ごめん……ごめんね……」


 お姉ちゃんは嘘が下手だ。あの時だってそう。私のいたずらを自分がやったと言って庇ってくれた。あいつはそんなお姉ちゃんに手を上げようとしたから、私が全部燃やしたんだ。


「お姉ちゃん……」


 お姉ちゃんを抱きしめた。


 その嘘を信じることにした。


 信じれば、お姉ちゃんが私のものでいてくれるから。


-おわり-

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